現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

虚妄想 その2

2018-05-25 19:56:19 | 虚無僧日記

夜8時を回ると、駅前も妖しくなってくる。
名鉄駅前で尺八を吹いていると、若い男女が
私の前で、抱擁し接吻を始めた。虚無僧など眼中
にないのか。こちらをチラチラ見ながら、長い
ディープキス。向こうからは天蓋の中の顔は
見えない。しかしこちらからは良く見えるのだ。

名古屋もここまできたか。5分たってもやめない。
男は女のシャツのボタンをはずし、胸に手を入れて
乳房をもさすり始めた。

ようやってくれる。そしてチラチラこちらに目を
やるのだ。「なに?私を試しているのか?」
こんなことで興奮するワシではない。尺八で
パカーンと殴ったろか。いかんいかん、平静平静。
心鎮めて尺八を吹く。「抱擁のさまたげ」じゃない
法要の『手向け』じゃ。

私の尺八って催淫効果あるのか?そういえば昔、
海童道の『産安』をバックに踊るストリップが
話題になった。「エロぶんPM」ともいわれた番組

「イレブンPM」ご存知かな?

そのおかげで、“前田びばり“じゃない前張りだけで                                        踊る前衛舞踊に、尺八演奏を頼まれたこともありました。


虚無僧はやくざ?

2018-05-25 19:46:43 | 虚無僧って?

虚無僧が始祖と仰ぐ普化(ふけ)は「瘋癲(ふうてん)漢」と
呼ばれた。「フーテンの寅さん」の元祖だ。国民的アイドル
「寅さん」は的屋(てきや)だ。

的屋は神社仏閣と関係が深い。そもそも神社や寺の普請の
ための資金集めてとして、門前で祭が挙行され、多くの
露天商が神社や寺の承認を得て、営業し、売上金の一部を
上納した。

弓矢で的を射って景品をもらう「的屋(てきや)」や、吹き矢
から「矢師(やし)」という名称が生まれたらしい。「やくざ」は、
そのような伝統文化から発生したから、ヤクザの隠語には
「寺銭(てらせん)」とか「ご開帳」という言葉がある。この点で
考えると「寺」と「やくざ」は同類なのだ。

虚無僧の明暗教会も、明治22年、京都の東福寺が火災で
消失したため、その再建費用を集めるという名目で結成され
た。以来、虚無僧の本山「明暗寺」は東福寺に寄生する形
で存在している。

江戸時代、虚無僧も“大道芸人と同類”とみなされていた
ふしもある。


虚妄僧 その1

2018-05-25 19:45:11 | 虚無僧日記

江戸時代以前、「虚無僧」は「薦僧」「虚妄僧」などとも
書かれた。「妄想」なるほど、虚無僧は大言壮語。
「わしは、10万石の直参旗本だった」「家康公にもお目見え
叶う家柄だった」など、すべて嘘っぱちである。虚無僧の

かく言う某(ソレガシ)虚無僧一路も、時の総裁小泉純一郎氏に
お目にかかったことがあるのじゃ。しかも二度も。
最初は、平成13年7月14日。二度目は平成17年8月21日。
小泉氏にわざわざ名古屋までお越しいただいての拝謁じゃ。

(実は、この日は、小泉総理が街頭演説で名古屋に来られた
日です。一度目は栄で、二度目は名古屋駅で、一万人が集ま
って大騒ぎでした。その時、たまたま2回とも現場に居合わせて、
遠目に小泉総理の演説を聞いたというだけの話です、すみません)

なにしろ虚無僧の着ける袈裟のことを「大袈裟」というのです。
知ってました?


伊勢の普化宗寺「普済寺」

2018-05-24 04:27:00 | 虚無僧って?

「伊勢の普済寺」で検索して見つけました。随分詳しく調べてあります。でも虚無僧の歴史に関しては、90% 嘘。しかしこれが通説として信じられており、私としては痛切に悲しい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

虚無僧の歴史は古く,七百年以上前にさかのぼる。
 法燈国師によって開かれた臨済宗法燈派「興国寺」(和歌山県由良町)は虚無僧の本山として名高い。

 東福寺(臨済宗)の心地覚心(1207~1298)が,建長元年(1
249)入宋,建長六年に弟子四人を連れて帰国,紀州由良に興国寺を立てた。
 興国寺の中に普化庵を建て弟子を住まわせたが,この流れの中から京都白川に明暗寺が作られることになっていくのである。

 禅宗が栄えて,禅宗の中の普化宗は紀伊,伊勢,志摩を中心に末寺百四十三ヶ寺を数える関南第一禅林(箱根の関より南の

 

 

 

 

禅宗の寺の第一に数えられるという意味)と言われた。
 「・・・大門から入ると二十三坊の坊舎が左右に建ち四十六坊もあった・・・」と古い文献にあり,当時全国から多くの学僧が集まり”学問の府”の偉容を誇っていたが,信長・秀吉に焼かれてこれらの堂塔はことごとく消失した。

