安倍首相のお友達絡みで「獣医学部」創設が決まったとされる、「加計学園問題」。
その経緯については、様々なところから情報が出てきているようだ。
「加計学園問題」の前に、一つ気になることがある。
それは「獣医」が、足りているのか?という問題だ。
随分前、がん治療の中でも「放射線治療」についての講演を聞いたとき、「日本で一番良いCTを使っているのは、どこの病院か知っていますか?」と、登壇された現役の放射線科医が質問をされたコトがあった。
正解は「ペット専門病院」。
ご存じのように、ペットには公的医療保険制度はない。
そのためいわゆる「自由診療」ということになる。
犬や猫を飼っている方なら、ペット専門の病院での治療費が、高額であるということを実感されていると思う。
最近では「ペット専用保険」なるモノまで、登場している。
それほど「ペット専門病院」には、費用が掛かる。
言い換えれば、決まった「治療点数」があるわけではないので、半ば病院の言い値のようなところもあるのでは?と、勘繰っている。
反面、動物園や酪農などに従事する獣医の数というのは、限られているということもあるかもしれないが、ペット専門病院を開業する獣医よりも、遥かに少ないのではないだろうか?
いうなれば「獣医の勤務先偏重」があるのでは?という、事なのだ。
「ペット専門病院」であっても、扱う(?)ペットの種類は犬や猫だけではないとは思う。
特に最近では、爬虫類をペットとして飼われる方も少なくないと聞く。
「当病院では、爬虫類は診ません」というわけにもいかないだろうから、それはそれで大変だとは思うのだが、ただ「ペット専門病院」が、増えすぎているのでは?という気もしているのだ。
というのも、最近「ペット専門病院」をよく見かけるようになってきたからだ。
それを言ったら「自由診療」がしやすい「皮膚科」や「歯科」も、同じ傾向にあるように感じてはいるが・・・。
犬や猫の寿命も延び、人間と同じように「認知症(というのだろうか?)」とか「がん」になるペットも多いという社会的変化が起きているのは、知っているのだがペットの数が増えるのと同じように「ペット専門病院」も増えているように感じるのだ。
それが悪いとは言わないが「自由診療」の「ペット専門病院」と、傍で見ていて大変そうだな~と感じる動物園や酪農などとでは上述したように、従事している獣医数のバランスがとれていないのでは?という気がしてならないのだ。
獣医学部の新設の前に、獣医になるためのプロセスとして、ある一定期間動物園や酪農など、獣医が不足していると思われる分野への勤務を義務付けるなどがされているのだろうか?
そのうえで、本当に獣医が不足している、という結論だったのだろうか?
「加計学園問題」の報道を見るたびに、そんな疑問がわいてくるのだ。
SMAPのメンバーだった稲垣さん、草彅さん、香取さんの3人の映画が2週間限定で、公開されている。
その映画絡みについての記事が、ネットにあった。
THE RALE LIVE WEB:元SMAP映画は、何故テレビで告知できない?”I女史”への批判の真偽
記事の内容は、「彼ら3人の映画の告知がテレビでされていない」という趣旨だが、ネット上の書き込みには、キー局などでは取り上げないのになぜ?という疑問の書き込みがある反面、関西や北海道からの書き込みでは、「普通に映画の舞台挨拶のニュースを取り上げています」という書き込みがあった。
先月には、「パラリンピック」のイベントとして「パラ駅伝」に登場し、応援ソング「雨上がりのステップ」を披露している。
ところが、このニュースに関して、在京のキー局と言われるテレビ局のほとんどが、そのニュースを伝えていないらしい。
キー局がニュースを伝えないのに対して、ローカル局では積極的に取り上げる、という「逆転現象」のような状況が、この3人の報道に対して起きている、というのだ。
週刊女性PRIME:稲垣・草彅・香取の戦略、彼らが「ローカルメディア」に目を付けた強い意味とは
3人が以前所属していた事務所から独立する切っ掛けとなったことは、既に周知のことと思われるので拙ブログで説明をする必要はないと思う。
そして新しい活動を始めた彼らが選んだ主な媒体は、テレビではなくネットだった。
