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「論破」よりも「対話」

2023-05-12 22:09:37 | 徒然

昨日、「ウィズ・コロナ」の前に、「政策としての検証」という内容のエントリをした。
そしてこの「新型コロナ」が感染拡大している中で、盛んに聞いた言葉について、面白い視点の記事があった。
朝日新聞:ReRon 論破でも言葉だけでもない 哲学者永井玲衣さんが問う「対話」 

何となく感じていらっしゃる方も多いと思うのだが、「新型コロナ」の感染拡大が顕著になり「在宅ワーク」等の政府要請が始まった頃から、「論破」という言葉を何度も聞くようになった気がする。
おそらくこの「論破」という言葉を盛んに使う方が、ネット上での「文化人」扱いをされている方だったように思うのだが、「はい、論破ね」という感じで使われることが多かったような印象を持っている。

あくまでも個人的な受け止め方なのだが、この「論破」という言葉を使う人と使われた人の間の関係は、決して対等ではなく、議論(というほどのものなのか疑問なところもある)も「論破」と宣言をする方が、一方的に持論を展開しているだけで、相手の話も考えも知ろうという姿勢が感じられずにいた。
そしてこの言葉を使っていた人が若い世代の人たちの間で、人気のある方だったためか?各所で「はい、論破」という会話を聞いたような気がする。
と同時に「論破」という言葉の意味を十分に理解しているのだろうか?と、不安な感じも受けたのだ。

というのも「はい、論破ね」と言っている人の話しぶりを聞いていて、「(相手に対して)マウントを取りたいだけでは?」という印象を常に感じていたからだ。
「論破」というと、聞こえは良いが「相手を言い負かせる」という意味であることを考えると、「持論を展開し、相手の話を聞かず、理解しようともせず、自分の考えに酔って、自分が正義であると思い込んでいるのでは?」という心理的要素があるのでは?という、気がしたからだ。
「自分の考えが正しい」という思い込みが、「根拠のない自信」にもなり、「持論を展開すること」で「自分の言葉に酔いしれている」ということは無いだろうか?ということなのだ。

もちろん、そのような方ばかりではないと思うし、科学的根拠や統計データなどを元にした「論理的思考」の元、客観的に論じているという方も少なくないと思っている。
思っていても、「はい、論破」と言っている人達からは、そのような感じを受け取る事ができないのだ。
そして「マウント(=相手よりも自分が優れている)」ことを示したがるのは、その実「自信がない」からなのでは?

このような社会は、どことなく「ささくれだった社会」あるいは「苛ついている社会」のように感じるのだ。
であれば、どのような転換が必要なのか?というと「対話」ということになると思う。
「対話」というコミュニケーション法は、「論破」するよりも時間も労力も必要だ。
何より、「(話す相手に)敬意と尊重」を持たなくてはならないし、寛容である必要がある。
「相手を理解しよう」という心も必要だろう。
自己ではなく他者に心を寄せる、という高度なコミュニケーション力を要する、と言っても過言ではないかもしれない。

確かに「新型コロナ」の感染拡大によって、コミュニケーションをとるということが難しかったと思う。
まして、対面で話をするということができなかったがために、言葉以外のコミュニケーション力の維持が難しかったかもしれない。
そう考えると、低下してしまったコミュニケーション力を上げていく努力は、「新型コロナ」の感染拡大によって失われた時間以上の時間を要するのではないだろうか?