現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

法燈国師覚心と、曹洞宗、律宗との関わり

2017-03-28 19:14:20 | 虚無僧って?

法燈国師無本覚心と曹洞宗・時宗・律宗・萱堂聖

無本覚心は今日では臨済宗の興国寺開山として知られているが、                                  時宗や律宗など他宗派とも深い関わりを持っていた。つまり覚心は                                 密教や禅宗、念仏という枠組みにとらわれない宗教者だった。                                    

覚心の伝記『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』では、覚心と禅との                                     関わりのみを強調し、他宗派との交流を一切削除してしまっている。

また他の宗派側でも、正規の伝記にはみえず、後世に記された史料に                                 のみ書かれていることから、覚心と他宗派の交流が実際にあったか                                 どうか、実証は難しい。


曹洞宗と無本覚心の関係は、仁治3年(1242)に無本覚心が道元より                                菩薩戒を受戒した時よりはじまるが、その後の関係は瑩山紹瑾(1268~1325)を                          通じて説かれることが多い。

瑩山紹瑾は、道元下4世で、曹洞宗の教団確立につとめ、後世には道元を高祖、                            瑩山を太祖として併せて両祖とされた。この瑩山紹瑾にも「法灯(無本覚心)が                           南紀の興国寺(西方寺)にいる時、師(瑩山紹瑾)は赴いた。(無本覚心は                             瑩山紹瑾を一見して大いに称賛し、(瑩山紹瑾はここに)留まって冬を過した」                          (『日本洞上聨灯録』巻第2、能州洞谷山永光寺瑩山紹瑾禅師伝)とあるように、                             無本覚心参禅説話があるが、多くの瑩山紹瑾諸伝では触れていない。

しかしながら、無本覚心の法嗣である恭翁運良・孤峰覚明(1287~1361)は                            実際に瑩山紹瑾のもとに参禅しており、その後も無本覚心の法脈である法灯派と                           曹洞宗の関係は続くこととなる。

律宗では久米多寺の道爾(1254~1324)に無本覚心参禅説話がある。

道爾は由良法灯国師(無本覚心)の道風を聞いて、興国寺(西方寺)にむかった。                             無本覚心はあらかじめ衆徒に「三日の後に嘉賓(よい客)がやって来るだろう」といった。                       禅爾がやって来たということを聞いて、無本覚心は歓喜し、禅爾に対して慇懃に接し                         誠実に対応したため、禅爾は宗旨を理解することが出来た。                                  (『延宝伝灯録』巻第34、泉州久米田寺円戒禅爾法師伝)





法燈国師覚心と萱堂聖の覚心

2017-03-28 19:11:28 | 虚無僧日記

高野聖のうち萱堂聖は無本覚心を祖としている。高野聖とは別所に集団で居住して                          真言念仏や禅・時宗などを兼修しており、勧進を行ないつつ、後世には商業にも従事した。                      高野聖には萱堂聖・小田原谷聖・往生院谷聖があったが、このうち萱堂聖は無本覚心を                        祖とする説話がある。

紀伊由良法灯国師(無本覚心)80歳の時である弘安9年(1286)、一人の俗人が                          西方寺にやって来て、国師に「私は塵累を厭う(出家を願う)志があります。                            願わくは和尚の弟子として下さい」といった。そこで髪を剃って「覚心」と名づけた。                        弟子として師の法諱を犯すことを恐れたが、国師は考えるところがあるとして許さず、                        「お前は高野山に縁がある。そこに行って萱原で念仏を唱えなさい」といって                            鉦鼓1口を与えた。覚心は「高野山は鳴器(楽器)を禁じています」といったが、                          国師は「ただ私の言うとおりのままにしなさい」といったので、高野山に登って念仏した。                         山中の大衆は鐘の音を聞き、驚き怪しんでその音の場所を探してみると、老人が萱の中にて                      鉦鼓をたたいて安座念仏していた。大衆は「お前は何をしているのだ。この山は古来より                        鳴物を禁止している」といった。覚心は「私は由良(西方寺)の開山の教えのままに                         しているだけである」といった。大衆は鉦鼓を捨てたが、この鉦鼓はたちまち空中に                         飛び上がって山や谷に鳴り渡り、ついに覚心の座わっている前に還ってきて、                             叩いていないにもかかわらず自ら鳴った。大衆達も不思議な思いをした。                              その夜高野山検校宿老の夢に、鉦鼓を許すべきの旨は祖師明神と由良開山                              (無本覚心)との契約である、と見たため、萱を引き結んで堂を建てて                                 念仏三昧の場とした(『紀伊続風土記』巻之54、非事吏別、萱堂)


法燈国師覚心と時宗の関わり

2017-03-28 19:08:24 | 虚無僧って?

