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歌舞伎と鬼平犯科帳

2007-10-10 12:21:25 | 雑感
先週の3連休、「鬼平犯科帳・歌舞伎版」を有線でやっていた。
ご存知長谷川平蔵を中村吉右衛門、
そのほかの役どころは久栄に福助、船頭友五郎に歌六、そして岸井左馬之助に中村富十郎。
TVや映画といった今風現実味を表現手段とした仕草や言葉遣いとはことなり
その1つ1つが歌舞伎の仕草、言い回しで歌舞伎としての表現に則り、鬼平犯科帳の歌舞伎としての演題は昔の近松物や南北のもととはちがった面白さがあった。

歌舞伎という伝統芸能の持つ力強さは現代の作品を歌舞伎仕立てにすることができるのみならず、歌舞伎の演題として面白みをかもし出すことができるということにあるのかもしれない。
一方、考えるのは歌舞伎が伝統として受け継いできた演目を伝統芸能という枠で取れえることの意味のなさである。この「鬼平犯科帳」の演目を見る限り、伝統の技のうえに今風の演劇としてのあり方もあるように思われ、単に伝統芸能というかしこまったみるものではない、娯楽としての歌舞伎の意義を見出してしいるのだが、その中には伝統がはぐくんできた梨園の流れ、梨園を支える周辺の集団のあり方が大きな力となっていることを感じる。

池波正太郎の作品も歌舞伎になりうる素材であろうし、TVや映画という媒体が観客の下地を作っており歌舞伎「鬼平犯科帳」を身近なものとしていることも見逃せない。
現代における「鬼平犯科帳」の歌舞伎講演はおそらく江戸の昔でも多分同じような下地とか観客との情報の共有とかがあったことであれだけの支持を得、今日はで受け継がれることにあったのであろう。

昔の歌舞伎の演目を見ないわけでないが、この「鬼平犯科帳」をみた感想とは昔の歌舞伎のものとは大きな違いを感じる。一言でいうなら「鬼平犯科帳」は面白い、共感できるということで、伝統的歌舞伎では知的な興味を満足させるという楽しさである。

歌舞伎という伝統に甘んじることなく現代の作品も手がけ、しかも面白いものにする歌舞伎の持つ力は貴重なあり方だと思う。
決して看板役者だけでそれはできるものはなく、歌舞伎を取り巻く下書き、下座音楽、端役、衣装、道具さらには松竹という存在もあって、成り立っているものであろう。それらすべてが終結してはじめて歌舞伎が成り立つ、そのあり方に興味を覚える。

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