母方の従兄弟の“くにちゃん”が、京都の帰り、名古屋に
立ち寄ってくれた。久しぶりなので話も山々、鍋をつつき
ながら語り合った。
なんと、建築家の村野藤吾に関心があるとのこと。
村野藤吾は、93歳で亡くなるまでに、京都・東京・名古屋の
都ホテルや、箱根・新高輪・京都宝が池のプリンスホテル、
赤坂の迎賓館など、建築史に残る多くのビルを設計した、
知る人ぞ知る名建築家である。
私が勤務していた千代田生命本社ビルは、氏が70代の
時の代表作であった。多くの建築家が見学に来られ、
私はその案内役を務めていたから、氏に関する書籍や
写真などの資料は段ボール6箱もあった。その半分を
目黒美術館に寄贈したが、まだ3箱が押入れの奥に
眠っていた。それを引っ張り出してきて、夜遅くまで
しゃべりまくった。村野藤吾のことなら一晩でも語れる、
私がもっとも敬愛する“建築家”である。
翌日1箱分の本と写真をK氏に送ってあげた。あと2箱、
処分できないでいる。
立ち寄ってくれた。久しぶりなので話も山々、鍋をつつき
ながら語り合った。
なんと、建築家の村野藤吾に関心があるとのこと。
村野藤吾は、93歳で亡くなるまでに、京都・東京・名古屋の
都ホテルや、箱根・新高輪・京都宝が池のプリンスホテル、
赤坂の迎賓館など、建築史に残る多くのビルを設計した、
知る人ぞ知る名建築家である。
私が勤務していた千代田生命本社ビルは、氏が70代の
時の代表作であった。多くの建築家が見学に来られ、
私はその案内役を務めていたから、氏に関する書籍や
写真などの資料は段ボール6箱もあった。その半分を
目黒美術館に寄贈したが、まだ3箱が押入れの奥に
眠っていた。それを引っ張り出してきて、夜遅くまで
しゃべりまくった。村野藤吾のことなら一晩でも語れる、
私がもっとも敬愛する“建築家”である。
翌日1箱分の本と写真をK氏に送ってあげた。あと2箱、
処分できないでいる。