「最近は、虚無僧に喜捨してくださる方も めっきり
少なくなった」なんて、嘆いてはいけない。
狂言に『楽阿弥』というのがある。室町時代の作とも。
(私は、江戸時代の作と考えている)
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その昔、「楽阿弥」という尺八狂いがいて、時と所をかまわず
門付けして尺八を吹くものだから、村人に嫌われて、布施も
もらえない。
また「楽阿弥」は 布施がもらえないことに腹を立てて、
あちこち行って悪態をつき、人を責めるものだから、
村人たちに捕えられ、尺八のように、縄でしばられ、
矯(た)められ、炙(あぶ)られ、のこぎりで轢(ひ)かれ、
殺されてしまった。
「あの世に行っても 尺八への妄執を断ち切れずにいる。
この苦しみを救ってくれ」と、亡霊となって現れ、旅の僧に
供養を願って消えた。
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いやはや、私は「今楽阿弥」でござる。
ついでに、虚無僧の曲に「やぶからし(藪枯らし)」という
手があったそうな。
村に「門付(かどづけ=托鉢)」に行って、全然お布施が
もらえないと、虚無僧が集団で押しかけて、大勢で一斉に
ブーブー吹く。当時の虚無僧の尺八は、長さも音程もまちまち
だから不響和音もひどいところ。「藪(やぶ)も枯れるような
騒音」ということ。しかたなく、村人が米なり金銭を差し出す。
そこで、村人も自衛手段として「留場(とめば)」という
制度を作るようになった。毎年一定の米を虚無僧寺に納めるので、
この村には虚無僧が来ないように取り締まってくれ」というもの。
この「留場証文」は結構、古文書としてあちこちに現存している。
すると、虚無僧は門付に行かなくとも、飲み食いはできるように
なったので、寺に女を囲い、一日中、飲む打つ買う三昧に堕落して
いった。そして今度は「留場」をめぐって「虚無僧寺」同士が
争うようになる。(酒)を飲み、博打に興じ、さらに闘争を
こととする。
それは、すでに鎌倉時代の末に書かれた『徒然草』にも
書かれている。当時は虚無僧は存在せず、その源流と思われる
「暮露(ぼろ)」だが、彼らは“仏道修行”という顔を持ちながら、
“闘争を好む”と。
しかし、このことは「親鸞」の「人は誰も善と悪の二面性を
備えている」などという教えにも つながっていると私は
考える。「善も悪も無い」。それと虚無僧の「明も暗も無い」は
一緒のことなのだ~。
「教えて!」というサイトで見つけました。
【質問者】
最近、お坊さんのような格好をして、顔は大きなかごを被って
見えないようにして、笛を吹いている人がいます。不気味です。
たまに二、三人で笛を吹いてるときもあります。とても怖いです。
この人たちは何者なのか何をしてるのか、教えてください。
【回答1】
時代劇などでお馴染みの?虚無僧だと思います。
以前、何の番組だったか、虚無僧の正体を追跡したものがありました。
この人は普通の会社員のおじさんで、タダ単に尺八が趣味なので、
趣味が高じて虚無僧の扮装をして街角で吹いていたらしいです。
世の中にはこういう人もいるようですので、ご質問の虚無僧が
本物かタダのコスプレかは判りませんが・・・・。
【回答2】
虚無僧です。
思うに人々の好奇にさらされても動じない強い精神力を培う、
というような修行の一環ではないでしょうか。
首からぶらさげているカゴのなかにお布施を入れると、お払いを
してくださいますよ。お払いと言っても、数珠を頭の上で振る程度
ですが。私は、虚無僧さんを見かけると必ずお布施します。
日常の中でほんのすこし厳粛な気分になれます。
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ムムムム。「虚無僧」を知らない人が多くなってきた。だからこそ
今「虚無僧」をしなければ、「虚無僧」の文化が廃れてしまう。
と言っても、【回答者1】様のように、「虚無僧は普通の在家」です。
【回答者2】様。「人々の好奇にさらされても、動じない精神力を
養う修行」とは、よく云ったものです。その通りです。もひとつ、
「不気味」とか「怖い」と思われないように、明るく温かい、優しい
オーラを発する修行と私は心得ています。
「頭を下げると、数珠を振ってお払いをしてくれる」?? それは
托鉢僧でしょうかね?お払いをする托鉢僧というのは、知りません。
虚無僧は、言葉は一切発せず、尺八の音で心を清めていただければ
それが功徳です。
