現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

大須演芸場の復活なるか

2014-02-05 22:57:16 | 虚無僧日記
「大須観音」と信長ゆかりの「万松寺」との間に広がる
「大須商店街」。私が名古屋に来た20年前は、お年寄り
しか行かず、シャッター通りになりかけたていたが、
「コメ兵」や「アメ横」が出店して、奇跡の復活を遂げた。
今は若者の町に変身。人は増えたが、虚無僧も立ち場所が
なくなった。

逆風は虚無僧だけではない、大須観音の東隣りにある
「大須演芸場」も、ついに閉鎖の憂き目となった。 

大須演芸場は1962年に建てられ、多くの落語家、
漫才師、演芸家が舞台に立ったが、半世紀、何度も閉鎖の
危機に見舞われながら、なんとかしのいできた。

木造2階建てで、座席数は約250席。古今亭志ん朝、
ビートたけし、明石家さんまも出演したことがある。
楽屋の化粧台の裏側には、1975年に「明石家さんま」が
出演した時の落書きが。「今日も客なし 明日は?」と
書かれている。

この世界で「つ離れ」というのだそうだ。「一つ、二つ、
三つ」と「九つ」までは「つ」が付くが、「10」には
「つ」がつかない。お客が10人はいると「つ離れ」。
これでは出演者にギャラも払えない。

こうして半世紀、いよいよ閉鎖と決まると、連日満席、
立ち見の客も出るほどだったとか。
昨年、「御園座」が閉鎖になった時も、連日大入り
満員だった。

東京上野人形町の「末広亭」は1970に閉鎖となった。
私も「末広亭」に前座で出演したことがあった。その時も、
お客さんは10名ほど。私が呼ばれたのは、客を連れてきて
欲しいためだったのだと後で解った。

劇場はどこも経営難。「経営努力が足りない」と言うが・・・。
「カレーのCoCo一番」の創業者「宗次」氏が創設した
「宗次ホール」は、毎日、昼夜2回、年500公演を
めざして、さまざまな企画、音楽家の発掘を行っているが、
それでも赤字という。吉本興業でさえ、劇場を閉鎖している。


さて、そこへ本日、美容整形外科「高須クリニック」の
「高須克弥」院長が、大須演芸場の救済に名乗り出た。

大須演芸場の賃料滞納金約1000万円と、一年分の
賃料240万円を肩代わりするという。高須氏は愛知県
西尾市の出身。

高須氏は、「志の高い席亭さんの奮闘努力の甲斐もなく、
力つきた大須演芸場。全ての病根が明らかになったぜ。
いまからカンフル注射して生き返らせるぜなう」と
ツイート。

さて、どのような再生術があるというのだろうか。
それこそ“見もの”。

佐村河内、偽作問題

2014-02-05 15:41:55 | テレビ・映画・芸能人
「言い訳できない」佐村河内さんの曲は別人作 出荷や配信停止…関係者に衝撃(産経新聞) - goo ニュース


「被爆2世、全聾の作曲家・佐村河内守(さむらごうち・まもる)」の
作品が、別の人物が作ったものだったとのこと。NHKでも朝の
ニュース、トップで報じた。昨年「NHKスペシャル」で紹介した
責任があるからだ。

私もそのNHKスペシャルを観て「佐村河内」のことを知った。
しかしなぜか「辻井伸行」の時ほどの感動はおぼえなかった。

NHKの映像では、作曲しているところがあまり映されなかった
からである。当人は奇病で、光に当たると全身が痙攣するとか、
暗がりの中でしか作曲しないという。なんか怪しかった。

“全聾”で作曲できる理由も、はっきりと明かされなかった。
作曲しても、その曲を聴くことができない。それなのに「なぜ
作曲したいのか」その理由もわからなかった。

なにか釈然としない番組だった。また「今世紀最大の交響曲」と
騒がれるほどの感動はなかった。何か計算された音だからだ。

それにしても、実際に作曲した人は誰なのか。なぜ表に出れない
のか。今になって、佐村河内とトラブル起こしたか、それを
バラすとは、情けない人だ。

松本清張にもゴーストライター疑惑はあったし、大学教授や
研究所でも、部下の研究を自分のものにする話は よくある。
バラすことが“正義”。それも怖い。





市川猿翁『私の履歴書』 2

2014-02-05 13:44:25 | テレビ・映画・芸能人
日系新聞 2/5 文化欄「私の履歴書」市川猿翁 ⑤ 

「市川猿翁(前代「猿之助」)」氏が慶応中等部時代の
話が書かれていました。
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中等部時代は慶応の10年で一番楽しかった。一年の担任は
「ワンマン」の加藤さん。この学校は「○○先生」と呼ばず、
「○○さん」で呼ぶ。2年3年の担任は「西村さん。私が
「長兵衛」とあだ名をつけた。
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そうなのです、慶応では「福沢諭吉先生」だけが「先生」で、
塾生はすべて先輩後輩の仲。大学教授でも公には「○○君、
○○さん」。それは「福沢諭吉先生」がオランダ語も英語も
独学で学んだことから、「他人から学ぶのは恥」という精神に
よるもの。だから慶応には「教える教師=先生」はいない
のです。

私も、一年の担任は「加藤一男」さん。「一男」だから
「ワンマン」。国語は「西村長兵衛」さんで、あだなは
「ちょーべー」。

歌舞伎観賞会の時、『お染め久松』で「猿之助(当時)」が
「綱町のちょうべえ、あれも丁稚」と、ことさらゆっくり
大きな声を張り上げた。あの時は、中等部の生徒だけが、
どっと笑い声をあげ、他のお客さんは「??」だった。

また『梶原平三、誉れの石切』では、事前に鑑賞の手引きが
あり、「六郎太夫が“斬り手も斬り手”とほめ、梶原が
“剣も剣”と賛える場面があり、その後で、間髪入れず、
客席から「役者も役者」と声が掛かる。まちがっても
「役者はだいこん」と言わないように」と教わっていた。

それで、その場面がくると一瞬 息詰まる間。客席から
「役者も役者」との声が挙がらなかったので、中等部生は
大爆笑。

あの鑑賞会で、歌舞伎とは「堅苦しい古典芸能ではなく、
観客とともに楽しむもの」と教わったのでした。

さて、「猿翁」は慶応高校のことも書いている。「私は
授業中止の交渉役で、しょっちゅう、授業を中止させた」と。
さらに、「大きな声ではいえないが」と悪ふざけの実態も
書いています。

そう、勉強は“自学自習”の精神ですから、授業は
しょっちゅう「○○さんお休み」でした。それでも
私のクラスからは、東大に進学したのが二人。
数人が医学部に進み、 医者になっています。
そうそう、オウムの「林郁男」も、妻の「芦田りら」も
そうでした。


そして役者は「猿翁」だけでなく、市川右近。
タレントでは 二谷友里恵、菊池麻衣子。宝塚の陵あきの。
テニスの松岡修造。ピアニストの中村紘子さん、
バイオリニストの千住真理子さんも中等部出身。

小学校では“神童”といわれた私は、慶応では“落ちこぼれ”。
でも、「世界でオンリーワン、ナンバー1の虚無僧でござる。
ま、ユニークな人材を多く出しているのも中等部の校風です。