先日、京都大学総長の山極壽一先生の市民公開講座を、オンラインで受けた。
なかなか便利な時代になったものである。
会場となった豊橋には行くことができなくても、京大の「変人講座」に行くことはできなくても、オンラインという方法で、学ぶことができるのだから。
ご存じの方も多いと思うのだが、山極先生のご専門は「ゴリラの研究」である。
「ゴリラ」を研究している、山極先生が話された内容は「コロナ後の社会」について、というテーマだった。
興味深いお話しもいくつかあったのだが、講演会の最後のほうで山極先生が述べられたことばが、「コロナ禍後」の日本が果たすべき役割なのでは?という、気がした。
その内容というのは、京都学派の中心といわれた「西田幾太郎」が研究し・突き詰めた「東洋哲学」についてだった。
昨年だったと思うのだが、NHKのE-テレ「100分de名著」でも取り上げられた西田幾太郎だが、今年が生誕150年であったらしい。
「100分de名著」で紹介されていたのは「善の研究」だったのだが、私にはとても難解で十分な理解ができたという気がしていない(最も、私の場合はテキストを読むだけなので放送を見ながらの理解ではなかったのだが・・・苦笑)。
ただ印象に残っているのは、「善」の中には「愛」があり「生きる」ということを述べていたことだ。
西田の言う「愛」とは、「恋愛」のことではなく「他者を愛し、自己を大切にする」という、大きな意味のようだった。
それは一見キリスト教的な「愛」のようにも思えたのだが、西田はあくまでも「東洋(あるいは日本)」に軸足を置いた考え方であり、利己的な満足の上にある「愛」ではない(と、理解している)。
と同時に、「生きる」ということは「愛」があるからこそ、人は生きる力を得ている、と考えていたような気がするのだ。
山極先生のお話しを聞きながら、思い浮かんだ言葉は「利他」ということだ。
もちろん「他者の力を借りて、自分に利をもたらす」という意味ではない。
「他者の利を考える」という意味だ。
違う言葉に置き換えるなら「他人を幸せにしたい」という気持ちかもしれない。
考えてみると、経済が発展していく中で私たちは「利他」ということを、忘れてしまっていたような気がするのだ。
特にトランプ氏が米国大統領になり「アメリカンファースト(実はマイファーストだったのだが)」を掲げ、一部から圧倒的な支持を受け、それが欧州にまで広がり、日本の政治も感化されてしまった。
結果、私たちは「自分たちを優先させる」ことで、以前より幸福感を得たのか?と言えば、決してそうではなかったように感じる。
むしろ、猜疑心や「マウント」のような卑しい行為が、自慢と言われるようになってしまったのではないだろうか?
そこに「新型コロナ」という不安材料が世界を覆ったことで、人は再び「自分と他者との関係」を見直すような社会が生まれようとしている。
その中心となる考えのヒントが「東洋哲学」にあるのでは?というのが、山極先生のお話しの締めくくりだったのだ。
それは、インド独立の父と言われたガンジーの「七つの社会的な罪」にも通じる一つの考えのような気がしたのだ。
そして今日、Huffpostを見ていたらとても素敵な少女に出会った。
Huffpost:タイム誌初「今年の子ども」に15歳の科学者。モチベーションは「他の人を幸せにしたい」という気持ち
彼女のような若者たちが、「コロナ禍後」の社会を変えていくのではないだろうか?
その時、大人の私たちはどんな支援が、彼女たちのような若者にできるのだろう?