「虚無僧を見かけると、必ず、お布施をします」。
いやあ、うれしいですね。まだこういう方が 居らっしゃるから、
善意にすがって虚無僧できるんです。ありがたや、ありがたや。
別の「質問」で
布施をする方が「(布施をさせていただき)ありがとうございます」と
言うもので、もし、虚無僧が「ありがとう」なんて云ったら、そいつは
「偽者!」
というのもありました。その通りなんです。なんですが、なかなか
「布施」の意味をご存知ない方が多いので、ついつい「ありがとう
ございます」と云ってしまう私です。あ、そうだ、私も「ニセ坊主」
でした。「ホンモノかニセモノか」。それに こだわる心も捨てよと
仏教は教えます。
明治4年「太政官布」によって「廃仏毀釈」が行われ、虚無僧の
普化宗や山伏の修験道も廃止された。日本の伝統的宗教である
仏教を禁止するという大胆な施策は、どうして出されたのか。
それを提言したのは、なんと、会津藩士の「山本覚馬」。
NHK大河ドラマ『八重の桜』で知られるところとなった、八重の兄
である。
慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見で幕府方が敗れると、京都に
留まっていた山本覚馬は捕らえられ、投獄された。その時、すでに
目は見えなくなっていたが、付き人に口述筆記させて『管見』という
建白書を西郷隆盛に差し出した。新しい世になった時、日本が
改革すべきことを23項目にわたって詳しく論じたものである。
政治、経済から庶民の生活様式にいたるまで、実に細ごまと
具体的に述べている。その中に「仏教の廃止」が盛り込まれている。
「今、日本には45万軒ほどの寺院があり、僧職に就く者が
100万人もいるが、法を弁(わきま)え戒律を守る者は千人に一人。
悪行をせざる者は百人に一人、わずかにあるのみ。
その他の僧侶は皆肉食をなし、婦女を囲い、甚だしきは
寡婦を奪うに至る。物欲は俗人よりも強く、金貸しまでしていて、
世に益無し。これを廃するのが可なるべし。
これよりは、寺はみな学校とし、僧侶には農業、商業の実学を
学ばせ、官許をもって資格を与え、商人には英語、仏語、
算術を、農民には農業を、人に益ある事を教えしむべし。
それがダメな者は、農民、職人に帰属して、社会の富の生産に
従事させるべし。そうすれば、一千万金の益を生むことになる。
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江戸時代なのに、「僧侶が肉食、妻帯」とは驚き。「仏像を擁して
墓を守るのみ」と、現代と全く同じことを言っているのである。
今日の仏教への批判は、すでに江戸時代の庶民も同じで
あったことがわかる。
正規の寺や僧侶でさえ、このように見られていたのだから、
虚無僧などは、無頼漢のなにものでもなかったのである。。
妙法院(みょうほういん)は、京都市東山区にある天台宗の寺院。
山号は「南叡山」。開基は比叡山延暦寺と同じく「最澄」と伝える。
「妙法院門跡(もんぜき)」と称するのは、皇族・貴族の子弟が
歴代住持となる別格の寺院(=門跡)であることを意味する。
妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と
並び称されてきた名門寺院である。
また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。
「国家安康」の文字が豊臣家の滅亡となった釣鐘のある「方広寺(大仏)」や
蓮華王院(三十三間堂)を管理する。
なにせ、三十三間堂から豊国神社、大仏まで管下におく、広大な敷地を
有する。そして、この一画、三十三間堂の際、「本池田町」に虚無僧寺の
「明暗寺」があった。ということは、誰も知らない。
「虚無僧は幕府の隠密だった」という話も、あちこちで
見られる。これも随分と怪しい。まず「公儀隠密」や
「お庭番」のように、幕府から正式に「隠密」として
公認された事実はない。
むしろ、虚無僧の方から「不審な人を見かけたら番所に
お知らせしますので、市中門付け(托鉢)を容認して欲しい
と嘆願しているのだが、虚無僧の方がよっぽど不審者だ。
越後の新発田(村上藩)で、虚無僧が 岡っ引きまがいの
ことをすることに、藩主の了解を得ていたという話が
あるが、これも虚無僧側の一方的な作り話のようだ。
「虚無僧の領内進入禁止」とか「通行は認めるが、
門付けは禁止」とした藩もあった。名古屋でもそうであった。
「虚無僧が幕府の隠密」とされたのは、吉川英治の
『鳴門秘帖』だろうと、私は考えている。