確かに今のようなネット社会であれば、テレビに依存することなくある程度の情報は伝わるだろう。
何より、SNSなどを通じて直接3人から発信される情報は、まぎれもなく彼らの言葉であり考えである、と多くのファンは受け止めているはずだ。
一方、本当のところはわからないがキー局側は以前所属していた事務所に対して「忖度をしているのでは?」と、ネット利用者からはさんざん指摘されてきている。
実際、3人が出演してたキー局製作のテレビ番組が、次々と終了してしまっている。
そのようなこともあり、3人のファンやSMAPのファンだけではなく、多くの生活者がキー局に対して疑心暗鬼になっている部分があるのでは?という、気がしている。
だからこそ、ローカルメディアという、以前所属していた事務所の息が掛からない(?)メディアに積極的なアプローチをする、という部分があるのかもしれない。
しかし、視点を変えると「ローカルメディア+ネット」という組み合わせは、これからのメディア発信の在り方かもしれない、という気がするのだ。
東京中心の情報発信は、「噴水」のようなカタチで全国に情報発信がされる。
場合によっては「大本営発表」のような、危険性もある。
特に最近の政治の動きを見ていると、そんな不安を感じることがあるし、そのような傾向は全世界で広まりつつあるような気がするのだ。
ところが「ローカルメディア+ネット(特にSNS)」という組み合わせは、ローカルメディアという点をネットという線で繋げていき、それがいつしか日本全国に(場合によっては、海外にも)張り巡らされることになる。
今という時代だからこそできる方法で、そこに参加する生活者は驚くほど多くなるはずだ。
そのために必要なコトは、自分にとって都合の悪い情報も知るということや寛容性ということになるだろう。
何より「フェイク・ニュース」が、紛れ込んでいる可能性も高い。
それを見分けるリテラシーが、一番重要になってくる。
それでも「噴水型の東京中心発信メディア」に比べれば、情報発信力は強くなっていくはずだ。
それは「多様性」を認める、情報の新しいあり方だからだ。
「新しい地図」のような情報の発信の仕方は、地方で埋もれている企業や自治体が、互いに協力しあうことで可能になることができるのではないだろうか?
新人研修が終わり、配属先に初出社した新入社員もいたのではないだろうか?
海の向こうのメジャーリーグでは、新人の大谷選手が大活躍をしている。
野球そのものに興味がない私でも、大谷選手の活躍には心躍るモノがある。
屈託のない笑顔などを見ると「本当に、野球が好きな選手なんだな~。野球少年の頃の夢を、まだまだ追いかけているのだろうな~」という、気がするからだろうか?
そんな大谷選手の活躍に、苦言を呈するようなプロ野球OBがいるという。
テレビ番組や雑誌のコラムなどで「活躍できない」と評しているらしい。
AERAdot.:大谷2連勝、3戦連発でも二刀流が成功しない理由
テレビ番組でコメントをされた方については、ネット上で既にいろいろ言われている方なので、拙ブログで紹介する必要はないと思う。
このようなコラムやテレビ番組などでの発言を知ると、日本のプロ野球人気が低調になっている理由がわかるような気がした。
確かに、大谷選手が日本のプロ野球で活躍してくれれば、大谷選手の活躍目当てで日本のプロ野球人気も回復するかもしれない。
昨年まで大谷選手が所属をしていた、日本ハムファイターズとの対戦カードはそれこそ「プレミアムチケット」となっていたかもしれない。
それでも、大谷選手の希望を叶え、メジャーリーグに送り出したチームに対して、ファイターズのファンはガッカリしているのだろうか?
シーズン中、負試合の後などは、そう思うファンがいてもおかしくはないと思う。
思うのだが、それでもメジャーリーグで活躍をする大谷選手を見て、自分たちが応援した選手がメジャーリーグというプロ野球のトップリーグで活躍をしている、と思えば、また違った思いを持つのではないだろうか?
コラムで書かれていることは、なんとなくわかるのだがそれでも開幕から、ここまでの活躍を見て思うことは「既に記録を作っている」ということだ。
ワンシーズン活躍をした記録ではないから、大した記録ではない、というのはどこか違うのではないだろうか?
