現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

正之はなぜ保科家に預けられたのか

2015-11-30 11:16:16 | 会津藩のこと

会津藩祖「保科正之」は二代将軍「秀忠」の子であり、三代将軍「家光」の弟、                   そして四代「家綱」の補佐役として、幕藩体制を支えた。

「正之」の母は秀忠の乳母大姥局の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんお さかよし)の            娘「静(志津、後の浄光院)」。 「正之」の幼名は「幸松」。                            

秀忠の正室は お市の方の娘「お江」。嫉妬深く、側室を持つことを許さなかったという。            「秀忠」は恐妻家だったが、「たったの一度のお手つきで、子ができた」といわれているが、           どうも違うようだ。秀忠は乳母の「大姥局」のもとに度々通っていた。そこで侍女の「お静」と          懇ろになった。静は一度懐妊したが、周囲の勧告で堕胎している。二度目の懐妊だった。

「幸松(正之)」の誕生は老中「土井利勝」を通じて秀忠に伝えられた。やがて「お江」も感づき、        「幸松」は命を狙われたとも。そこで、武田信玄の次女で、穴山梅雪の妻であった                「見性院」に預けられる。         

「見性院」の夫「穴山梅雪信君」は、武田家の一門だったが、天正10年(1582年)、               信長・家康が武田勝頼を攻めた時、家康の誘いに乗って武田を裏切り、武田家の滅亡に導く。        その直後、穴山梅雪は家康に従って上洛、安土で信長に面会し、堺へ旅する。                  ところが、その間に 信長が本能寺の変で明智光秀に討たれる。                                      堺にいた家康はいち早く、伊賀越えで岡崎に帰着。家康と行動を別にした梅雪は土豪に             襲われて横死する。

家康は、側室で武田家臣・秋山氏の娘「於都摩の方(下山殿)」が生んだ五男・万千代を            「武田信吉」として、穴山武田家の再興を約束する。しかしその信吉は常陸国水戸の領主           となるが、慶長8年(1603年)に病死し、穴山武田氏は断絶する。                          その後、見性院は家康・秀忠に庇護されて武蔵国足立郡大間木村に500石を拝領し、             江戸城田安門内の比丘尼邸に居住していた。見性院は信玄の娘で妹の「信松尼」とともに          武蔵国八王子で幸松丸の養育にあたる。「幸松丸」が見性院に預けられたのは、慶長18年        (1613年頃)らしい。                                                         

しかし、幸松丸のことは秀忠の室「お江」の知るところとなり、引渡しを迫られたため、              元和3年(1617年)、「幸松」は見性院の縁で旧武田氏家臣で信濃高遠藩保科正光に            預けられ、正光の子として養育される。

さて、ではなぜ、保科正光に預けられたのか。ただ「武田家の遺臣」だというだけではなかった。 

ネットで検索していて「愛知県安城市」に「保科正直」の邸宅跡が今に残り、史跡になっている         と知りびっくり。「保科正直」は「正光」の父。

天正十年(1582)3月、武田家は滅亡する。その直後、織田信長も本能寺の変で亡くなり、          信濃、甲斐の各城は、織田・徳川の家臣や北条、真田が入り乱れ、奪い合いで大混乱に陥る。        そのどさくさの中、保科正直が高遠を奪還する。保科正直は、当初北条に就き、妻を北条氏に
人質として差し出していたが、北条を裏切り、徳川家康に臣従し、妻を殺されます。

家康は、臣従してきた「保科正直」を哀れみ、義妹「多劫姫」を正直の正室にした。「多劫姫」は        家康の母「伝通院於大の方」が久松俊勝に再嫁して生んだ娘。久松俊勝の娘だが、家康とは
異父同母の妹となる。だから、保科正直は家康と「義兄弟」の関係だった。

それで、家康の招きで、三河安城に居を構え、家康の関東移封にも付き従ったのです。

保科正直には、多劫姫を正室に迎える前の室は、跡部越中守の娘。その子が「保科正光」。         その正光の母は、前述の如く、北条氏に人質として預けられていて、殺された。

保科正光の継母が、家康の義妹「多劫姫」だったのだ。つまり、保科正光の継母は、「秀忠」に        とっては叔母だったのである。

家康の子、二代将軍となった「秀忠」が「お静」に産ませた子「幸松丸」を、信州の片田舎、           わずか3万石の保科正光に預けたのは、叔母の家系だったからなのだ。

歴史の舞台裏に女性の存在が強く働いていたのだ。


水戸光圀と池田光政、そして上杉鷹山も

2015-11-30 09:21:36 | 虚無僧日記

御三家筆頭水戸徳川輪家の二代目藩主「水戸光圀」公。

水戸黄門様もまた、仏教を排斥し、神式(儒式)で祀られている。

「光圀」も「家光」も「保科正之」も家康の孫になる。「光圀」も

母は、奥付きの老女の娘で、正式の側室ではなかったため、

堕胎されるところだった。保科正之と生い立ちは似ている。

水戸光圀(1628-1701)も l領内のいかがわしい淫祠寺院を

破却し、破戒の僧尼を捕らえて還俗させている。死際には、

僧を遠ざけ、儒法を以て葬ることを命じている。

 

「水戸光圀、保科正之」と並んで、「三名君」と並び称されるのが

岡山藩主の「池田光政」。母は榊原氏だが、二代将軍秀忠の

養女となっての輿入れだから、秀忠の孫でもある。

池田光政も、神儒一致思想から神道を中心とする政策を取り、

神仏分離を行なった。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。

儒学的合理主義により、淫祠・邪教を嫌って神社合祀・寺院整理を行い、

当時金川郡において隆盛を極めていた日蓮宗不受不施派を弾圧した。

地元で代々続く旧家の過去帳の抹消も行った。

光政は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学心学を藩学とし、

実践した。

そして、江戸時代後期の名君、米沢藩の「上杉鷹山」も、「厄年の厄払い」

など、因習行事に出費することは無用と、家臣に言明している。

 

ああそれなのに、こうした因習は現代も根強く残っている。最近、商魂に

利用されて、ますます広まりつつあるようだ。