白面の美剣士「法月(のりづき)弦ノ丞」が、幕府の
命を受けて「虚無僧姿」となって阿波(徳島)に潜入する
というストーリー。
「虚無僧姿」では目立ち過ぎだ。あの格好で どうやって
海を泳いで渡るのだ。刀はどこに隠していたのか。
まったく辻褄の合わない荒唐無稽な小説だが、映画で
「長谷川一夫」や「市川雷蔵」「杉良太郎」ら 美男の
俳優が演じて、虚無僧がヒーローとなった時代があった。
ついでながら、吉川英治は「虚無僧」がよっぽど好きで、
『親鸞』にまで「虚無僧」が登場してくる。虚無僧は
室町時代の末に現れるのであって、平安・鎌倉の世には
存在しないのだ。
虚無僧へ与えられたといわれる『家康公お墨付』に、
「板倉勝重」が「本田正信・正純」父子とともに署名
している。ありえないことらしい。
「板倉勝重」は京都所司代だった。その子「板倉重宗」も
父の跡を継いで京都所司代となった。
「板倉重宗」が京都所司代の時(1620-1656)、寛永15年
(1638)「島原の乱」が起き、弟の「重昌」が総大将として
派遣され戦死する。
乱の後、浪人の取締りが厳しくなり、京都白川橋辺に仮住まい
していた虚無僧「淵月了源」も京都所司代に呼びだされる。
「淵月」は「尺八をよすがとして暮らすもので、ご政道に
そむくような不埒な心は起こしませぬ」というような
申し開きをし、所司代重宗は「その心にいたく感じ、尺八
を吹く者は悪さをするまい」と、妙法院の裏に45坪の
土地を斡旋してくれ、一宇を建ててくれた。それが「京都
明暗寺」である。
「京都所司代・板倉重宗」は、弟「重昌」が尺八を吹いていた
ことから、虚無僧「淵月」に好意を示したのであろう。
この「京都所司代・板倉重宗」が虚無僧を容認してくれた
ことから、後世、虚無僧たちは、勝手に「家康公お墨付」を
偽作し、その署名人に「重宗」の父で京都所司代の「勝重」の
名を盗用したのではないかと私は考えている。
なお、「板倉重宗」の遺品の中に「普化禅師」を描いた
掛け軸があった。「重宗」は「普化」を知っていたことになる。
ブログを見ていたら、京都建仁寺の法堂の中で
虚無僧姿の数人が尺八を献奏している写真があり、
説明に「ここ(建仁寺)が虚無僧の発祥地とのこと」
とあった。
「そんな史実は知らない」と以前、書いたが、竹友社の
H.P.に、こんな記述を見つけた。
琴古流川瀬派の創始者、川瀬竹友が若い頃、西国へ
虚無僧の旅に出た時、京都で樋口対山に会っている。
建仁寺は、樋口家の菩提寺で、対山の紹介で、竹友
は建仁寺に参禅した。その一部始終が詳しく綴られ
ている。
樋口対山は名古屋の人。初め“鈴木孝道”といい、
名古屋で西園流尺八を修め、後京都に出て、樋口家
の養子となり、樋口対山を名乗る。
京都の虚無僧寺『明暗寺』は、明治4年廃寺となり、
最後の看主昨非は本尊の「虚竹の像」他什物を、
親交のあった東福寺善慧院に預けて出奔する。
明治21年、東福寺の本堂が全焼し、尺八愛好家たち
の発案で、「東福寺の復興に浄財を集める」という
趣意で「明暗教会」が設立された。そして樋口対山
が代表となり、「明暗流」を復活することとなる。
つまり、現在の明暗流は、樋口対山が再興したもの
で、その菩提寺が建仁寺。対山の墓もあるのかも。
実は、私は、昨年京都に虚無僧に行った時、偶然、
建仁寺にお参りし、周辺を周った。樋口対山の菩提
寺とは知らず。これも呼ばれたのかもしれない。
江戸時代の貞享3年(1688)年、黒川道祐によって刊行された
京都の観光案内本『蕹州府志』 には「明暗寺」が「妙安寺」と
なっている。はて“妙”なこと。「蕹州」とは「山城国=京都」のこと。
虚無僧が「普化禅師」を祖師と仰ぎ、「普化」の「明頭来明頭打、
暗頭来暗頭打」を唯一の教義とするならば「明暗」を「妙安」と
誤記するはずがない。
そこで私は考えた。「普化」と「明頭来」の教義は、江戸時代の
はじめにはなかった。
現代の虚無僧は「げ箱」に「明暗」と書いているが、そのような
「げ箱」は江戸時代の浮世絵、錦絵には描かれていないのだ。
そこで「明暗寺」の創建秘話を紹介しよう。
寛永14年(1637年)の暮れに勃発し、翌、寛永15年(1638年)の
春に収束した「島原の乱」後、幕府は「浪人狩」を行う。
そこで、京都の白川橋辺に住んでいた虚無僧「淵月了源」も
京都所司代に呼び出される。時の所司代は「板倉重宗」。
島原の乱平定の総指揮官となり討ち死にした「板倉重昌」の
弟。兄の「重昌」は尺八の名手でもあった。そこで、浪人は
捕らえて追放にでも処するところだったが、「重宗」は虚無僧の