何故なら、メジャーリーグ90何年振りの記録とか、ベイブルース以来とか、メジャーリーグ何人目の記録というだけで、十分その価値はあると思うからだ。
そう考えると、このようなコメントを出してしまうプロ野球OBで野球評論家という人達の、「嫉妬」のようにも思えてくるのだ。
このような辛辣なコメントを出しているプロ野球OBの人たちが活躍をされていた頃は、メジャーリーグへの挑戦など夢物語の時代だったと思う。
だからと言って、活躍を貶すようなコメントやコラムはいかがなものだろう?
あくまでも個人的な考えだが、若者たちの活躍に嫉妬するよりも、応援するほうが素敵だと思うのだ。
それは、今日配属された新人たちの上司や管理職者にも、言えることだと思う。
今日の朝刊に、資生堂の企業広告が、掲載されていた。
資生堂:LOVE THE DIFFRENCES.
実は、この広告を見た時思い出したCMがあった。
随分前のAppleのCMだ。
Apple CM:「Think Different.」
このCMは、放映されたときも相当人気の高かったCMだったので、覚えている方も多いと思う。
ナレーションは、ジョブス本人と言われている。
ナレーションを聞くと「Crazy」と言う言葉が、幾度となく出てくる。
この場合もちろん「気が狂った」という意味ではなく、「並外れた情熱などを持っている」と解釈をしたほうが良いだろう。
だからこそ「Crazyな人」は、社会を変えることができる、という意味になるはずだ。
世間一般(というべきか?)とは「違う考え方をする」ということこそ、社会を変える力となる、ということだろう。
それに対して、資生堂の「Diffrences」の意味は、どちらかと言えば「多様性」という意味だと感じている。
「多様性」ということを大切にする企業でありたい、という企業メッセージだと思うのだが、「多様性」を認め合うことは、とても難しいことなのでは?という気がしている。
最近よく耳にする言葉の一つに「空気を読む」があると思う。
昨年からの流行語「忖度」ということになるかもしれない。
そのような社会的雰囲気の中で、あえて「違いを認める。多様性のある企業」という言葉を、企業メッセージとして使うということは、それだけ息苦しい社会になってきている、ということかもしれない。
そして「多様性」あるいは「他者と違う」ということを、認め合う社会に大切なこととは何か?という問いかけのような気もするのだ。
「他者を認め合う」ということは、実はとても難しいことだと思う。
何故なら「相手を尊重する」ということが根底にありつつ、「自己を確立しつつ、自分自身を尊重する」ということが重要だと思うからだ。
「自己を確立する」というと、昨今流行り(?)の「セルフブランディング」を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれないが、全く違う。
そもそも、人ひとりひとりがの存在が「特別」であり、「私は、〇〇な人」というような枠を、自分自身ではめ込むような「セルフブランディング」などは、必要ないと思っている。
むしろそのような「セルフブランディング」は、足かせになってしまうのではないだろうか?