 尺八の伝統の法は,国師から高弟・虚竹禅師(京都明暗寺開山)およびその弟子たちに受けつがれ,やがて普化宗に発展し,虚無僧により全国にひろめられた。

 天明六年(1786)の『勢州亀山藩領若松三村明細帳』には岸岡村枝郷・打越京都明暗寺末として普済寺の記述が見られる。(若松三村とは,北若松村,南若松村,岸岡村である)
 また,江戸時代末の地図には,打越村(江島の隣村)に普化宗の寺があったことが描かれていて山門の前には立て札が立っていたことがわかる。
 家康が与えたと伝えられる「虚無僧掟書」には虚無僧に重要な特権が与えられている。
 帯刀の許可。浪人の保護。虚無僧になれるのは武家に限る。諸国行脚の途次(とじ)で不法者を捕らえ,役人に引き渡す権限をもつ。日本国中往来自由,芝居・相撲などの木戸御免といったものである。
 治安維持のための情報収集に虚無僧が一役買ったと思われるが,秘密裏に行われることなので実態は定かでない。
 一方,虚無僧に対する制限も多かったようで,鈴鹿市肥田村に居を持つ服部庄右衛門(津藤堂藩大庄屋)の文書には,その立入禁止の地域を設けたりする触れ書がしばしば見える。
 通常,武士は公務以外に旅行は許されず,旅籠には宿泊をさせない定めがあって,虚無僧は全国にある虚無僧寺(普済寺)をたよりながら旅をした のである。
 
虚無僧を統制する役所あるいは寺は,伊勢地方では桑名伝馬町に普済寺役所,岸岡村打越に普済寺があった。

『郷土研究』 より 「女相撲」

2018-05-19 23:53:10 | 虚無僧日記

『郷土研究』 愛知県郷土資料刊行会編 より

75-9 No.7 P16

明和年中、「女相撲」といういかがわしい興行が、あちこちで

行われていた。中でも うけたのが「女と座頭」との取り組み。

 

今でこそ「相撲は国技、神聖なもので 女は土俵には上がれない」

なんていっているが、私は、30年ほど前、アメリカ人のレポートで

「女相撲」についての詳細な記事を見た。「女相撲」があったことなど

資料も見たことないが、アメリカ人がよくあそこまで調べたものだと

感心したものである。

 


「徐福」伝説

2018-05-18 19:36:53 | 虚無僧日記

「徐福」のことは司馬遷の『史記』に書かれてある。

徐福は、秦の始皇帝に、「東方に不老不死の霊薬が
ある」と具申し、3,000人の童男童女と百工(多くの
技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し
「平原広沢」の地に辿りつき、そこの王となり、
戻らなかったという。

見方によっては、「徐福は、始皇帝に不死の薬を
探しに行く」と言って、莫大な資財と援助を得て、
海外に逃亡し、そこの国の王になった裏切り者で
ある。始皇帝を騙した男だ。始皇帝から東方行きを
命ぜられたほどの人物だから、名門の出で、相当
の権力者だったのであろう。始皇帝の暴政から
逃れる手段でもあったか。

しかし、現在の中国に「徐」姓が無いのは、一族
全員引き連れて渡航したか、あるいは、始皇帝の
命に背いたので、残っている者は「徐」姓を名乗れ
なくなったからだとも。

1982年、江蘇省にある徐阜という村が、かつては
「徐福村」と呼ばれており、「徐福」ゆかりの村
と話題になった。「徐州、徐州と人馬もなびく~」
今や、日本からの観光客も多いそうだ。

紀元前に、中国から 3,000人もの人が日本に渡って
来、農耕や機織などの技術を伝えたというのは、
十分あり得る話だ。

徐福伝説は、東北から九州まで、日本の各地に
ある。そして、彼らは「秦(しん)」から来たから
「秦」さんと呼ばれ、機織(はたおり)を伝えた
から「秦=はた」さんと呼ばれるようになった。

私なりに納得。なんか普化宗の伝播に似ている
話だ。


「徐福」の墓

2018-05-18 19:34:47 | 虚無僧日記

数年前、虚無僧で和歌山県新宮に行った時のこと。
新宮には「徐福の墓」があり、その日 8月12日は、
丁度「徐福を供養する万燈祭」が行われていた。

中国からの来賓も迎えて、賑々しく行われていた。
虚無僧姿の私も関係者のように見られて、勝手に
前列の椅子に座ってしまった。

そう普化宗も、中国から伝わり、和歌山県由良の
興国寺が開山となっているのだが、どうも虚無僧
については、PR不足。知られていない。

そういえば、秋田の男鹿半島、富士吉田市、佐賀と
虚無僧で行った先々で「徐福」伝説に出会った。
「灯台下暗し」で、名古屋の熱田神宮にもある。
愛知県には鳳来寺もある。そこも行った。


