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樋口一葉と津田梅子

2019-04-10 12:29:11 | ライフスタイル

新元号に合わせて、というわけではないようだが、今日紙幣の絵柄が一新される、というニュースがあった。
1万円札の福沢諭吉から渋沢栄一、5千円札は樋口一葉から津田梅子、千円札は野口英世から師である北里柴三郎へと代わる。
同じ明治という時代を生きながら、対照的な人生を送ったのは5千円札の樋口一葉と津田梅子だろう。

樋口一葉と言えば「たけくらべ」、「にごりえ」などの作品で知られるが、決して裕福な家庭の出身ではなく、当時の女性に対する「女には学は必要ない」という考えから、上級学校への進学もできず、経済的に困窮する家庭の事情もあり駄菓子などを売る雑貨店を開き、日々の生活の糧としていた。
この時の駄菓子屋に来る子供たちから着想を得て書かれた小説が「たけくらべ」である、ということは有名な話なので、ご存じの方も多いと思う。
その後24歳という若さで、肺結核により亡くなる。
作家としての才能が花開き活躍した期間はわずか1年半も満たない。

それに対して、現在の津田塾大学を創立した津田梅子は、わずか6歳で国費留学生として米国に渡っている。
もちろん津田梅子が、それなりの地位のある家庭の出身だったからだ。
11年にも及ぶ留学生活を経て帰国、その後女子教育が国の発展の為には必要と考え、留学生仲間であった大山捨松などの協力を得て現在の津田塾を創立している。

樋口一葉は、上級学校へ進学するだけの学力や聡明さを持ちながら、当時の「女には教育は不要」という風潮の中で進学を諦め、津田梅子がわずか6歳で米国留学を果たすというのは、やはり「家」の違いがあったからだろう。
それが、その後の人生にも大きく影響しているように思えるのだ。

文学という世界では、男女という性での評価は関係なく、樋口一葉の文学的才能を高く評価していたのは、当時の軍医の森林太郎こと森鴎外だった。
樋口一葉の葬儀では参列叶わず、葬列から遠く離れたところから静かに送った、という話もある。
一方、津田梅子を津田塾を創設することになったのは、その当時の女性の高等教育そのものが「家長に従う良妻賢母」の育成を目的としたものであったコトに驚き、女性が社会で活躍するためには女子専門の高等教育機関が必要だと考えたからだ。

樋口一葉は24歳という若さで亡くなっているので、津田梅子と簡単に比較すべきではないとは思うのだが、二人の人生というのは「明治」という時代に生きた女性として、樋口一葉の人生は当時の世間の考えに従った生き方であり、津田梅子は新しい時代を切りひらくような生き方であったように思うのだ。
ただ樋口一葉の文学的才を認め、活躍ができた「文学界」には、男女という性差による評価が無かったことが、一葉にとって救いだったようにも思う。