現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

誰も知らない妙法院の謎

2015-11-08 19:53:42 | 虚無僧って?

妙法院(みょうほういん)は、京都市東山区にある天台宗の寺院。

山号は「南叡山」。開基は比叡山延暦寺と同じく「最澄」と伝える。

「妙法院門跡(もんぜき)」と称するのは、皇族・貴族の子弟が

歴代住持となる別格の寺院(=門跡)であることを意味する。

妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と

並び称されてきた名門寺院である。

また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。

「国家安康」の文字が豊臣家の滅亡となった釣鐘のある「方広寺(大仏)」や

蓮華王院(三十三間堂)を管理する。

なにせ、三十三間堂から豊国神社、大仏まで管下におく、広大な敷地を

有する。そして、この一画、三十三間堂の際、「本池田町」に虚無僧寺の

「明暗寺」があった。ということは、誰も知らない。


虚無僧は「幕府の隠密」?

2015-11-08 19:37:51 | 虚無僧って?

「虚無僧は幕府の隠密だった」という話も、あちこちで
見られる。これも随分と怪しい。まず「公儀隠密」や
「お庭番」のように、幕府から正式に「隠密」として
公認された事実はない。

むしろ、虚無僧の方から「不審な人を見かけたら番所に
お知らせしますので、市中門付け(托鉢)を容認して欲しい
と嘆願しているのだが、虚無僧の方がよっぽど不審者だ。

越後の新発田(村上藩)で、虚無僧が 岡っ引きまがいの
ことをすることに、藩主の了解を得ていたという話が
あるが、これも虚無僧側の一方的な作り話のようだ。

「虚無僧の領内進入禁止」とか「通行は認めるが、
門付けは禁止」とした藩もあった。名古屋でもそうであった。


「虚無僧が幕府の隠密」とされたのは、吉川英治の
『鳴門秘帖』だろうと、私は考えている。
白面の美剣士「法月(のりづき)弦ノ丞」が、幕府の
命を受けて「虚無僧姿」となって阿波(徳島)に潜入する
というストーリー。
「虚無僧姿」では目立ち過ぎだ。あの格好で どうやって
海を泳いで渡るのだ。刀はどこに隠していたのか。
まったく辻褄の合わない荒唐無稽な小説だが、映画で
「長谷川一夫」や「市川雷蔵」「杉良太郎」ら 美男の
俳優が演じて、虚無僧がヒーローとなった時代があった。

ついでながら、吉川英治は「虚無僧」がよっぽど好きで、
『親鸞』にまで「虚無僧」が登場してくる。虚無僧は
室町時代の末に現れるのであって、平安・鎌倉の世には
存在しないのだ。


偽造された「家康公・慶長のお墨付」

2015-11-08 19:37:20 | 虚無僧って?

虚無僧へ与えられたといわれる『家康公お墨付』に、
「板倉勝重」が「本田正信・正純」父子とともに署名
している。ありえないことらしい。

「板倉勝重」は京都所司代だった。その子「板倉重宗」も
父の跡を継いで京都所司代となった。

「板倉重宗」が京都所司代の時(1620-1656)、寛永15年
(1638)「島原の乱」が起き、弟の「重昌」が総大将として
派遣され戦死する。

乱の後、浪人の取締りが厳しくなり、京都白川橋辺に仮住まい
していた虚無僧「淵月了源」も京都所司代に呼びだされる。
「淵月」は「尺八をよすがとして暮らすもので、ご政道に
そむくような不埒な心は起こしませぬ」というような
申し開きをし、所司代重宗は「その心にいたく感じ、尺八
を吹く者は悪さをするまい」と、妙法院の裏に45坪の
土地を斡旋してくれ、一宇を建ててくれた。それが「京都
明暗寺」である。

「京都所司代・板倉重宗」は、弟「重昌」が尺八を吹いていた
ことから、虚無僧「淵月」に好意を示したのであろう。

この「京都所司代・板倉重宗」が虚無僧を容認してくれた
ことから、後世、虚無僧たちは、勝手に「家康公お墨付」を
偽作し、その署名人に「重宗」の父で京都所司代の「勝重」の
名を盗用したのではないかと私は考えている。

なお、「板倉重宗」の遺品の中に「普化禅師」を描いた
掛け軸があった。「重宗」は「普化」を知っていたことになる。


建仁寺が虚無僧の発祥の地?

