能福寺を後にして兵庫津の散策をします。
ちなみに、「津」は、
船置き場とか港の意味があって、
津々浦々で、全国のいたる所を意味します。
札場の辻跡
札場とは幕府が設置した高札場があった場所のことで、
高札場とは、町人が守るべきこと、してはならぬこと、
その他幕府からの布達を掲示する場所のことです。
札場の辻跡の道標
ここに札場の辻跡であったことを示す
道標がからくも残っていて。。。
保存するのならもう少しマシにと思うのですが、
殆どが埋まった状態です。
とにかく、この辺りが兵庫の中心であったようです。
兵庫県名の由来は、この近くに建築されていた
兵庫城に役所が置かれたことによるもので、
兵庫城に役所が置かれたのは、
ここにある兵庫港(旧称、大輪田泊)が
古くから国際貿易港として
開港していたことからのようです。
古代大輪田泊の石椋(こだいおおわだのとまりのいわくら)
1168年、平清盛は、日宋貿易の拠点とするために
奈良時代に、ここ大輪田泊りを大修築し、
日本からは好物や材木、
宋からは宋銭や書物、香料などが交易されました。
そして、1180年6月、平清盛の強い意向で
神戸兵庫区に道路を通し、
親平家派の一部の人々に邸宅が与えられ、
11月には、皇居に似せて造られた
清盛の私邸が天皇に提供されました。(福原京)
これを福原遷都と呼びます。
1952年(昭和27年)に新川運河の拡張工事の際に、
清盛の大輪田泊の大修築工事が行われた遺構と思われる
松丸太の棒杭、二十数個の巨石が発見されました。
清盛くん
大輪田泊は、国内で第一の港として賑わい、
明治元年には兵庫港が開港され、
今日の神戸港発展へと繋がっていきます。
「清盛がいなければ現在の兵庫の発展はなかった」として
平清盛を地域のシンボルとしてPRすることを決めたそうです。
新川運河(兵庫運河)
兵庫城跡
兵庫津と兵庫城の大規模な遺跡発掘調査が行われ、
その遺跡の上には、現在イオンモールが建っています。
新川運河
大輪田橋(おおわだばし)
神戸空襲で、この辺り一体の殆どの建物が
壊滅状態だったにもかかわらず、
大輪田橋は壊れずに残り、
空襲による茶色に変色した焦げ跡を
今も橋に観ることが出来ます。
さらに、阪神大震災では
親柱4本中3本が崩落する大きな被害を受けたそうです。
「大輪田橋戦災・震災復興モニュメント」
阪神大震災の被害で残った1本の親柱を復興して、
倒れた欄干を利用した「戦災・震災モニュメント。」
ブロンズ製のカタツムリの装飾がされていて
夜になると上部が赤く光ります。
秀吉と秀頼が、方広寺に造ろうとした19mの大佛は、
造っても造っても壊れたり、壊されたりしましたが、
この橋は、危機を何度も耐え抜いたようです。
神戸(兵庫)には、源平合戦の地が数多くあり、
兵庫津を散策して、大輪田の港、日宋貿易、平清盛、
遷都の歴史を思い起こすと清盛の墓所があっても
何ら不思議なことではなくなりました。
私の学生時代の歴史の修学程度をさらすようですが、
一時期、神戸に遷都されたことを知ったのは、
名所巡りを始めてからのことで、
神戸遷都(福原遷都)は、教科書で習ったかなあ。
もし習ったとしたなら見事に記憶から抜け落ちていました。