「淵月」に同情し、妙法院の一画、三十三間堂の南に40坪
ばかりの土地を借りてやり、草庵を建てて住まわせることとした。
これが、後の「明暗寺」。妙法院の一画だから「妙安寺」と
名づけたのではないだろうか。場所は「本池田町」というから、
現在、東海道線が走っているあたり。なんと、そのすぐ南は
「東福寺」である。幕末に「明暗寺」の最後の看手「明暗昨非」が
寺の本尊「虚竹禅師」の像や什物一切を持ち出し、親しくしていた
「東福寺」の塔中「善慧院」に預けて出奔したのも、お隣り
さんだったからなのだ。
さて、京都所司代板倉周防守重宗の特別のはからいで
妙法院門跡の一画に土地を借り、「妙安寺」を建てて
住むこととなった「淵月了源」の素性について、私は
次のように推理してみた。
推論の根拠は、次の三つの史料。
①小田原北条家では、早雲の遺児「幻庵」が尺八を吹き、
尺八(当時は「一節切」)製作の名人だったことから、北条家の
家臣の多くが尺八をたしなんだ。「茶会」などにも虚無僧の
格好で出席するのが流行った。(虚無僧といっても当時は
天蓋や、ゲ箱などは無い)
②天正18年(1590)、秀吉による小田原攻めで、北条家は
滅亡するが、当主の「氏直」は家康の娘婿であったため、
死一等を減ぜられ、高野山に幽閉される。
この時、付き従った家臣は300名。
高野山には「小田原別所」という地名もある。
「氏直」は、まもなく病死し、300名の家臣は路頭に迷う
ことに。
③豊臣政権下で五奉行の筆頭だった「淺野幸長」は、
その恩賞として、紀州37万石の太守となる。そして
信長・秀吉によって打ち壊された興国寺を再建する。
その時、「荒れた寺に虚無僧たちが多く棲みついて
いたのを追い払った」という記録がある。
④「淵月了源の申し伝え」という書が、尺八都山流の家元
中尾都山氏宅に保管されているそうな。「淵月」の後継
「月山宗桂」は、1695年、「淵月の申し伝えにより」、
「淵月」の遺骨を、紀州由良の興国寺に分骨埋葬し、
興国寺に対して「明暗寺の本寺」となってくれるよう
申請している。興国寺としてはこの申し出を無視していたが、
明暗寺より、「今後、明暗寺の看主は興国寺で得度受戒をし、
死後は興国寺に埋葬してもらう。そのためのしかるべき金を
納める」との申し入れで、3年後、明暗寺を末寺とした。
しかし、その後、興国寺の親寺、大本山「妙心寺」から
「明暗寺を末寺にするとは、いかなる理由か」と詰問を
受けている。これについて興国寺側からは「なんでも、
その昔、つながりがあったようだが、文書が火事で焼けて
しまって不明」と回答している。
以上の史料から推察するに。
「淵月了源」は、小田原北条家の家臣で、氏直に従って高野山に入った
300人の家臣団の一人だったのではなかろうか。北条氏の家臣は
「幻庵」の影響で、みな尺八が吹けた。
そして氏直没後、彼らは浪人して興国寺に虚無僧となって隠れ住んだ。
しかし淺野氏が紀州に入封し、興国寺を再興した折、追い払われることに。
それで、淵月は、紀州を離れ京都の白川のほとりに住んでいたところ、
京都所司代から、浪人詮議で呼び出しを受ける。彼は北条家の遺臣で
あったことから、所司代板倉重宗は同情し、彼の口利きで、妙法院の一画に
草庵を建ててもらい住むことになった。そして遺言で興国寺に分骨、埋葬
されることを願った。
「淵月」は、妙法院ではなく、なぜ「興国寺」を指名したのか。実は「興国寺」は
北条家と深いつながりがあった。興国寺は当初「西方寺」といい、鎌倉北条氏の
ご家人「葛山氏」が「実朝」と「北条政子」の菩提を弔うために建てた寺だった。
北条早雲の子「幻庵」の母は葛山氏であり、「幻庵」は葛山姓を名乗った
時期もあった。そのような縁で、高野山で浪人となった北条家の家臣たちは
興国寺を頼ったのではないだろうか。
虚無僧研究会の会報「一音成仏」32号に詳述しております
今日 金曜日のロシア時間 15時 ロシアのイガレ君と
Skypeで、尺八レッスンをする約束。
朝から You-tubeで英語のレッスン。想定される会話を
英語で紙に書いて待機。日本時間の夜8時と思っていたら
なかなか かかってこない。そうでした。10月までは時差 5時間。
11月から冬時間で、時差6時間に変更でした。なので 夜の
9時10分にコールあり。始まってしまえば、勢いで40分、
「日の丸」「チューリップ」「メリーさんの羊」そして「夕焼けこやけ」まで
みごとに吹ききりました。
次回から、毎週金曜の夜9時~10時で約束した。こんな時間
マンションでは尺八は吹けないのだが・・・・・。