短編小説(フィクション)です。
『安達太郎(あだたら)残照』
東北本線で郡山から福島に向かう途中、二本松を過ぎる頃。
祐一郎は左手奥に連なる山々を眺めていた。
すると「あれが、会津磐梯山かぁ?」と、後ろの席でつぶやく
男の声が聞こえた。ここからは、磐梯山は見えない。
「いや、あれは、安達太郎山(あだだらさん)ですよ。ほら、
『あれが阿多多羅山(あだたらやま)、あの光るのが阿武隈川』
って、高村光太郎の『智恵子抄』に あるじゃないですか」。
と、後ろの人に教えてあげたが、後ろから応答はなかった。
自分の思い込みを否定されてムッとしたのだろうか。『智恵子抄』を
知らなかったのだろうか。昔なら、こうして旅は道ずれ、会話を
楽しんだものだが、きょうび、見ず知らずの人との会話は続かない。
余計なことを言ったと、裕一郎は後悔した。
その安達太郎山を見ながら、祐一郎は 30年も前の思い出に
ひたっていた。 裕一郎は、中学の頃から 毎年 夏と冬の休みには
安達太郎山の西側にある沼尻温泉に 遊びに行っていた。ここは
湯治客専用の宿だった。祐一郎は 身体が悪いわけではない。
名目は絵を描きに。夏、冬それぞれに景色はすばらしかった。
冬はスキーもできる。ここはスキー場としては古く、日本で
最初にジャンプ台が作られたという由緒あるスキー場だったが、
交通の便が悪く、穴場で、比較的すいていた。
祐一郎が 毎年、夏冬に訪れるのには、もうひとつ理由が
あった。おめあては、温泉宿の娘 ○○子さんだった。
といっても、初めて会った時の彼女はまだ小学生。彼女は
会津若松にも家があって、夏休みと冬休みに、手伝いに
来ているのだった。祐一郎は 毎年行って何日も逗留して
いたから、もうすっかり家族同様の待遇で、食事も一緒
だった。
安達太郎山は 標高 1,700m。活火山で江戸時代以前から
硫黄の採掘が行われていた。それが 明治33年(1900年) 、
沼の平で水蒸気爆発が起こり、死者72名という惨劇が起きた。
であるから、30年前は、まだ火口から噴煙が上がっていて、
硫化水素ガスも出、近寄ると危険な場所でもあった。
祐一郎は 絵になる風景を求めて、周辺の山々や沼を散策した。
そこに彼女も着いてきた。2人でスキー場のジャンプ台の上から
見た景色は忘れられない。幾重にも重なる山ひだの向こうに
会津磐梯山が浮き上がっていた。
そして、祐一郎が高校3年、彼女が中学3年の時。二人で
「安達太郎山に登ってみよう」ということになった。沼尻から
登れば、そうたいしたことはないと、タカをくくっていた。
食料も着替えも 持たずに散歩気分だった。
ところが、山を甘くみてはいけない。山頂で深い霧に包まれ、
帰る道がわからなくなった。山頂付近は 乳頭山とも呼ばれるように、
がれきの石ばかりが高く積み上げられていたから、山頂に立つと、
360度 どちらに下りたらよいのか 皆目判らなくなって
しまったのだ。磁石も持っていなかった。山頂から蚊取線香のように、
グルグル周りながら、おそるおそる下りた。五里霧中とはこのことか
と思った。霧はやがて 細かい雨になった。林の中を道を求めて
さまよった。当時、携帯もない。やがて陽が暮れる。夜は漆黒の闇で、
足元も見えない。岩陰に身をひそめて朝を待つしかない。二人肩を
寄せ合って時を過ごした。
朝4時頃から空が白みはじめる。うす明かりの中、どこを
どう通ったか 覚えがないが、ようやく宿に帰りついた。
皆が寝静まっているうちに、もぐりこもうと思っていたが、
彼女の両親も一睡もせずに 夜を明かしたとみえて 憔悴しきって
いた。大目玉はくらわなかったものの、心配と怒りが身体から
