鳥羽伏見の戦いについて「
林・白井両砲兵隊伏水戦争調書」に
林権助大砲奉行の配下として「牧原源蔵」「牧原源五郎」と母方の
「山室清美」、「山室佐武平」の名がありました。
内容は実に詳細で、「八重の桜」はそれを忠実に再現しています。
以下、一部を抜粋して転載。
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明治元年正月三日 卯の上刻、淀より大砲十門を引き、
行軍にて繰出し伏見に至る。町奉行屋敷前に休息す。
同所に関門あり薩土の兵守衛す。(中略)
幕兵の隊長「某」が来て「ここは拙者の持場となり、
貴所は是より東の柵門へ移動せよ」と。また「ここは
敵の本陣と相対する処にて甚だ難所なり」と云うので、
隊長(林権助か?)「武門の習い、難所と承る上は 拙者に
御任せに相成るべし」と掛合われければ、幕兵隊長 去る。
依て厳重に備え立て、弾丸を込るや否や、鳥羽街道の方にて
大砲の音ニ声す。此時隊長柵門に取付き押開ながら指揮するや否、
敵より大砲を発す。
我隊も取敢ず数間を隔て砲戦するに、隊長奮て槍を入るの令を下す、
其声天地に響く。既に接戦に及ぶの時、暫時、敵兵 店に潜み地利を
要め発砲雨の如し。我隊踏阻す。組頭「中澤常左衛門」丸(たま)に
当たって斃れ、引続て手負討死 数多(あまた)に及ぶ。
其時、隊長の命を受け、巨海源八郎と「牧原源蔵」が、他隊に
応援を頼みに行き、まず「生駒隊」に至りて応接を乞う。しかし
生駒が曰く、「陣将の命が無くては、出兵相成らざる」旨を云う。
猶又 苦戦の次第を再三云えども、一向聞かず。しかた無く引返して、
此旨を隊長に告ぐ。隊長憤怒に堪え「それでは 見殺しに致すも
同様なり。潔く死を致し、隊名を汚さず、 名を万代に残せ」と
しきりに発砲の折、再度槍を入るるの令を下す。
一同兵鋒益鋭く進み接戦に及ぶの処、嗚呼残念なる哉、
隊長 銃丸三ヶ処に当たり、膝まずいて なお下知す。(このシーン
「八重の桜」にあり)
引続て手負討死数多に及び、且つ隊長を敵の手にとられんことを恐れ、
新美民弥、柴外三郎、何某三人保護し、ひとまず伏見屋敷に引取る。
其時隊長の曰く「一人も拙者に構わず、追撃致すべし」と。
此時、広川元三郎 駈来て、隊長敵の手にかかるも計り難しと云て、
すぐさま看病として附添矢島七之助、水野万吾、柴外三郎、大蒙謙吾
舟にて大坂に差送る。
残りの隊は元の立場にて初めの如く防戦す。其時敵兵捧火矢を放て
鬨の声を大に振い、煙燃る煙焔天を漲り、此に乗て敵味方互に
一際烈戦するに、追々我隊の退口火の手上る。
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「此日の討死」として、二十名の中に、遠戚の「栃木只三郎、
栃木勘之丞」そして、「手負い、帰営後死す」として「林権助」他、
十数人の名があり。その中に、母方の親戚「山室清見」の名が
ありました。
戊辰戦争では動乱のさ中、戦死者、負傷者の姓名、また交わされた
言葉など実に詳細に記憶され、記録されていることにまず驚きます。