現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

建築家 村野藤吾

2008-12-09 22:39:30 | 虚無僧日記
母方の従兄弟の“くにちゃん”が、京都の帰り、名古屋に
立ち寄ってくれた。久しぶりなので話も山々、鍋をつつき
ながら語り合った。

なんと、建築家の村野藤吾に関心があるとのこと。
村野藤吾は、93歳で亡くなるまでに、京都・東京・名古屋の
都ホテルや、箱根・新高輪・京都宝が池のプリンスホテル、
赤坂の迎賓館など、建築史に残る多くのビルを設計した、
知る人ぞ知る名建築家である。
私が勤務していた千代田生命本社ビルは、氏が70代の
時の代表作であった。多くの建築家が見学に来られ、
私はその案内役を務めていたから、氏に関する書籍や
写真などの資料は段ボール6箱もあった。その半分を
目黒美術館に寄贈したが、まだ3箱が押入れの奥に
眠っていた。それを引っ張り出してきて、夜遅くまで
しゃべりまくった。村野藤吾のことなら一晩でも語れる、
私がもっとも敬愛する“建築家”である。

翌日1箱分の本と写真をK氏に送ってあげた。あと2箱、
処分できないでいる。



12/7 尺八と一休語り

2008-12-08 09:03:20 | 虚無僧日記
昨日12/7 短歌会館主催での私の独演会が無事?終わった。
定員40名のところ60名の申込があり、午前午後の2回公演
となった。お客の反応はいかに?アンケートを後日コピーして
送ってくれるそうだが、見るのが怖い。

丁度10年前、会社をリストラ退職し、虚無僧となって、
『尺八と一休語り』の自主講演もスタートさせた。不況、倒産、
リストラは、当時マスコミが飛びつくネタだった。その後
万博で名古屋はイケイケドンドンの好景気だったが、ここに
きて突然の不況の嵐。「一休語り」も復活かと期待している
のだが、今回マスコミからは完全無視された。
一休の時代の「一節切り」を公開することをメインにレリース
を送ったが“なしのつぶて”。取材依頼に出向いたが「尺八?
ダメですね」と内線電話越しで断られ、会ってもくれない。

今朝の新聞には中国人の二胡や韓国の音楽の演奏はカラー
写真入りで載っているのにだ。自国の文化にこの無関心さは
嘆かわしい。

最後の戦犯

2008-12-08 07:43:59 | 社会問題
12/7 NHKスペシヤル「最後の戦犯」を観る。
中居くんの「私は貝になりたい」を観た後であり、舞台が、
先日行ってきた福岡と多治見ということも関心を寄せた。
【制作】NHK名古屋放送局 
【脚本】鄭 義信
【原案】小林 弘忠 「逃亡~油山事件戦犯告白録」
【出演】ARATA/倍賞美津子/原沙知絵/中尾彬/村田雄浩

テレビ嫌いな私だが、久々に緊張して食い入るように見た。
どうしても「私は貝になりたい」と比較してみる。「最後の戦犯」
は実在した佐田野修氏の手記を基に脚色されたから、事実に基づき
リアリティがある。

昨年夏「『私は貝になりたい』の真実」というドラマもあった。
これによって「私は貝になりたい」が、新潟の俘虜収容所での
捕虜殺害事件を基に、事実を大きく捻じ曲げて脚色されたものと知る。
事実から離れると嘘臭さが鼻についた。その思いは、映画監督の崔
洋一氏が12/4の中日新聞で「ずれた主眼、浅いドラマに。製作者の
意図する涙は残念ながら一粒も出なかった」と書いてくれている。

これに対して「最後の戦犯」は納得いく展開と映像描写だった。
予告では判決がどう出るのか結論を知らせていなかったが、案の定
死刑は免れホッとした。それにしても、同じ罪で死刑になった人と
朝鮮戦争のゴタゴタで減刑とは、裁判の公平さを欠く。戦争犯罪を
裁く法廷そのものが何だったのかと問われてしかるべしだ。

冤罪その1 帝銀事件

2008-12-08 00:56:43 | 社会問題
12/4 北九州市の小倉城内にある『松本清張記念館』で、
清張の『日本の黒い霧』を題材にした映像を観た。当時の
貴重な映像フィルムを網羅して『帝銀事件』を解説していた。

帝銀事件は1948年(S23)私が生まれた年に起きた。
「誕生日の日の新聞」には『帝銀事件』が1面トップに
書かれてあるので、子供の頃から関心を持っていた。

帝銀椎名町支店の行員12名が青酸化合物を飲まされて死亡し
金が盗まれた事件だ。犯人は青酸化合物の扱いに手慣れており、
その致死量などを熟知している人物として731部隊関係者を
警察はマークするが、GHQの圧力で捜査は止められ、毒物の
知識など全くない平沢透氏が逮捕された。自白を強要されての
死刑判決から40年、平沢道貞は無実が晴れぬまま1987年
(S62)95歳で獄中死した。救う会や遺族によって今なお
再審請求が続けられている。
帝銀事件の後、弘前大教授夫人殺害事件、下山国鉄総裁轢死事件、
三鷹、松川の列車転覆事件と続く。戦後はまさに「黒い霧の中」
だった。こうした冤罪事件は戦後40件以上もあるという。

松本清張の執拗克明な調査と推理力で、平沢貞道の「無実」は
明らかと思われるのだが、それを認めようとしない国家権力の
横暴には身震いする。だから「裁判員制度」が導入されたと
いうが、「12人の怒れる男たち」を見ても、人が人を裁く
恐ろしさを思わざるを得ない。

冤罪その2 弘前大教授夫人殺害事件

2008-12-07 23:06:40 | 社会問題
那須隆氏死去 えん罪事件の元服役囚(共同通信) - goo ニュース 

弘前大学教授夫人殺害事件で犯人とされ服役した那須隆氏が亡くなった。
事件から実に60年、85歳だった。
私が中3の頃だったろうか、『歴史読本』で「那須隆氏の父親が息子の
無実を信じて、裁判費用として、“源氏の白旗”など那須家重代の家宝
を売り払ってしまった」という記事を読んだ記憶がある。那須隆氏は
那須与一の直系の子孫ということで関心をもったのである。

その後1971年(S46)真犯人が名乗り出てきたので再審請求。
それでも無罪判決を得たのが6年後の1977年(S52)、実に
事件から28年だ。真犯人は時効で起訴されず。裁判とはかくも時間と
お金がかかるものという教材だ。ところが裁判はこれで終わらない。
家族の受けた苦しみに対して「国家賠償」を求める訴訟を起こすが、
最高裁で棄却。

なんということだ。犯人とされた物的証拠は、シャツの襟に被害者の
血痕が付着していたことだが、どうも「検察側が後で付けた捏造
だった可能性がある」と違法性を認めながら、国家は賠償責任なし
と知らんふり。これには怒りを覚える。

ところで、全部売り払ったはずの那須家重代の家宝だが、昨年2007年
10月に栃木県大田原市に「那須与一伝承館」がオープンし、那須隆氏は
そこの初代名誉館長となった由。伝承管には那須家から寄贈された約7百点
もの史料が展示されているとのこと。開館1年で1万8千人を超える来館者が
あった由。はて???だが、まずは安堵。一生を棒に振った、いや振られた
苦しみ、怒りに哀悼の念を捧げたい。