「他者を認め、自分自身を尊重する」ということは、一朝一夕で身に付くものではないし、このような文を書いている私自身もまだまだだ。
だからこそ、その難しさに挑戦する意味があると思う。
何故なら「枠からはみ出る=社会の常識を疑い、挑戦をする」ということは、とても勇気のいることだからだ。
その視点で考えると、この広告はAppleの「Think Differncent」と通じるところがあるようにも感じている。
「Differnces」の意味は、言葉を変えた「挑戦」であり、「変革=イノベーション」企業でありたい、というメッセージなのだと思う。
拙ブログで、時折紹介をさせていただく日経新聞のコラム「COMEMO」。
昨年だったか?チョッとした話題になった「挨拶をしないようにしよう」→「近所づきあいをしないようにしよう」というテーマで、「課題」と「問題」の違いの説明をされている。
日経新聞COMEMO:「近所づきあいをしないようにしよう」と声をかけるまち。
コラムにあるように「挨拶をしないようにしよう」という考えの始まりは、「見知らぬ人に声をかけられても、相手がどのような人かわからないので、挨拶はしないようにしよう」ということだったような記憶がある。
この話を初めて聞いたとき、「逆に近所の人に自分の存在を知ってもらう為に、挨拶は積極的にしたほうが良いのでは?」という気がした。
確かに、最近は「何を考えているのだろう?」という雰囲気のある人が、以前より多くなったよな気がしない訳ではないが、「何をする人かわからないから」と身構えていると、相手も必要以上に身構えて「ネガティブなオーラ」を出すような気がする。
「近所づきあいをしないようにしよう」というのは、その「挨拶をしない」の発展形のようだ。
「挨拶をしない」にしても「近所づきあいをしない」にしても、トラブルが降りかからない為の防御策ということのようだ。
トラブルという問題は、その場その場で解決をしていく必要があるモノ・ゴトで、「対処療法的」と言われればそうだろう。
ただ「対処療法」だけでは、次から次へとおきる「問題」を無くす、あるいは減らすことにはならない。
問題を解決すると同時に、その問題の根本を解決しなくては同じことの繰り返しとなるからだ。
それが「課題」ということになる。
コラム中に、「問題」と「課題」について丁寧な説明がされているが、まさにこの「問題」と「課題」の違いの認識が、ビジネスにおいては重要なコトだと思っている。
おそらく多くの社会人なら「同じミスは、二度と繰り返さないように気を付ける」ということを、職場の上司から言われた経験があると思う。
この「同じミスを繰り返さない」ために必要なことが、「課題を見つける」ということに、繋がっているからだ。
「対処療法的解決策」で十分なこともあるが、「スキルアップをする」為には「課題を見つけ、解決する方法を模索する」ということを繰り返し行う必要があるからだ。
「対処療法的解決」が分かり易いHow toであるなら、「課題を見つけて解決する」というのは「思考力や想像力、論理的な組み立て」という、自分自身で考える力が必要になってくる。
「挨拶をしないようにしよう」とか「近所づきあいをしないようにしよう」という、自分の身に降りかかりそうな問題ばかりにフォーカスしていると、「挨拶や近所づきあいの効用」が見えなくなってしまう。
それはビジネスの場面においても、同じなのではないだろうか?
既に様々なとこで報道されている、4月4日に行われた京都・舞鶴市での春巡業で起きた「女性が土俵にあがらないでください」アナウンス事件(というべきか?)。
八角理事長は「気が動転してしまって、女性は土俵から降りてください」というアナウンスを若い行司がしてしまった、と弁明しているのようだ。
スポーツ報知:八角理事長が謝罪 倒れた舞鶴市長へ救命措置の女性に土俵から降りるようアナウンス
確かに、相撲そのものは「神事」で土俵に女性が上がることを禁じている。
今回救命措置をされた女性も、そのくらいのことは知っていたと思う。
というのも「春巡業」という、いわゆる「本場所」とは違う小規模な場所に、わざわざ見に行くことを考えれば、それなりの相撲ファンなのでは?と、思われるからだ。
にもかかわらず、女性が救命措置をしようと土俵に上がったのか?と言えば、「救命措置をすることが最優先」と判断したからだと思う。
Huffpostに掲載されている、動画を見てみると倒れた市長さんを取り囲むように、数名の男性が側にいる。
側にいるのだが、茫然自失という感じて何の対応もしているようには見えない。
そのような状況を見て、救命措置をするために女性が土俵に上がってくるのだ。
Huffpost:土俵の女人禁制は「伝統」なのか? 相撲と女性をめぐる問題提議は過去にもあった
大人の男性が寄り集まっているだけで、誰もAEDなどを取りに行かせる(あるいは取りに行く)ような行動が見えないのだ。
その後、AEDらしきものを持った男性(警察関係者?)がくるのだが、その時既に女性が救命措置を始めている。
運営側の動きが、なんとも遅いというか緊急対応ができていないのでは?という印象を受けるのだ。
もう一つは、このような巡業の場合、各会場には医療者がいないのか?という疑問だ。
もちろん巡業だけではなく、本場所もそうだが、力士が怪我をしたり、観戦に来ているお客さんが気分が悪くなったりしたとき、どのように対応をしているのだろう?