2015-11-08 19:36:45 | 虚無僧って?

ブログを見ていたら、京都建仁寺の法堂の中で
虚無僧姿の数人が尺八を献奏している写真があり、
説明に「ここ(建仁寺)が虚無僧の発祥地とのこと」
とあった。

「そんな史実は知らない」と以前、書いたが、竹友社の
H.P.に、こんな記述を見つけた。

琴古流川瀬派の創始者、川瀬竹友が若い頃、西国へ
虚無僧の旅に出た時、京都で樋口対山に会っている。
建仁寺は、樋口家の菩提寺で、対山の紹介で、竹友
は建仁寺に参禅した。その一部始終が詳しく綴られ
ている。

樋口対山は名古屋の人。初め“鈴木孝道”といい、
名古屋で西園流尺八を修め、後京都に出て、樋口家
の養子となり、樋口対山を名乗る。

京都の虚無僧寺『明暗寺』は、明治4年廃寺となり、
最後の看主昨非は本尊の「虚竹の像」他什物を、
親交のあった東福寺善慧院に預けて出奔する。
明治21年、東福寺の本堂が全焼し、尺八愛好家たち
の発案で、「東福寺の復興に浄財を集める」という
趣意で「明暗教会」が設立された。そして樋口対山
が代表となり、「明暗流」を復活することとなる。

つまり、現在の明暗流は、樋口対山が再興したもの
で、その菩提寺が建仁寺。対山の墓もあるのかも。

実は、私は、昨年京都に虚無僧に行った時、偶然、
建仁寺にお参りし、周辺を周った。樋口対山の菩提
寺とは知らず。これも呼ばれたのかもしれない。



虚無僧寺「京都明暗寺」の創建秘話

2015-11-08 19:35:33 | 虚無僧って?

江戸時代の貞享3年(1688)年、黒川道祐によって刊行された

京都の観光案内本『蕹州府志』 には「明暗寺」が「妙安寺」と

なっている。はて“妙”なこと。「蕹州」とは「山城国=京都」のこと。

虚無僧が「普化禅師」を祖師と仰ぎ、「普化」の「明頭来明頭打、

暗頭来暗頭打」を唯一の教義とするならば「明暗」を「妙安」と

誤記するはずがない。

そこで私は考えた。「普化」と「明頭来」の教義は、江戸時代の

はじめにはなかった。

現代の虚無僧は「げ箱」に「明暗」と書いているが、そのような

「げ箱」は江戸時代の浮世絵、錦絵には描かれていないのだ。

そこで「明暗寺」の創建秘話を紹介しよう。

寛永14年(1637年)の暮れに勃発し、翌、寛永15年(1638年)の

春に収束した「島原の乱」後、幕府は「浪人狩」を行う。

そこで、京都の白川橋辺に住んでいた虚無僧「淵月了源」も

京都所司代に呼び出される。時の所司代は「板倉重宗」。

島原の乱平定の総指揮官となり討ち死にした「板倉重昌」の

弟。兄の「重昌」は尺八の名手でもあった。そこで、浪人は

捕らえて追放にでも処するところだったが、「重宗」は虚無僧の

「淵月」に同情し、妙法院の一画、三十三間堂の南に40坪

ばかりの土地を借りてやり、草庵を建てて住まわせることとした。

これが、後の「明暗寺」。妙法院の一画だから「妙安寺」と

名づけたのではないだろうか。場所は「本池田町」というから、

現在、東海道線が走っているあたり。なんと、そのすぐ南は

「東福寺」である。幕末に「明暗寺」の最後の看手「明暗昨非」が

寺の本尊「虚竹禅師」の像や什物一切を持ち出し、親しくしていた

「東福寺」の塔中「善慧院」に預けて出奔したのも、お隣り

さんだったからなのだ。

 


明暗寺はなぜ興国寺を親寺としたのか

2015-11-08 19:34:22 | 虚無僧って?

