「徐福」のことは司馬遷の『史記』に書かれてある。
徐福は、秦の始皇帝に、「東方に不老不死の霊薬が
ある」と具申し、3,000人の童男童女と百工(多くの
技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し
「平原広沢」の地に辿りつき、そこの王となり、
戻らなかったという。
見方によっては、「徐福は、始皇帝に不死の薬を
探しに行く」と言って、莫大な資財と援助を得て、
海外に逃亡し、そこの国の王になった裏切り者で
ある。始皇帝を騙した男だ。始皇帝から東方行きを
命ぜられたほどの人物だから、名門の出で、相当
の権力者だったのであろう。始皇帝の暴政から
逃れる手段でもあったか。
しかし、現在の中国に「徐」姓が無いのは、一族
全員引き連れて渡航したか、あるいは、始皇帝の
命に背いたので、残っている者は「徐」姓を名乗れ
なくなったからだとも。
1982年、江蘇省にある徐阜という村が、かつては
「徐福村」と呼ばれており、「徐福」ゆかりの村
と話題になった。「徐州、徐州と人馬もなびく~」
今や、日本からの観光客も多いそうだ。
紀元前に、中国から 3,000人もの人が日本に渡って
来、農耕や機織などの技術を伝えたというのは、
十分あり得る話だ。
徐福伝説は、東北から九州まで、日本の各地に
ある。そして、彼らは「秦(しん)」から来たから
「秦」さんと呼ばれ、機織(はたおり)を伝えた
から「秦=はた」さんと呼ばれるようになった。
私なりに納得。なんか普化宗の伝播に似ている
話だ。
数年前、虚無僧で和歌山県新宮に行った時のこと。
新宮には「徐福の墓」があり、その日 8月12日は、
丁度「徐福を供養する万燈祭」が行われていた。
中国からの来賓も迎えて、賑々しく行われていた。
虚無僧姿の私も関係者のように見られて、勝手に
前列の椅子に座ってしまった。
そう普化宗も、中国から伝わり、和歌山県由良の
興国寺が開山となっているのだが、どうも虚無僧
については、PR不足。知られていない。
そういえば、秋田の男鹿半島、富士吉田市、佐賀と
虚無僧で行った先々で「徐福」伝説に出会った。
「灯台下暗し」で、名古屋の熱田神宮にもある。
愛知県には鳳来寺もある。そこも行った。
昨年、山口県を旅して、下関から海岸沿いに北へ
向かって豊浦町を通った時、「虚無僧墓」という
看板を見つけた。やはり“呼ばれた”という気がした。
山口県には、室町時代の文明18年(1486)『大内家
壁紙(禁制)』に「薦僧、放下、猿引きは追い払え」
とあり、江戸時代を通じても、虚無僧寺は無く、
虚無僧も居なかったと思うのだが、解説には、
「天保年間(1830~1843)1人の虚無僧がやって
きた。しかし、尺八を吹いているとき以外は、
酒ばかり飲んでおり、村人達は敬遠していた。
ところが、村の娘が山賊に襲われたとき、娘を
無事救い出したのは、この虚無僧だった。
弘化3年9月15日、虚無僧は、突然、川棚川の河原に
走り出し、大きな岩に頭を2度3度ぶつけて倒れた。
虚無僧は、村人に「脳を冒されたために、なにも
してあげられなったが、私の墓をたてて酒を供えて
くれれば、あなた達の苦しみを和らげてあげよう」と
言い残して息を引き取った。
村人達は、虚無僧が頭の痛みを和らげる為に酒を
飲んでいたと知り、墓を建てて供養した。この
虚無僧墓は、頭の病気に御利益があるとされて
いる。とのこと。
(所在地:下関市豊浦町川棚中小野)
というわけで、虚無僧がやって来たらしいのだが、
天保~弘化にかけて、岐阜芥見村で虚無僧同士の
争いがあったことから、取調べを受け、その結果
虚無僧の中には不逞の輩も多いとされて、取り締
まりが厳しくなっていた。
幕府から「虚無僧を勝手に泊めてはいけない」と
いうお触れも出されており、虚無僧は厄介者だった。
そんな虚無僧でも、こうして今日まで村人によって
供養されているとは、うれしい話だ。
ひとり山賊に立ち向かい娘を助けたのも「命惜しまぬ」
覚悟だったからか。