みなぎっていた。
このことがあって、私は気まづくなり、沼尻には行かなく
なった。それから2年後。私は大学生になっていた。5月の
ことだった。新聞の片隅に載ったニュースに足が震えた。
「秋元湖の奥で、若い女性の遺体が発見された」という記事。
「女性は1月から行くへ不明になっていて、5月雪解けを待って
探しにきた父親が発見した。そこは秋元湖にそった林道で
行き止まりの道だから、人が通ることはめったに無い」
とのこと。どうして、そんなところに迷いこんだのだろう。
自殺だったのか。そういえば「死ぬなら雪山がいい。人
知れず、きれいに死ねる」というようなことを私は彼女に
語ったことがあった。
自殺か事故死か、自殺ならなぜ? 私は一生この責めを負う
ことになる。その年の冬、私は死ぬ覚悟で、秋元湖の湖岸の
雪道を歩いた。彼女が死んだ場所はどこだろうか、ここだろうか。
雪の中を 一晩さまよい歩いたが、自分は死ねなかった。
こうして、30年を悶々と生きた。
30年経って、福島からレンタカーを借りて、吾妻・磐梯
スカイラインを通って 沼尻温泉に向かった。新たにドライブ
ウェイが出来、人跡未踏の原始林の中を 車で突き抜ける。
はて、あの温泉宿はこの辺だったはずだが。何度も
通った所だが、道がすっかり変わっていて、思いだせない。
途中「横向ロッジ」が廃墟になっていた。そこから辿って、
ここだろうかと思うところに、宿はなかった。跡形もなく
消えていた。
「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川
あなたと二人静かに燃えて 手を組んでゐる よろこびを、
下を見てゐるあの白い雲に かくすのは止しませう」
彼女と口ずさんだ『智恵子抄』の一節。それをまた口にする。
『安達太郎(あだたら)残照』
東北本線で郡山から福島に向かう途中、二本松を過ぎる頃。
祐一郎は左手奥に連なる山々を眺めていた。
すると「あれが、会津磐梯山かぁ?」と、後ろの席でつぶやく
男の声が聞こえた。ここからは、磐梯山は見えない。
「いや、あれは、安達太郎山(あだだらさん)ですよ。ほら、
『あれが阿多多羅山(あだたらやま)、あの光るのが阿武隈川』
って、高村光太郎の『智恵子抄』に あるじゃないですか」。
と、後ろの人に教えてあげたが、後ろから応答はなかった。
自分の思い込みを否定されてムッとしたのだろうか。『智恵子抄』を
知らなかったのだろうか。昔なら、こうして旅は道ずれ、会話を
楽しんだものだが、きょうび、見ず知らずの人との会話は続かない。
余計なことを言ったと、裕一郎は後悔した。
その安達太郎山を見ながら、祐一郎は 30年も前の思い出に
ひたっていた。 裕一郎は、中学の頃から 毎年 夏と冬の休みには
安達太郎山の西側にある沼尻温泉に 遊びに行っていた。ここは
湯治客専用の宿だった。祐一郎は 身体が悪いわけではない。
名目は絵を描きに。夏、冬それぞれに景色はすばらしかった。
冬はスキーもできる。ここはスキー場としては古く、日本で
最初にジャンプ台が作られたという由緒あるスキー場だったが、
交通の便が悪く、穴場で、比較的すいていた。
祐一郎が 毎年、夏冬に訪れるのには、もうひとつ理由が
あった。おめあては、温泉宿の娘 ○○子さんだった。
といっても、初めて会った時の彼女はまだ小学生。彼女は
会津若松にも家があって、夏休みと冬休みに、手伝いに
来ているのだった。祐一郎は 毎年行って何日も逗留して
いたから、もうすっかり家族同様の待遇で、食事も一緒
だった。
安達太郎山は 標高 1,700m。活火山で江戸時代以前から