下関市豊浦の虚無僧墓

2018-05-18 19:33:00 | 虚無僧日記

昨年、山口県を旅して、下関から海岸沿いに北へ
向かって豊浦町を通った時、「虚無僧墓」という
看板を見つけた。やはり“呼ばれた”という気がした。

山口県には、室町時代の文明18年(1486)『大内家
壁紙(禁制)』に「薦僧、放下、猿引きは追い払え」
とあり、江戸時代を通じても、虚無僧寺は無く、
虚無僧も居なかったと思うのだが、解説には、

「天保年間(1830~1843)1人の虚無僧がやって
きた。しかし、尺八を吹いているとき以外は、
酒ばかり飲んでおり、村人達は敬遠していた。
ところが、村の娘が山賊に襲われたとき、娘を
無事救い出したのは、この虚無僧だった。

弘化3年9月15日、虚無僧は、突然、川棚川の河原に
走り出し、大きな岩に頭を2度3度ぶつけて倒れた。
虚無僧は、村人に「脳を冒されたために、なにも
してあげられなったが、私の墓をたてて酒を供えて
くれれば、あなた達の苦しみを和らげてあげよう」と
言い残して息を引き取った。

村人達は、虚無僧が頭の痛みを和らげる為に酒を
飲んでいたと知り、墓を建てて供養した。この
虚無僧墓は、頭の病気に御利益があるとされて
いる。とのこと。

(所在地:下関市豊浦町川棚中小野)

というわけで、虚無僧がやって来たらしいのだが、
天保~弘化にかけて、岐阜芥見村で虚無僧同士の
争いがあったことから、取調べを受け、その結果
虚無僧の中には不逞の輩も多いとされて、取り締
まりが厳しくなっていた。

幕府から「虚無僧を勝手に泊めてはいけない」と
いうお触れも出されており、虚無僧は厄介者だった。
そんな虚無僧でも、こうして今日まで村人によって
供養されているとは、うれしい話だ。

ひとり山賊に立ち向かい娘を助けたのも「命惜しまぬ」
覚悟だったからか。


辻 潤 

2018-05-17 23:44:30 | 虚無僧日記

辻 潤(1884年-1944年)は、12歳の頃尺八に夢中になり、
開成中学に通っていたが、尺八で学業も怠け、中退。
14歳の時 荒木古童に入門。尺八で身を立てようとするが、
荒木古童に反対され断念したという。

内向的で対人恐怖症、人と交わるのが苦手。好きなこと
には徹底的にのめりこむ。会社勤めがイヤで、英語で
身を立てようと英語にのめりこみ、上野高等女学校の
英語教師となるが、教え子の伊藤野枝との結婚で辞職
させられる。

伊藤野枝は辻から「青鞜」を毎号 借りて読み、「婦人解放」に
目覚め、辻に魅かれたのだ。辻としては、野枝の自由奔放な
性格に押し捲られたといってよい。野枝が他の男と不倫をし、
さらに辻に離婚を申し出て、大杉栄の下に走った時も、
辻は何も言えなかった。

その野枝が大杉栄とともに獄死したあと、辻は「野枝の
前夫、振られた男」として世間の注目を集め、彼の著作物が
売れたりした。また英語力を生かして翻訳物も売れた。

しかし、酒に溺れ、借金に追われ、無銭飲食で留置場に
入れられたり、精神に異常をきたして、精神病院にも
入れられた。

晩年の辻は、尺八一本持って知人の家を渡り歩く放浪
生活となる。食べ物を提供してもらえれば食べ、無ければ
何も食べないという生活で、最後は餓死する。

ジャジャジャ~ン。なんか似ている、私に。


永井荷風と尺八

2018-05-17 23:42:08 | 虚無僧日記

作家の「永井荷風」が尺八を吹いたとは知らなかった。 
ネットで検索したら出てきた。

荷風は、子供の頃、上野の音楽会で荒木古童の尺八を聴き、
その時のことを、晩年にこう語っている。
「一世の名人といわれた技藝家の技藝には、實に犯し難い
威厳があるものだと云ふ事を、子供ながらに、つくづく
感じ入った。自分は もし出来る事なら 明日と云はず
其の日からでも、古童翁の許に弟子入りして、あの不思議
なる技藝の道を教はりたいと思った。しかし相手は家元の大家、
厳格な永井家の父の事を考えると、まずは 内緒で独習して
みようと諦めをつけた。

で、先づ學校の歸り道、神保町の古本屋をあさって、
『尺八獨稽古』なぞといふ書物二三冊を買ひ求め、其の次には
笛屋をさがした。手頃な価格といっても値は 5円、その金を
才覚するために、所持していた銀時計と新調の外套を質に入れ、
家人には時計をポケットに入れたまま外套を盗まれたと 嘘の
申告までして茶を濁した程であった。


なんか、私の少年時代とそっくりだ。そして、荷風が 実際に
古童門下の可童について尺八を習いだしたのは、17歳の時。

これも私と同じ。私も、それまでは独習で、正式に都山流の
古賀将之の下に入門したのは17歳の時だった。

「1959年4月30日、荷風は 79歳で亡くなった。所持金も少なく、
孤独な老人の死だった」という。

ゾォー、私の末路を暗示している。