室町時代に尺八を吹いていたのは「薦僧」だけではなかった。
鎌倉時代の『教訓抄』(1233年成立)には「今は目闇法師、
猿楽之を吹く」とあり、鎌倉から室町にかけて台頭してきた
盲目の琵琶法師や猿楽、田楽といった芸能集団が尺八を吹いて
いた。
文明17年(1485)「観阿弥の兄宗観が、尺八音曲太鼓など、その妙を
つくす」とある。
その他「徳阿、永阿、久阿、遁阿、菊阿、薫阿」という者が尺八を
吹いたという記録があり、彼らは、「○○阿弥」と名乗る「時宗
(じしゅう)=時衆=念仏宗」の徒であった。
尺八は「」と蔑まれた芸能集団や目闇法師の特技となったが、
一方で、楽人や貴族の中でも尺八を好む者はいた。
『大内氏壁書』と同時期の『お湯殿の上の日記』文明16年(1484)
5月1日の条には、
「(後土御門帝が) 舞人久時を御小庭に召して、尺八を吹かせ、
ことふし(筝の節か?)にて『太平楽』いろいろさまめつらしく、
めでたし。久時に御扇賜う」
とあり、宮廷に使える楽人で尺八を吹く者がいた。また天文6年
(1537)「後奈良帝が景通を召して尺八を観賞し、太刀と扇を賜る」
など、尺八を吹奏するのは特筆すべきこととして記録されている。
尺八はそうカンタンに誰でも吹けるものではないので、尺八が
吹けると「珍しい」と賞賛されるのは現代も同じか。
「虚無僧」の語源は「薦僧(こもそう)」。
「薦を負い、社寺の軒先に野宿する僧」という意味で
しょうか。
戦後、上野あたりには、薦むしろの上に座って『右や
左のだんなさま』と物乞いをする乞食がいた。家々を
廻って物乞いをすることもあり、乞食のことを「お薦
(こも)さん」と呼ぶ人もいた。
30年ほど前、虚無僧で新潟あたりを廻った時、「おこもさん」と
呼び止められたことがありました。その時は「おこもさん」が
乞食のことだとは知りませんでした。
現在は「物乞い」は「軽犯罪法」で禁止されていますので、
ホームレスが「物乞い」をすることはありません。
でも、「乞食行(こつじきぎょう)」は、僧侶の修行の
一つであり、また、「乞食(こじき)」に施しをすることも、
仏道の徳積みと一般に理解されています。
ですから「高野聖」や「放下」「薦(こも)」など、
正式の僧侶でなくとも、「薦僧」「放下僧」「薦僧」と、
広い意味での「仏道修行者=僧」とされていました。
室町時代は「薦僧」だったのが、当て字の好きな江戸時代の
人によって「虚妄僧」「虚無僧」などと漢字が当てられた
ようです。
延宝5年(1677)、江戸幕府から「青目・鈴法寺」と「下総
小金・一月寺」宛てに出された『掟』書きが「虚無僧」と
明記された最古の文書のようです。この時はまだ「普化宗」
という宗派名はありません。
「一所不住の者」つまり、「住所不定の者」の中に「虚無僧」も。
「住所不定の者の宗旨を明らかにせよ」というお触れと、
「一夜の宿を貸してはならぬ」つまり「泊めてはいかん」というお達し。
「名古屋叢書」第3巻 法制編(2)
p.389 「当町(赤塚町)に罷り在り候 一所不住之者之覚え」
万時2年(1659)
道心者、 商いをやめ候者、念仏まうし、行人、陰陽師、いんない、
神子、堂守、猿引き、ことふれ、こも僧(虚無僧) 、謡舞教え候者
ごぜ、比丘尼、座頭、ささらすり、えた、茶筅つくり、はちひらき
このほかにも 右の類のもの共、その町の町人と五人組合 仕り
罷り有り、宗旨の詮議いたし候ものは、その通りにて差し置くべき候。
常々宗旨の儀 穿鑿(せんさく)仕り、あやしきもの之れ有れば、早速
可申出候。
幾里志丹(キリシタン)は申すに及ばず、宗門疑わしき様子の者を
存じながら、隠し置き、申し出ず、外(ほか)より顕(あらわ)れ候ばは、
ご詮議の上、その町の町代、組頭、ならびに町人ども 品により
曲事に仰せ付けらるべく候事。
一 右の類の者ども 一夜の宿も一切仕らず候様に可申付候。
併(しか)し 右の類の内、たしかなる者にて、所に指し置きたき
仔細これ有らば、その赴き 可申来候事。