現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

フィギア・スケート 疑惑の金メダル

2014-02-21 20:51:40 | 虚無僧日記
まさかのソトニコワ金 海外メディアからも疑念の声(聯合ニュース) - goo ニュース

テレビも無い生活の私。関東甲信越が“恐ろしいほどの大雪”で
大変なことになっているとは、facebookで、伊那のKさんや
御殿場のWさんの写真を見てようやく理解できました。

もひとつ、ソチのオリンピックもネットだけでは、やはり
臨場感が伝わりませんな。結果だけみて、あれこれ想像を
めぐらせておりやす。

さて、注目の女子フィギア・スケート。「金は、ロシアの
新鋭アデリナ・ソトニコワ」。“まさか”の金と騒がれて
おるようです。

SP、フリーともに完璧な演技をした韓国の「キム・ヨナ」を
上回る得点が理解できないと、疑惑の声。「主催地ロシア贔屓の
採点」というものです。

当のキム・ヨナは「ノーミスで終えたことに満足」、採点結果に
ついては「思い通りにできるものではないので、受け入れなければ
ならない。私より周囲の人たちが怒っている」と、冷静さを
保っていた。成長したものだ。

前回は、キム・ヨナの高得点に、さんざん疑問の声が上がって
ましたな。審査員の買収が明らかになったのでしたっけ。

それより、こちらの「漫画」による解説で、「審査員は素人」
ということを知りびっくり。スポーツ音痴の私、どうも、
結果が釈然としないスポーツって、やっぱり好きになれません。


「覚心」のもうひとつの寺「妙光寺」

2014-02-21 13:58:56 | 虚無僧日記
「法燈国師覚心」といえば、紀州由良の興国寺の開山ですが、
なんと京都にも「覚心」が開いた寺があります。

京都市右京区鳴滝にある臨済宗建仁寺派の寺「妙光寺」。
こちらのサイトに「法燈国師覚心」のことが、実に
詳細に書かれていました。

「妙光寺」は 弘安8年(1285)に「覚心(1207~98)」に
よって開創された寺とされていますが、実は「覚心」は
ここには長く留まっていません。

弘安4年(1281)亀山上皇は 覚心を都に招いて 禅について
尋ねた。そのときの覚心の回答に感心した上皇は、禅寺を建て、
覚心を開山第一祖としようとしたが、覚心は謝絶し、夜 密かに
抜け出して、紀州の西方寺に帰ってしまったのです。

弘安8年(1285)覚心79歳の時、内大臣「花山院師継(1222~81)」が
北山に妙光禅寺を建て、覚心を開山として迎えたいと
要請した。

しかし無本覚心は 西方寺に留まったままで 京都に来なかった。
「前年に天皇のお心に背いて 西方寺に帰ってきてしまったので
あり、花山院のために上京したのでは、礼を失する」という
道理である。

妙光寺としては「衣鉢を師に返し、塔院を破却しよう」とまで
憤ったが、そんな心情を察して、覚心は突如上洛し、妙光寺に
参じ、また宮中に参内して天皇に謁見し、西方寺に帰った。

その後、覚心の弟子、高山慈照、東海竺源、孤峰覚明、無住思賢の
4人が 妙光寺の住持となっている。


1333年、後醍醐天皇が、鎌倉に叛旗を翻し蜂起した時、三種の
神器とともに妙光寺に行幸している。以後、花山院は南朝方として
仕える。

覚心の弟子(二代目)「孤峰覚明」は、貞和年間(1345~50)の
初めに 妙光寺の住持となった。都の僧俗は争って拝謁し、
足利尊氏(1305~58)・直義(1306~52)兄弟も参禅した。

尊氏・直義兄弟は、後鳥羽院の古廟を改めて寺院とし、
孤峰覚明を開山第一祖にしようと、再三要請したが、
孤峰覚明は拒絶して、夜 ひそかに遁走した。

紀州由良の「西方寺」が「興国寺」と改称するのは、
1340~1346の南朝「興国」年間に、孤峰覚明が南朝二代目の
「後村上天皇」の帰依を受けて、南朝の元号である「興国」を
拝命したからである。

このような経緯で「興国寺」は二代目の「孤峰覚明」以来
南朝方となった。



「味噌神社」に祀られているのは

2014-02-21 09:23:06 | 虚無僧日記
長野市にある「長野県味噌工業協同組合連合会」の敷地内に、
「味噌神社」というのが建てられたそうな。岡谷市の南信支所(研究所)
の敷地内にも「味噌神社」が置かたとか。

神社なのに、そこに祀られているのは・・・・・?。「放燈国師覚心」。
「覚心」といえば、紀州由良の興国寺の開山。それがなぜ長野に?

実は、「覚心」は、鎌倉時代、信州神林(現長野県松本市)の出身。
中国(宋)に渡り、浙江省杭州の「径山寺」や鎮江府の「金山寺」で
禅を学び、ついでに味噌の製法も学んで、日本に伝えた。つまり
「径山寺(金山寺)味噌)」を日本に伝えた人というわけ。

覚心は、承元元年(1207年)に生まれ、永仁6年(1298年)に91才で
亡くなった。「味噌」は健康に良いという証(あかし)ですか。

嘉禎元年(1235年)、奈良東大寺で得度・受戒し、高野山で真言密教を学び、
臨済宗栄西の法嗣である退耕行勇、曹洞宗の道元にも学んだ後、宝治3年
(1249年)に宋へ渡った。そこで無門慧開に学び、「無門関」を日本に
持ち帰った。

そして、紀州(和歌山県)由良町の「西方寺(後の興国寺)」開山と
なった。そして、故郷の信州に行き、母を由良へ連れて帰っています。

歿後、亀山上皇からは「法燈禅師」、後醍醐天皇からは「法燈円明国師」と、
師号をおくり名された。

史実に残る「覚心」の功績は「無門関」と「味噌」を日本に持ち帰った
ことですが、そこに虚無僧が便乗して「座禅と読経の代わりに尺八を吹く
普化宗(ふけしゅう)」も、日本にもたらしたとして、虚無僧たちは
「法燈国師覚心」を「日本普化宗の開祖」に祀り上げています。

それを示す、正規の史料は全くないので真偽のほどは不明なのです。