時宗の一遍智真(1239~89)と無本覚心の邂逅についても                                   『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』や『一遍聖絵』『一遍上人絵詞伝』には                             みえないが、一遍の異伝では無本覚心との説話がいくつかある。

建治元年(1275)一遍は熊野に詣でた後、紀州真光寺(西光寺か)に赴き、                              心地(無本覚心)にまみえた。無本覚心は「念起即覚の語」を示すと、                               一遍は和歌で、「唱うれば仏も吾もなかりけり南無阿弥陀仏」と示したが、                             無本覚心は「未徹在」といった。建治2年(1276)4月、一遍は再度熊野に                             詣でたが、路傍にたまたま律僧に出会った。一遍はなおも冥慮を仰がんと                                      欲して、証誠殿に詣でた。神は「三心のさはぐり有るべからず。                                  凡そのこの心は善き時も悪き時も迷なる故に、出離の要とはならず。ただ                              南無阿弥陀仏が往生するぞ」といい、「西へゆく道にな入ぞ苦しきにも                               との実りのあとを尋よ」という和歌を得た。ここにおいて一遍は解他力深義を領し、                         自力意楽を捨てた。再び紀州由良に戻って無本覚心にまみえて、和歌を呈した。                           「捨て果てて身は無きものと思いしに寒きぬれば風ぞ身にしむ」と。そして                             ついに印可を受け、手巾・薬篭を得た(『一遍上人行状』)

弘安10年(1287)3月に一遍は兵庫に至り、結縁しようとする道俗の人々は                            一遍の周囲に群を形成していた。光明福寺の住持は和歌を呈した。同郡の宝満寺には                           由良の法灯国師(無本覚心)が在住していた。一遍は参謁しすると無本覚心は                            念起則覚の話を掲げた。一遍は和歌で心のうちを述べたが、禅師は「未徹在」と                          いって斥けた。一遍はまた和歌を述べると、禅師は手巾と薬篭を一遍に附属して                                印可とし、「この2物は信を表わしている。後人の標準としなさい」といった。                            一遍は踊念仏を起こした(『一遍上人年譜略』弘安10年条)

この両伝記とも、無本覚心にまみえた年が建治元・2年(1275・1276)と、                            弘安10年(1287)と大幅に隔たっており、邂逅した場所も、紀州真光寺                                 (西光寺か)と兵庫宝満寺と異にしていることから、一遍と無本覚心との                              関係説話には疑問が持たれるところであるが、これらの説話について                                禅と念仏を結びつけるために五山禅僧によってつくられた説話とみられている。

一遍は法語のなかに無本覚心の得法の機縁の語を引いており、一遍が無本覚心の                           ことを知っていたことは事実であったろう。

また時宗四条派の祖である浄阿真観(1276~1341)もまた無本覚心に参禅した                           という説話がある。

浄阿は諸国を修行していたが、紀伊由良に到って心地(無本覚心)にまみえ、                               座下にあって禅法に励むこと6年間、端座して修行した。ある時無本覚心にむかって                           「長年修行しているとはいえ、いまだに一分の鼻孔すら得られません。なおも                             修行すべきでしょうか。又(何か)示されることはないのでしょうか」といった。                            無本覚心は「長年の工夫で得られなければ坐禅すべきではない。また法性というものは                        教外別伝であって、言説をもってのべるべきではない。ただ熊野に参詣して祈請しなさい」                       といった。そこで浄阿は熊野本宮に参詣して祈請してみたが効果はなかった。                            翌日に熊野新宮に参詣すると、夜夢に念仏の形木を賜って「この札を賦して衆生に                           利益しなさい。名は一阿弥陀仏と付けなさい」という神託に預かった。                               そこで由良に下向して無本覚心にまみえ「熊野に詣でて念仏の法を得ました」といった。                       無本覚心は「いかなるか念仏」と問いかけ、浄阿は「南無阿弥陀仏」と答えたが、                            無本覚心は「よしとするには不足である。また参詣しなさい」といった。                              また浄阿は熊野に参詣して下向した。無本覚心は「いかなるか念仏」と再度問いかけると、                       「南無阿弥陀仏」と答え、無本覚心は「よし」といった。それより浄阿は念仏を勧進して                            諸国を修行した(『浄阿上人伝』)

