現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

大杉 栄

2018-05-01 18:35:56 | 虚無僧日記

名古屋市北区に「大杉」と「杉栄」という町名がある。
通るたびに「大杉栄」を思い出す。ネットで検索してみた。

ちなみに、大杉栄の父は「大杉 東」。「東大杉」の町名もある。
大杉栄は、香川県丸亀の生まれで、父の赴任により、越後新発田
(しばた)で育つ。
そして、14歳で「名古屋陸軍地方幼年学校」に入学している。
名古屋の町名とは関係無いようだ。

学科はトップ クラスの秀才だったが、自由奔放、時には凶暴な
振る舞いで、「脳神経症」と診断され、退学処分となる。

1902年(明治35年)東京に出、幸徳秋水、堺利彦たちの非戦論に
共鳴。平民社に出入りする。以後、無政府主義、アナーキストとして、
しばしば投獄され、1923(大正12)年9月、関東大震災直後の混乱の中、
内縁の妻伊藤野枝と甥の橘宗一(6歳)とともに、憲兵に連れ去られ、
井戸に投げ込まれ、惨殺された。命令したのは甘粕大尉と云われて
いる。
(橘宗一の法要は、名古屋の日泰寺で毎年行われていた。なぜかは不明)。

この伊藤野枝も自由奔放な女で、女性解放、夫婦別姓、自由恋愛など
100年、時代を先取りしていた。いろいろ調べていくと面白い。


放浪の果てに餓死した 辻 潤

2018-05-01 18:33:56 | 虚無僧日記

大杉栄とともに殺された「伊藤野枝」も、時代に先駆けた
女性だった。

伊藤野枝は、初め、女学校の英語教師だった 辻 潤 に
惚れ、結婚。平塚らいてう、与謝野晶子・岡本かの子らと
親交を深めて、強い刺激を受けた。

そして、大杉栄を知ると、辻潤と別れ、大杉と同棲する。
大杉には他に2人の女性がおり、当時の社会は、彼らの
生き様には 非難轟々だった。

野枝を失った辻潤は、浅草で「英語、尺八、ヴァイオリン
教授」の看板を掲げ、後には「虚無僧」となって、放浪生活
を送る。一枚の写真が残るが、虚無僧の深編み笠ではなく、
三角の「山笠」である。尺八を脇に抱え、笠に手をやって、
遠くを見つめるかのような顔が、実にいい。ビビビーと
きてしまう。

辻潤は、放浪の果て、終戦の前年( 1944年 )、物資食料が
枯渇していく中、餓死して果てた。同時期に「谷狂竹」が
虚無僧として生き、旅に病んで、戦後まもなく逝った。
私の末路だ。



勝ち組・負け組

2018-05-01 18:31:59 | 虚無僧日記

特別ご招待いただいて、名古屋駅の上にある
フィットネスクラブに行って行ってきました。
会員になるには200万円という。私には無縁の世界。

朝の出勤前、昼の休憩時間にフラッと立ち寄る
経営者。毎日来ているというセレブ。
意外と若いカップルや、子連れのヤングパパも。
IT関連の成金か。

足下は、一日130万人もの庶民がせわしなく
行き来する名古屋の玄関口だ。地上に降りれば                                           ホームレスが今夜の寝場所を探してうろついている。

天国と地獄は隣り合わせ。その両方の世界を
私は自由に往来している。
これぞ虚無僧冥利に尽きる幸せ。



お金では失礼でしょうから

2018-05-01 04:27:07 | 虚無僧日記

わが尺八の師「堀井小二朗」の随筆集『わたしの言い分』に
こんなことが書いてあった。

昭和30年、東京新聞主催の「邦楽コンクール」で、
堀井小二朗作曲の『沼』が、作曲部門1位となり、
文部大臣賞とNHK賞を受賞した。尺八と箏の二重奏。
箏の演奏は朋友の古川太郎氏。

優勝はしたものの、賞状と記念品だけだった。
NHKのえらい人が「何か意見はありませんか」と
聞くので、「お金が欲しいです」と答えたら、
「1万や2万の賞金では失礼だと思いますので」と、
賞品は置時計だった。

「こんなはずじゃなかった。日当くらい出ると思ったのに」
「仕方ないな、帰りの電車賃どうする?」と。重い賞品の時計を                                   抱えてとぼとぼと歩いて帰ったそうな。

そもそも、尺八は旦那芸。裕福な旦那衆が、箏や三味線の
お師匠さんのパトロンだった。三曲の演奏会では 尺八の                                     檀那衆が箏のお師匠さんにご祝儀を出すのが習慣だった。

ところが、堀井小二朗師は「私は音楽家ですからギャラをください」と                               云ったところ、お筝の師匠さんたちからは「なんてお金にいやしい」と                                 総スカンを食らってしまった。

堀井小二朗師が、ギャラを要求してくれたことで、今日、私たち                                  尺八演奏家が食べていけるようになったと言って過言ではない。

ところが、名古屋はまだまだ 60年前の慣習が根強く残っている。                                

25年前、私は単身赴任で名古屋に来た。東京では、1レッスン
1万円いただいていた。
私が名古屋に来たことを伝え聞いて、何人かの人が、尺八を
習いにきてくれた。名古屋駅からタクシーで 4、5千円使って、
手土産持って。そして2時間のレッスンの後、「お金では
失礼でしょうから」と、近くの居酒屋でごちそうしてくれる。
喉から手が出るほど お金が欲しかったが、「カタチの無い
ものには、お金を出さない」のが 名古屋人と知った。

詩吟の伴奏を務めた時も、終わって「こんなすばらしい尺八                                    今まで聞いたことがない」と称賛してくれるのだが、一向に                                   ギャラをくれる様子がない。そして二次会で御馳走はしてくれる。                      

ある邦楽の会では「3万円ですが、いいですか? 」と云うので                                   当然ギャラが3万円かと思ったら、当日「会費3万円」を請求                                    されて真っ青になったことも二度、三度。

プロとして認められていない己の芸の至らなさと痛感するしかない。

「予算はありませんが(タダで)来ていただけますか?」という依頼も多い。                             「お金は払えません」とはっきり言われる。お金のない人ではない。                                お金持ちほどケチ。いろいろな会に顔がきく。それで「私は一路さんに                               タダできてもらった」と自慢し、さらに「私から頼めばタダで来てくれるから」                            と吹聴する。おかげで仕事は増えるが、収入はさっぱり。

尺八では食べていけない。いや、毎日誰かが御馳走してくださるので                                食べることだけはできます。芸は身を助けるありがたさ。