 さて、京都所司代板倉周防守重宗の特別のはからいで

妙法院門跡の一画に土地を借り、「妙安寺」を建てて

住むこととなった「淵月了源」の素性について、私は

次のように推理してみた。

推論の根拠は、次の三つの史料。

①小田原北条家では、早雲の遺児「幻庵」が尺八を吹き、

尺八(当時は「一節切」)製作の名人だったことから、北条家の

家臣の多くが尺八をたしなんだ。「茶会」などにも虚無僧の

格好で出席するのが流行った。(虚無僧といっても当時は

天蓋や、ゲ箱などは無い)

②天正18年(1590)、秀吉による小田原攻めで、北条家は

滅亡するが、当主の「氏直」は家康の娘婿であったため、

死一等を減ぜられ、高野山に幽閉される。

この時、付き従った家臣は300名。

高野山には「小田原別所」という地名もある。

「氏直」は、まもなく病死し、300名の家臣は路頭に迷う

ことに。

③豊臣政権下で五奉行の筆頭だった「淺野幸長」は、

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで、東軍に加わり、

その恩賞として、紀州37万石の太守となる。そして

信長・秀吉によって打ち壊された興国寺を再建する。

その時、「荒れた寺に虚無僧たちが多く棲みついて

いたのを追い払った」という記録がある。

「淵月了源の申し伝え」という書が、尺八都山流の家元

中尾都山氏宅に保管されているそうな。「淵月」の後継

「月山宗桂」は、1695年、「淵月の申し伝えにより」、

「淵月」の遺骨を、紀州由良の興国寺に分骨埋葬し、

興国寺に対して「明暗寺の本寺」となってくれるよう

申請している。興国寺としてはこの申し出を無視していたが、

明暗寺より、「今後、明暗寺の看主は興国寺で得度受戒をし、

死後は興国寺に埋葬してもらう。そのためのしかるべき金を

納める」との申し入れで、3年後、明暗寺を末寺とした。

しかし、その後、興国寺の親寺、大本山「妙心寺」から

「明暗寺を末寺にするとは、いかなる理由か」と詰問を

受けている。これについて興国寺側からは「なんでも、

その昔、つながりがあったようだが、文書が火事で焼けて

しまって不明」と回答している。

 

以上の史料から推察するに。

「淵月了源」は、小田原北条家の家臣で、氏直に従って高野山に入った

300人の家臣団の一人だったのではなかろうか。北条氏の家臣は

「幻庵」の影響で、みな尺八が吹けた。

そして氏直没後、彼らは浪人して興国寺に虚無僧となって隠れ住んだ。

しかし淺野氏が紀州に入封し、興国寺を再興した折、追い払われることに。

それで、淵月は、紀州を離れ京都の白川のほとりに住んでいたところ、

京都所司代から、浪人詮議で呼び出しを受ける。彼は北条家の遺臣で

あったことから、所司代板倉重宗は同情し、彼の口利きで、妙法院の一画に

草庵を建ててもらい住むことになった。そして遺言で興国寺に分骨、埋葬

されることを願った。

「淵月」は、妙法院ではなく、なぜ「興国寺」を指名したのか。実は「興国寺」は

北条家と深いつながりがあった。興国寺は当初「西方寺」といい、鎌倉北条氏の

ご家人「葛山氏」が「実朝」と「北条政子」の菩提を弔うために建てた寺だった

北条早雲の子「幻庵」の母は葛山氏であり、「幻庵」は葛山姓を名乗った

時期もあった。そのような縁で、高野山で浪人となった北条家の家臣たちは

興国寺を頼ったのではないだろうか。

 

虚無僧研究会の会報「一音成仏」32号に詳述しております