硫黄の採掘が行われていた。それが 明治33年(1900年) 、
沼の平で水蒸気爆発が起こり、死者72名という惨劇が起きた。
であるから、30年前は、まだ火口から噴煙が上がっていて、
硫化水素ガスも出、近寄ると危険な場所でもあった。
祐一郎は 絵になる風景を求めて、周辺の山々や沼を散策した。
そこに彼女も着いてきた。2人でスキー場のジャンプ台の上から
見た景色は忘れられない。幾重にも重なる山ひだの向こうに
会津磐梯山が浮き上がっていた。
そして、祐一郎が高校3年、彼女が中学3年の時。二人で
「安達太郎山に登ってみよう」ということになった。沼尻から
登れば、そうたいしたことはないと、タカをくくっていた。
食料も着替えも 持たずに散歩気分だった。
ところが、山を甘くみてはいけない。山頂で深い霧に包まれ、
帰る道がわからなくなった。山頂付近は 乳頭山とも呼ばれるように、
がれきの石ばかりが高く積み上げられていたから、山頂に立つと、
360度 どちらに下りたらよいのか 皆目判らなくなって
しまったのだ。磁石も持っていなかった。山頂から蚊取線香のように、
グルグル周りながら、おそるおそる下りた。五里霧中とはこのことか
と思った。霧はやがて 細かい雨になった。林の中を道を求めて
さまよった。当時、携帯もない。やがて陽が暮れる。夜は漆黒の闇で、
足元も見えない。岩陰に身をひそめて朝を待つしかない。二人肩を
寄せ合って時を過ごした。
朝4時頃から空が白みはじめる。うす明かりの中、どこを
どう通ったか 覚えがないが、ようやく宿に帰りついた。
皆が寝静まっているうちに、もぐりこもうと思っていたが、
彼女の両親も一睡もせずに 夜を明かしたとみえて 憔悴しきって
いた。大目玉はくらわなかったものの、心配と怒りが身体から
みなぎっていた。
このことがあって、私は気まづくなり、沼尻には行かなく
なった。それから2年後。私は大学生になっていた。5月の
ことだった。新聞の片隅に載ったニュースに足が震えた。
「秋元湖の奥で、若い女性の遺体が発見された」という記事。
「女性は1月から行くへ不明になっていて、5月雪解けを待って
探しにきた父親が発見した。そこは秋元湖にそった林道で
行き止まりの道だから、人が通ることはめったに無い」
とのこと。どうして、そんなところに迷いこんだのだろう。
自殺だったのか。そういえば「死ぬなら雪山がいい。人
知れず、きれいに死ねる」というようなことを私は彼女に
語ったことがあった。
自殺か事故死か、自殺ならなぜ? 私は一生この責めを負う
ことになる。その年の冬、私は死ぬ覚悟で、秋元湖の湖岸の
雪道を歩いた。彼女が死んだ場所はどこだろうか、ここだろうか。
雪の中を 一晩さまよい歩いたが、自分は死ねなかった。
こうして、30年を悶々と生きた。
30年経って、福島からレンタカーを借りて、吾妻・磐梯
スカイラインを通って 沼尻温泉に向かった。新たにドライブ
ウェイが出来、人跡未踏の原始林の中を 車で突き抜ける。
はて、あの温泉宿はこの辺だったはずだが。何度も
通った所だが、道がすっかり変わっていて、思いだせない。
途中「横向ロッジ」が廃墟になっていた。そこから辿って、
ここだろうかと思うところに、宿はなかった。跡形もなく
消えていた。
「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川
あなたと二人静かに燃えて 手を組んでゐる よろこびを、
下を見てゐるあの白い雲に かくすのは止しませう」
彼女と口ずさんだ『智恵子抄』の一節。それをまた口にする。