現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「尺八を尻で吹く」

2018-07-06 22:06:26 | 虚無僧って?

「名古屋叢書」第七巻 地理編(2) p.19

「金鱗九十九廼塵」 巻第26 保寂堂楳渚 著

【久屋町】  京町通より杉ノ町筋の間、凡そ2町  旧名を干物町という

家数68軒 

東照宮御祭礼 警固 籠輿丁15人

▲清洲越輩 絶家 白木屋伝治郎 

高祖小崎伝治郎と申す者、慶長16年 清洲より当 久屋町へ引越。

安永3 (1774) まで七代相続。

この7代目「伝治」は、ある時、普化僧 笛を吹いて門付けに来たりけるに、

これを聞いて言ふようは、「さてさて、拙(つたな)き音色かな。さは尻にても

吹かるべし」と 独りごちに嘲笑すれば、かの普化僧 門口に立ちながら、

これを耳にとどめて、内へつと入り、伝治に向かい大いに腹立て、

「いかに 主、尻にて吹けるものならば吹いてみせられよ」と、持ちたる

尺八を投げつければ、伝治 「いと心易し、望みならば吹いて聞かせん」と、

尺八 おっとり逆さまになし、笛の尻より 鶴の巣篭もり、或いは六段の

秘事など 吹いて聞かせれば、普化僧は 誠に肝を冷やし、初めの言葉にも

似気なく、舌ぶるひしてぞ 逃げ失せしとぞ。

元禄12年(1699)6月  御改めに付き書き上げの記」

 

実は、「尺八を逆さにして管尻で吹いた」という話は、江戸初期にすでに

みられる。三浦浄心の「慶長見聞録」に「大鳥逸平の話」として載っている。

七代目「伝治」は、この「慶長見聞録」を読んでいたと思われる。

 

 


「尺八を尻で吹く」という話は

2018-07-06 12:27:56 | 虚無僧って?

「名古屋叢書」に載っている「伝治が尺八を尻で吹いた」というのと似た話が

三浦浄心(1565-1644)著「慶長見聞集」(巻6) にある。こちらは 侠客「大鳥逸兵衛」。

「一兵衛」「逸平」 とも。(1588年 - 1612年

慶長(1596~1615年)の頃、江戸市中を徒党を組んで のさばり歩く

“かぶき者” のグループがあった。現代の暴走族だ。そのグループの一人が

“かぶき者”であることを理由に 店から解雇されたことで、仲間がその雇い主を

襲撃した。その事件で、リーダーの大鳥逸平が捕まった。 「襲撃事件のメンバー

の名前を言え」と、拷問にかけられたが、彼は、絶対に口を割らず、取調べは

何日も続いた。 そんなある日、彼は、役人に向かって 「面白い話を聞かせて、

役人さん方の眠気を さましてあげましょう」と、しゃべり始めた。


「我 武州八王寺の町酒屋に有て 酒を飲みしに、虚無僧 壱人 尺八を吹いて

門に立ちたり。我この者を呼び入れ、〈あら ありがたの修行や、御身 ゆえある人と

みえたり、世におち人にやおわすらん〉と、酒をもてなし、〈この一兵衛も 若きころは

尺八を吹たり、虚無僧の尺八一手望み也〉といえば、此の虚無僧、曲一手 吹たり。


我(逸兵衛) 聞きて打笑い、尻をまくり上げ尻をうちたたき、〈貴殿の尺八ほどは、

われ、しり(尻)にても吹くべし〉といえば、虚無僧 大きに腹をたち、〈 無念至極の

悪言かな。我 いにしえは 四姓の上首(武士)たりといへ共、今は世捨人となる。

然れども 先業をかへり見、貧賤を なげかずして 仏道の縁に取付、空門に思ひを

澄まし、内に得るところなく、外に 求むるところなく、身を安くして 普化上人の跡をつぎ、

一代教門の肝要、出離・解脱の道に入、修行を はげますといへ共、悪逆無道の一言に

われ、瞋(しん)の炎やみがたし。姿こそ替れども、所存において替るべきか。

是非尻に吹かせて聞くべし〉と言う。

この一兵衛も、〈尤も、しりにて吹くべし〉といへば、お互に 賭け物をこのみしに、

虚無僧 云ひけるは、〈親重代 伝はる 吉光の脇ざし一腰持たり 〉とて座中へ出す。

一兵衛も 〈こしの刀を出すべし。此の刀と申すは、われ、下原鍛冶を頼み、

三尺八寸の いか物作りに 打たせ、 “二十五まで いき過たりや、一兵衛” と

名を切付、一命にも かへじと思ふ一腰を出す。

町のもの共 両方の 賭ものを預り、〈一兵衛が尻にて吹く尺八を聞かん〉と云ふ。

其時 一兵衛、虚無僧の尺八を 取って さかさまに取りなおし、(管)尻にて吹きければ、

皆人聞きて、〈実に虚無僧の口にて吹きたるより、一兵衛が尻にて吹きたるが

増りたり 〉 といへば、我(一兵衛)、此のあらそひに勝たり」。

 

『武蔵名勝図会』(1820年代)によれば、1612年慶長17年)春、高幡不動尊での

相撲興行に現れた際に捕縛され、江戸幕府に突き出された。

同年8月(慶長17年)、品川鈴ヶ森刑場磔刑に処されて死去した享年25。

 

さて、この話から、江戸時代初期には、浪人者で虚無僧になった者の他に、

侠客も尺八を吹いたことがわかる。歌舞伎の「白波五人男」や「助六」も尺八を

背中に携えている。

ところで、尺八を逆さにして管尻で吹けるか? 実は江戸時代初期の尺八は

「三節切り(みよぎり)」といって、箒の柄のような、細い竹筒なので、

現代の尺八のように 根っこのゴロ節はない。だから管尻も歌口と同様の

形状だから、吹くことは可能だったのだ。中近東のネイは歌口の切り込みが無く

筒孔のまま音を出す。