「ぼろ」とは、鎌倉時代の末頃に現れた「梵論」や「暮露」あるいは「梵論字(ぼろんじ)」「梵論梵論(ぼろぼろ)」などと呼ばれる、半僧半俗の物乞いの一種。身なりがボロボロであることからの名称であるといわれている。
さらに、暮露が転じて薦僧→虚無僧になった。つまり「暮露」は虚無僧の前身というのだが、私はこの説に疑問を呈したい。ぼろの話は、鎌倉末期に吉田兼好(卜部兼好、兼好法師)によって書かれた『徒然草』の第百十五段に出てくる。
徒然草 第百十五段
【古文】
宿河原(しゅくがわら)といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、ここに候ふ。かくのたまふは、誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。ここにて対面し奉るば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわずらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。
ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘諍(とうじょう)を事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしままに書き付け侍るなり。
資料:徒然草(元禄期に出版された物内 第百十五段の挿絵) 提供:郡山宿本陣 梶洸氏
この挿絵は江戸時代の元禄期に書かれたもので、暮露が虚無僧の前身という誤解に基づき、尺八が描かれている。しかし鎌倉から室町までの暮れ露は尺八は吹かなかったと私は考える。
『徒然草』には「ぼろんじとか梵字、漢字などと名乗りだした者」とあり、ボロボロの衣を着ているから「ボロ」では、「梵字」「漢字」の説明がつかない。
私は、梵字、漢字というからには、何かの呪文を唱える人ではないかと考えた。そこで見つけたのが「大日如来の一字金輪の呪=のうまくさんまんだぼたなんぼろん」である。
この徒然草の登場してくる「ぼろんじ」は、九品の念仏を唱えていたというのだから、念仏衆である。宿川原しとは死体の捨て場、つまり墓地だから、死者の弔いをしていた。
弘法大師空海によってひらかれた高野山は真言密教の山であるが、なぜかここに「萱堂の聖」という念仏行者が巣食っていた。「高野聖」である。彼らは一遍によって開かれた念仏宗の行者であった。真言密教の本尊が大日如来である。彼ら高野聖は大日如来の一字金輪の呪「のうまくさんまんだぼたなんぼろん、ぼたなんぼろん、ぼろんぼろん」と唱える念仏集団だったのではないか、というのが私の説。