この説話について、浄阿を祖とする四条派が、対立する遊行派の七条道場に対する正当性を                      主張するため、浄阿の師の一遍と同じ宗教的体験をした説話が形成されたとされる。



光孝天皇のこと、蝉丸は乞食の祖?

2017-03-28 18:49:03 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』 第18巻 随筆編 (1) P.343  「塩尻拾遺」 巻61

 盲者の伝に「光孝天皇の皇子 雨後の皇子(みこ)、明を失しましませし時に                             世の衆盲を愍(あわれ)み、田を無頼の盲人に恵み給ひしと。昔、上賀茂封境の地に                          其の田有りしと云々。是れ江口、神崎、室兵庫等 遊君の濫觴なり。

ある人曰く、光孝天皇は 8人の皇女を七道に遣わして、君の名を留むなんと伝ふ。                         按ずるに、光孝帝にかかる御名の皇子(雨後の皇子)ましまさず。されば、当時、                           天皇 孤独の窮民を憐れみ、所々に 田を置いて 恵み給ひしを、後世あやまりて                          皇子ぞ姫気味ぞと言い伝え侍るなるべし。

 蝉丸を 延喜帝の皇子といひ、又 “乞食の祖” といふも この類か。これも亦                           逢坂に悲田を置かれて 無頼を養はせたまひしより かく伝え侍るにや。

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Wikipedia で「光孝天皇」を検索したら、親王9人、その他の男子16人、                              皇女20人。その中に、「雨後の皇子」の名はない。後世の人の作り話。                               在位期間中、天変地異相次ぎ、民は窮して、天皇は大変 お心を痛めて                                    おられた由。それが上記の伝説になったと思われる。

 第58代 光孝(こうこう)天皇 別名:小松帝  

在位期間:元慶8年(884)~仁和3年(887)                                  生誕-崩御: 天長7年(830)~仁和3年(887) 58才                           父:仁明天皇(54代)第三子

皇子女: 是忠親王、是貞親王、定省親王(宇多天皇)、繁子親王、                           穆子内親王、忠子内親王、簡子内親王、綏子内親王、為子内親王、                         元長、兼善、名実、篤行、最善、近善、音恒、是恒、旧鑒、貞恒、                         成蔭、 清実、空性、国紀、香泉、友貞、遅子、麗子、奇子、崇子、                         連子、礼子、最子、偕子、黙子、是子、 並子、謙子、深子、周子、                         密子、和子、快、秩子、善子、是茂

とても覚えきれませんね。

 


田楽師で尺八を吹いた「増阿」

2017-03-28 16:59:18 | 尺八・一節切

連歌師心敬の書で応仁2年(1468)成立の『ひとりごと』に次のような記述がある。

尺八などとて万人吹き侍る中にも、近き世には「増阿」とて奇特の者はべりて                            吹き出だしたり。今に天下この風流を受け無双の上手となり。

 『ひとりごと』は連歌について論じた書。

増阿弥(ぞうあみ、生没年未詳)は、室町時代田楽法師、田楽新座の役者。                                                                              世阿弥と同時期に活躍し、田楽能の名手として世阿弥と人気を争った。                                                                                      「冷えに冷えたり」(『申楽談義』)と評されるように、幽玄な芸風の持ち主で                                                                          あったらしく、応永20年代ごろ足利義持の後援を受けて活躍した。

『申楽談義』によれば「閑花風」(『九位』の第三位)の芸風で、                                 東北院の立合能では「感涙も流るるばかり」の名演を見せたという。

そして「尺八の能で、尺八を一手吹き鳴らひて」とあり、尺八を実際に                                       吹いたと思われる。

体源抄』や『ささめごと』には豊原量秋に師事して名手であった旨の                               記載がある。また「頓阿」は「増阿」の弟子という。