しばらく様子を見て、救急車を呼ぶ、ということなのかもしれないが、今回のように一刻も争うような状況の時には、その場で救命措置をする必要があるのでは?
もし、男性医療者がいれば、女性が土俵に上がることは無かったと思う。
別に、相撲協会が医療者を雇えと言っているのではない。
巡業先の救急対応ができる病院から、医師と看護師を派遣してもらうように手配をするだけで、十分だと思う。
もちろん、派遣される医師や看護師には、それなりの日当を支払うなどは必要だとは思うが、その程度の準備は必要だと思うのだ。
何故なら、市民が参加するようなスポーツイベントには必ず「救護班」として、医療者が待機しているのが一般的になっているからだ。
今回の件で、以前大阪府知事だった女性が「大阪場所で、優勝力士に大阪府知事賞を贈りたい」と言っていたことと、同じような報道をしているメディアもあるようだが、まったく違う問題なので、引き合いに出す必要はないと思う。
「相撲」そのものは「神事」として始まったと言われているが、今の「大相撲」にはそのような要素があるのだろうか?
むしろ、興行的要素のほうが多いのでは?
場所前の行われる土俵に神様を迎え入れるなどの神事そのものは残すにしても、「大相撲」そのものは興行として行うほうが、今の実態に合っていると思う。
そして、「神事だから土俵に女性を上げない」というのであれば、巡業場所を含め「男性救護班」を待機させる必要があると思うのだ。
今朝飛び込んできた「youtube本社」で起きた、発砲事件。
4人の方が負傷し、犯人は自殺をしたようだ。
Huffpost:ユーチューブ銃撃事件の犯人、運営に不満を訴えていた「動画が検閲された」
今回の事件でまず驚いたのは、犯人が女性であった、ということだ。
驚いたのは、私だけなのかもしれないが、これまで米国で起きた発砲事件の犯人のほとんどが、男性であったように思う。
フロリダの高校を襲撃した犯人は、卒業生男子だった。
男性だけが、銃を持ち・使うというわけではない、ということは十分理解しているつもりだが、女性がこのような発砲事件を起こす、ということは考えられなかった。
もう一つは、この犯人である女性が「ヴィーガーニズム(純菜食主義者)」であった、ということだ。
私の中で「菜食主義者」というのは、穏やかな人というイメージがあったからだ。
ただこの事件で、ヒットラーもまた「菜食主義者」であった、という説があったことを思い出したのだ。
Wikipedia:アドルフ・ヒットラーの「ベジタリアニズム」
Wikipediaにあるように、本当にヒットラーが「ベジタリアン」であったかどうかは、分からない部分もある。
ただ、そのような記述が残されている、ということを考えれば、「ヴィーガーニズム」ほどではなかったかもしれないが、ベジタリアンの傾向があった、ということになるのかもしれない。
ベジタリアンや「ヴィーガーニズム」だからと言って、今回の犯人女性やヒットラーのような人物になるとは限らない。
むしろ、今回の事件は「動画が検閲された」とか「再生回数が減った」ということに腹を立て、今回の凶行に及んだ、と考えるのが自然だろう。
犯人女性が、Youtuberであれば動画が検閲され、削除されたりすれば、収入が減ることになるだろうし、それが切っ掛けとなって再生回数が減れば、尚のことだろう。
その一方で、犯人女性の思い込みの激しさ、ということも感じてしまう。
これまでの「銃撃事件=男性が起こす」とか「菜食主義者=穏やかな人格者」という、イメージでモノゴトを思い込んではいけない、ということを教えてくれた事件でもあるような気がする。
負傷された方々の早い回復と、銃撃されたという恐怖から立ち直られるコトを願うばかりだ。
Yahoo!のトピックスを見ながら、「なるほど、そういう発想があったのか!」と感じる記事があった。
Yahoo!ニュース:日本の漁網技術が、メジャーリーグのファンを守る
昨日、メジャーへ移籍した大谷選手の活躍で、日本のメジャーリーグファンのシーズンが開幕したのでは?という、気がしていた。
野球に限らずどのようなスポーツでも、海外で活躍する選手の姿を見ることは、心躍ることだ。
