心の扉 神戸カウンセリング花時計

心理療法や催眠療法、ストレス解消や悩み等メンタルに関するもの、そして日常の出来事を自由気ままに掲載します。

作家 マクシム・ゴーリキイ

2021年08月04日 | 人物

 

ロシアの作家ゴーリキイは、

幼少の頃に母親が再婚したのが気に入らず

新しい父と母の椅子にヤニを塗り付けて

2人を動けなくしてしまったことがあるらしい。

 

 

例によって私はこの人の作品を読んだことはありませんが、

どうした訳か名前だけは知っていたんですよね。

なので今回を良い機会として作品ではなく人物に焦点を当てて

少しだけ調べてみると波乱万丈の人生だったようです。

 

ゴーリキイは、1868年(明治元年)に生まれました。

父親は早く死亡し気の強く美しい母親は再婚して家を出たので

幼いゴーリキイは祖父の家で育つことになります。

(母は子供は祖父母に預けて、自分は恋する男性の元へ………。)

 

残忍な祖父と質の悪い残忍な悪戯をする従弟たちと

近所の財産争いばかりしている小父達がいる環境の中で

昔話がとても上手で優しく接してくれる祖母だけが

ゴーリキィにとってたった一つの拠り所であり救いだったようです。

 

祖父の家が火事で丸焼けになり愛する祖母と自分の為に

稼がなくてはならなくなり、11歳の頃より靴屋、製図見習、皿洗い、

パン職人、漁業労働者、踏切番等々、色々な職業に就いたようです。

 

なのでゴーリキィは、中学はおろか小学校も卒業しておらず

生きることの苦しさからや政治への反発心から

16歳の頃には、革命運動に参加して何度か逮捕されたり、

19歳の頃には、祖母の死にショックを受けたのか

一度自殺未遂をしています。

 

レーニンと知り合い、革命がなされた後には、

レーニンに宛て「環境とものの見方、そして行動を変えるべきだ。」

と書いた手紙を送っています。

 

1921年に結核の療養のためレーニンの勧めに応じて

イタリアのソレントに移り住みますが、

イタリアの生活は貧しく惨めな暮らしであったためなのか、

故郷のことを懐かしく思ってなのか、

1928年以降は、何度かソビエト連邦を訪れるようになり、

1932年には、スターリンの求めによってロシアに帰ります。

 

その2年後に息子のマクシム・ぺシコフが亡くなった翌年に

ゴーリキイは、モスクワで亡くなることになるのですが、

この両者の死については、毒殺されたとも言われていますが、

確実なことは分かっていないようです。

 

 

群れで生活をしない動物は、子が一定の成長をすると、

やれなければ死を意味する環境に強制的に放り出されて

否が応でも母から擁護される子供であることから

決別しなければならなくなります。

 

11歳のゴーリキイにとって早かったのか適当であったのか、

私には断定することはできませんが、

頼れる者はなく自分で稼ぎ、色々と考え、生き抜いたことは

人間形成に何らかの影響を与えたことは間違いありません。

 

ゴーリキイは、その苦しみや怒りにも似た情熱が

反政府運動と言う行動となり、作品を生み出すための

文章力や情景描写力や表現力や説得力等を

高めることになったのだと思われます。

 

 

自分が置かれた酷い状況を、自分以外の所為にして

それだけにのめり込むと事態は良くなる所か、

悪化するばかりになります。

 

誰かが言っていましたが、

配られたカードについて愚痴や文句や運命を呪ったところで

カードが配り直されることはありませんし、

そのゲームは、始まり動き出します。

 

配られたカードに捉われ停滞することは、

ただ停滞するだけではなく気が付けば

より良くしようとする人達から取り残されてしまいます。

 

結局は、配られたカードで頭を捻り、

発見した状況を変える一手を見出し、行動し、

考え得る最高の役を作ることが重要なんですよね。

そして、

身体が傷ついたり弱った時には現代の医療で身体を直し、

心が傷ついた時には………。

 

自分の本当の力を発揮できるのは、

自分を本当に信じている時だけなんだ。

by ゴーリキイ

 

 

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