昨日、正式に秋篠宮家の眞子内親王の結婚の日取りが決まった。
婚約内定から4年近く経っての、結婚ということになるのだが、この4年間眞子内親王だけではなく、秋篠宮家に対しても世論はとても厳しいものがあった。
もちろん、一番厳しかったのは婚約内定者である小室さんとその母親であったコトには、変わりない。
別段驚くことでもないのかもしれないのだが、この4年間に違い時間、小室さんとその母親は、問題解決を一切してこなかったことが、益々厳しい世論をつくっていった、ということになる。
そのコトを理解しているのか、いないのか?全く分からないまま、正式な結婚の予定が発表されたのだ。
当然、世論は今まで以上に厳しいことを言いはじめる結果となっている。
当事者と世論とこれほど行違う考えが起きる、ということ自体とても珍しいコトだと思う。
そこにメディアの「ロイヤル忖度」ともいえるような、結婚への祝福と批判的世論を抑え込もうとする「圧」が加わっている、というのが今の状況かもしれない。
そのような状況を見越したようなエッセイが、和楽Webにあった。
和楽Web:激動の時代を生きた徳川慶喜の孫娘たち。品格を持ち続けた「お姫様」の人生をたどる
徳川慶喜の孫娘の内の一人は、故高松宮宣仁親王妃喜久子殿下だ。
やはり、やんごとなき方々はやんごとなき社交の世界で出会うのだな~、という気がするのだが、喜久子殿下のお言葉には、今でも通じるような「(女性の)生き方」を示す言葉が幾つもある。
エッセイの中にもあるが「何でも自分のことは、自分でせよ」という言葉は、今でも十分女性が自立するためには必要最低限なコトだと思う。
しかしそれは「何でも自由に自分のことは、自分で」という意味ではない。
「ひとりの人間として、自分は何をすべきなのか?」ということなのだ。
それを表す言葉が、喜久子殿下の妹・喜佐子さんの
「人にかしずかれ労せずして暮らしていける身分にある者には当然の義務というものがあって、自由は望んではならない、常に人への配慮を忘れてはならない、自分を律することに厳しくなければならない、と思っている。」
と述べられている。
そして末妹・久美子さんの
「(お付きの者には)行儀や言葉の遣い方はもちろん、人としてあるべき姿や品格も厳しく躾けられました。「やりたくない」「嫌い」「美味しくない」といった人に不快な思いを抱かせるような言葉も決して口にしてはいけませんでした。」
という一文だ。
この徳川慶喜の孫娘である3人の「お姫様」の言葉には、「人としての品格」とは何か?ということを、指し示しているように感じるのだ。
そしてその「品格」とは、その人自身の「本質」なのではないだろうか?
社会的に「セレブ」と呼ばれるような社会的地位にあっても、その人自身の本質である「品格」や「品性」と言ったものが、全く感じられない時、メディアがいくら持ち上げても、人はその社会的地位の高さでその人を見ることは無い。
逆に社会的地位に左右されず、「人としての本質的品格」を持っている人の姿には、ある種の敬意を持つのではないだろうか?
今回の内親王の婚約内定から結婚スケジュールの発表までの過程を見ていて、これから先の日本人に必要なことは「人としての本質的品位を身につけることではないか?」というきがしている。