さて、京都所司代板倉周防守重宗の特別のはからいで
妙法院門跡の一画に土地を借り、「妙安寺」を建てて
住むこととなった「淵月了源」の素性について、私は
次のように推理してみた。
推論の根拠は、次の三つの史料。
①小田原北条家では、早雲の遺児「幻庵」が尺八を吹き、
尺八(当時は「一節切」)製作の名人だったことから、北条家の
家臣の多くが尺八をたしなんだ。「茶会」などにも虚無僧の
格好で出席するのが流行った。(虚無僧といっても当時は
天蓋や、ゲ箱などは無い)
②天正18年(1590)、秀吉による小田原攻めで、北条家は
滅亡するが、当主の「氏直」は家康の娘婿であったため、
死一等を減ぜられ、高野山に幽閉される。
この時、付き従った家臣は300名。
高野山には「小田原別所」という地名もある。
「氏直」は、まもなく病死し、300名の家臣は路頭に迷う
ことに。
③豊臣政権下で五奉行の筆頭だった「淺野幸長」は、
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで、東軍に加わり、
その恩賞として、紀州37万石の太守となる。そして
信長・秀吉によって打ち壊された興国寺を再建する。
その時、「荒れた寺に虚無僧たちが多く棲みついて
いたのを追い払った」という記録がある。
④「淵月了源の申し伝え」という書が、尺八都山流の家元
中尾都山氏宅に保管されているそうな。「淵月」の後継
「月山宗桂」は、1695年、「淵月の申し伝えにより」、
「淵月」の遺骨を、紀州由良の興国寺に分骨埋葬し、
興国寺に対して「明暗寺の本寺」となってくれるよう
申請している。興国寺としてはこの申し出を無視していたが、
明暗寺より、「今後、明暗寺の看主は興国寺で得度受戒をし、
死後は興国寺に埋葬してもらう。そのためのしかるべき金を
納める」との申し入れで、3年後、明暗寺を末寺とした。
しかし、その後、興国寺の親寺、大本山「妙心寺」から
「明暗寺を末寺にするとは、いかなる理由か」と詰問を
受けている。これについて興国寺側からは「なんでも、
その昔、つながりがあったようだが、文書が火事で焼けて
しまって不明」と回答している。
以上の史料から推察するに。
「淵月了源」は、小田原北条家の家臣で、氏直に従って高野山に入った
300人の家臣団の一人だったのではなかろうか。北条氏の家臣は
「幻庵」の影響で、みな尺八が吹けた。
そして氏直没後、彼らは浪人して興国寺に虚無僧となって隠れ住んだ。
しかし淺野氏が紀州に入封し、興国寺を再興した折、追い払われることに。
それで、淵月は、紀州を離れ京都の白川のほとりに住んでいたところ、
京都所司代から、浪人詮議で呼び出しを受ける。彼は北条家の遺臣で
あったことから、所司代板倉重宗は同情し、彼の口利きで、妙法院の一画に
草庵を建ててもらい住むことになった。そして遺言で興国寺に分骨、埋葬
されることを願った。
「淵月」は、妙法院ではなく、なぜ「興国寺」を指名したのか。実は「興国寺」は
北条家と深いつながりがあった。興国寺は当初「西方寺」といい、鎌倉北条氏の
ご家人「葛山氏」が「実朝」と「北条政子」の菩提を弔うために建てた寺だった。
北条早雲の子「幻庵」の母は葛山氏であり、「幻庵」は葛山姓を名乗った
時期もあった。そのような縁で、高野山で浪人となった北条家の家臣たちは
興国寺を頼ったのではないだろうか。
虚無僧研究会の会報「一音成仏」32号に詳述しております