本を処分する前にと、助野健太郎著 『島原の乱』( 東出版 S42年刊) を読んだ。
あらゆる史料を網羅して掲載してある。一揆軍と制圧軍との間で取り交わされた矢文など、 よくぞ残っていたものと感心する。私の関心事は、
1.一揆鎮圧に最初は「会津藩主保科正之」が、閣老全員一致で推挙されたが、将軍家光が反対した。
2.その結果、回りまわって「板倉内膳正重昌」となった。「板倉正昌」は京都所司代「板倉重宗」の 弟で当時50歳。三河額田(現西尾市)の石高わずか1万石の小大名。しかも腫を病んでいた。 (尺八の名手でもあった)。「重昌」は、5年前、細川忠利の熊本入封と小笠原忠実の小倉転封など 九州の諸大名の国替えに 九州に赴き、城引渡しの役を務めたことがあった。その経験から 一揆討伐軍の総指揮官に選ばれた。
幕閣としては、一揆を地方の農民の騒動と軽くみていた。しかし、重昌が九州に到着してみれば、 島原、天草はもぬけの殻、3万7千人もの村民が原城に立てこもっていたのである。 幕閣としても、「板倉重昌」では九州の諸大名を統制するには力不足と察して、新たに “知恵伊豆”といわれた老中「松平伊豆守信綱」を上司として派遣することとなった。 これでは「板倉重昌」としては面子が無い。彼は「伊豆守」が来る前に一揆を鎮圧しなければと焦り、 三度の総攻撃を断行し、あえなく討ち死にしてしまった。二度の失敗に懲りた九州の大名たちは、 三度目の総攻撃命令にそっぽを向いてしまい、「板倉重昌」自身手兵を率いての突進であったから、 覚悟の討ち死にだった。悲劇の人だ。
松平伊豆守は一揆軍を兵糧攻めにすることとし、2ヵ月間、原城を12万の大軍で取り囲み、 敵の兵糧の尽きるのを待った。その費用は、現在の価格に換算して200億円。一揆軍は 兵糧も矢玉も尽き、最後に討って出、3万余全員が殺戮された。
織田信長の比叡山焼き討ち、長島一揆攻めに匹敵する惨劇だったのだ。
史料では随所に「信仰のため」という証言が見られるが、バチカンでは「キリシタン殉教」とは 認めてこなかった。それは「天草四郎時貞」の父で、小西行長の家臣だった「益田甚兵衛好次」 という牢人が 陰の首謀者であり、彼は小西行長はじめ豊臣恩顧の牢人を集めて、西国を制圧し、 徳川の世を転覆するという志の下に、キリシタンの信仰を利用したとされるのが、定まった 見解のようだ。
しかし、その見解もまた、徳川幕府が「島原の乱」をことさら矮小化して、反乱の機運の伝播を 抑えるための方便だったのではと、私には思える。
さて、島原の乱を機に幕府の「牢人狩り」と「キリシタン詮索のための宗旨改め」は厳しくなった。 それで、京都白川辺にいた浪人「淵月了源」が京都所司代に呼び出され、「板倉重宗」の詮議を 受ける。そして「重宗」は「淵月」の心情を汲み、妙法院の一画を借りて「妙安寺」を建ててくれた のである。「重宗」の弟「重昌」が島原で討ち死にしている。「重昌」は尺八の名手でもあった。 そんな思いが、牢人「淵月」に救いの手を差し伸べる動機となったのであろうか。
島原の乱は1637~8年。京都明暗寺(当初は「妙安寺」)の創建は1640~45年頃と考えられる。