現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

めいあん、みょうあん

2017-03-21 20:46:28 | 虚無僧日記

「めいあん?」 「ん?名案?」

「目に はいらん?」 「みょうあん?」 

「ん?妙案?、見よや?」

数人の中学生が、おしゃべりしながら私の前を通り過ぎると、

そのうちの一人が私に気づき、偈箱に書かれた「明暗」の

文字を見て、「めいあん?、みょうあん?」とかつぶやいた。

中学生の男子が「みょうあん」と読んだのには感心した。

普化の偈の「明頭来(みょうとうらい)」からきているから

「みょうあん」が正しいのだろうが、そんなことを知っている

はずもないと思う。

「どうして『みょうあん』って読めたの?」と 質問したら、

顔を赤らめて行ってしまった。男の子はシャイだ。

 

ところで、以前、「明暗」を 「あけくれ」と読んだ子がいた。

中学生ぐらいの男子。「明暗も読めないのか」とがっくりきた私でしたが、

今日ネットで「京都の明暗寺」を検索していた驚いた。

京都明暗寺の最後の看首「自笑昨非」は、明治になって普化宗が

廃止されると、「明暗昨非」と名乗っていた。戸籍に姓名を登録するにあたり、

姓を「明暗」にしたのだ。

そしてその読み方が、なんと 「あけくれ」だったそうな。

あの中学生は「明暗=あけくれ」という姓の人を知っていたの

だろうか。まさか。


尺八パワーで病気も吹っ飛ばす?!

2017-03-21 10:21:46 | 虚無僧日記

3/18 西区にある臨済宗のお寺で、お施餓鬼に招かれ、尺八を                                                                                  献奏させていただきました。本堂の堂内に尺八の音が響き渡り、                                         空気の振動が心地よく伝わります。これが「波動」でしょうか。 

尺八の音には宗教的な響きがあります。献奏後、ご住職様から                                   「尺八の音を聞いていると、心が洗われ、悪いことができなく                                     なりますな。とても素直な心になれます」とお言葉をいただきました。

3/20は犬山の真言宗の大寺院で献奏。音楽好きのご住職様からは                                  「尺八のパワーはすごい! 太鼓との演奏も合いますね。次回ぜひ」と。

尺八は宗派を超えて、受け入れられるものと確信。

個人のお宅にも招かれました。Kさん宅は不幸続き。なんか辛気臭い。                               仏壇の前で読経の後一曲。神棚の前で「祓い詞」を奏上して一曲。                                 僧侶と神主の一人二役。プラス、虚無僧尺八の偉神力。家の中も                                  清められるのを自分でも感じた。

翌日「病気が治った!」とか「家庭が明るくなった」と喜びの報せが。                               この他にも「難しいと言われた手術が成功して病気が治った」とか                                 「子供の引きこもりが治った」とか、奇跡が次々と。

私自身も半信半疑。すべては「気」。病もストレスから。                                     虚無僧パワーで病も治り、家庭円満になっていただければこれに                                  過ぎた喜びはない。虚無僧は やはり宗教家たるべし。

 

 


尺八は吹くものに非ず

2017-03-21 09:38:41 | 虚無僧日記

弟子に「尺八は吹いてはいかん」と教えている。
強く吹こうとすればするほど、音は響かない。
「吹くものに非ず」ならば「吸うもの?」

上達すれば、音が口の中、喉の奥まで吸い込まれ、
体全体で響いてくることを体得するようになる。

息は歌口に当てるだけ。そこで発せられた音が
口の中に跳ねかえってくる感じ。こうして体全体で
響く音は、何が別の“気”が発せられているようだ。

昨日も、ほとんど耳の聞こえないお年寄りばかり。
でも、心の耳で聞いてくれているようだった。
顔がほころぶ。目に涙がにじむのがわかる。

必ずしも、尺八を聞きたいと願っている人たちばかり
ではない。あからさまに背を向けている人もいる。
そういう人にも、背中で感じてもらえるには、音とは
別の“気”が必要だ。

相手の心の中にはいっていって、その人の“気”を
吸って音に換える。尺八は“気”を吸って音に換えるのだ。



濫吹

2017-03-21 09:37:01 | 虚無僧って?

「濫吹(らんすい)」「潮吹き」ではない。

『大内氏壁書』「永正18(1521)第172条に、「濫吹の仁、逃失の後
立帰り自由に横行すること」とあり、「濫吹」の語が目に止まった。

虚無僧研究会機関誌『一音成仏』(H3.第21号)「虚無僧史補稿
(石綱清圃)」に
『建内記』の嘉吉元年(1441)の記事「諸人所領“濫吹”致し、
 以外(もってのほか)の由風聞、終(ついに)天罰当たるか」

について、これは「近江の馬借(ばしゃく)一揆」の事件を伝えた
もので、馬借たちが“濫吹”、つまり尺八をブーブー吹き鳴らして
威嚇した」と解説している。

石綱氏は虚無僧研究の第一人者だが、神田可遊氏も指摘しているように、
荒唐無稽な解釈が多い。私はこの解説に長い間 疑問をもっていた。


「濫吹(らんすい)」とは、漢字の意味は「濫(みだ)りに吹くこと」だが、
石綱氏の原稿では、『韓非子』に「斉の宣王は笛が好きで、笛吹きに
扶持を与えたので、浪人共が多く集まり、数百人にもなった。全員で
笛を吹くと上手く聞こえるが、一人ずつ吹かせると、いずれも技量に
自信がなく、たちまち去って行ってしまった。このことから“技量を
持たぬ者、能力の無い者が、大勢の中に混じってその地位にあること”」
とまで、解説してくれている。
しかし『大内氏壁書』の解説では「転じて、秩序を乱すこと。乱暴狼藉」
と、さらに付け加えられている。

『大内家壁書』の記事と双方つき合せて考えれば、「濫吹」とは、
「秩序を乱す者、乱暴、狼藉」の意味でしかないことがわかる。

石綱氏は、「虚無僧の前身は“馬聖(うまひじり)”」との説もあり、
馬借と尺八を強引に結びつけたものといえよう。
(「馬借」とは当時の輸送業者)