そんな大谷選手の活躍の影で、日本の漁網技術が評価されているというのは、別の意味でまた嬉しくなることだと思う。
先日、日本の漁業従事者が減り続けているという、ニュースがあった。
漁業に限らず、第一次産業への従事者は、徐々に減っていく傾向があるのは、ご存じの通りだ。
農業などは、各地で様々な就農支援策を打ち出し、Uターン、Iターンを支援しているようだが、なかなか定着まで難しい、という報道は度々目にする。
漁業のように、設備投資も多く体力的にも厳しい第一次産業となると、就労者が減ってしまうのはある意味仕方の無いことかもしれない。
まして、これまで獲ってきた魚の一部に漁獲量の制限がされるなど、漁業を取り巻く環境はますます厳しいものになりつつあるのではないだろうか。
当然、漁業そのものが厳しい状況になれば漁網そのものの需要も減っていただろう。
そこへメジャーリーグ球場側から「防御ネット」としての利用という、新しい需要が起きたというのは、意外な印象があるが「ネット」という括りで考えた時には、そのような需要もあるかもしれない、ということに気づく。
ビジネスを展開する場合、自社の製品は「何を提供しているのか?」ということを、考え抜く必要がある。
「漁網ネット」=「漁業」という考えだけでは、このような発想は生まれてはこない。
「ネット=(モノを)捕まえる」という、発想が必要になってくる。
今回は提供する側(漁網ネット製造側)ではなく、メジャーリーグ球場側がこのような需要の掘り起こしをしたのだが、つくる側だけが需要の掘り起こしをするわけではない、という点も重要である、ということにも気づかされる。
それは「何を使えば、快適で安心できる野球観戦ができるのか?」という、メジャーリーグ球場側の「お客様に野球を楽しんでもらうには?」という、顧客の視点に立った発想があったからだろう。
この発想が無ければ、「防御ネット」ではなく金属製の「防御柵」が、設置されていたかもしれない。
金属製の「防御柵」ということになれば、野球観戦に来た野球ファンが十分に楽しめない状況になっていたかもしれない。
「視点を変える」ということは、「顧客価値をどう考えているのか?」ということにも繋がっているのかもしれない。
今日「入社式」が行われた企業は、多かっただろう。
今年の新入社員たちは、一体どのような思いをもって仕事を始めるのだろうか?と、興味がわいてくる。
しかし、最近では入社直後から「自分には合わない」と、早々に退職をしてしまう新入社員が多いという。
だからだろう、Yahoo!のトピックスには「最低3年?とらわれず最適解を」という、見出しの記事が取り上げられていた。
Yahoo!「文春オンライン」:初出社して、就職先が「ブラック企業」だと気付いたあなたへ
「ブラック企業」であれば、3年と言わず体(や精神)を壊す前にサッサと辞めてしまったほうが良い。
ブラック企業よりも、辞める新人社員の人生のほうが、はるかに大切で長いからだ。
この見出しを見て、フッと気になったのだが、今の若い人たちにとって3年という年数は、どのようなイメージなのか?ということだ。
そもそも「3年」という年数は、いつ頃から言われ始めたのだろうか?
私事で申しわけないが、社会人になった30年以上前は「どんなに辛くても、3年同じところで働け」と、言われた。
理由は「3年間仕事が続かない=どんな職場に行っても長続きはしない」と、言われていたからだ。
実際転職をしようとしても、3年間勤めた実績が無いと、相手にされなかった。
「3年」というのは、社会人としての最低のキャリア年数という認識が社会全体にあったように思う。
転職をするにしても、仕事を辞めてから転職の準備をするもの、という不文律が社会にあった。
今では信じられないかもしれないが、昭和という時代はそんな時代だったのだ。
あくまでも想像だが「3年」という年数が出てきたのは、「石の上にも三年」ということわざからなのでは?という気がしている。
その一方で、昭和という時代は「年功序列」で、企業が定年退職の日まで社員を辞めさせるようなことは、ほとんどなかった。
一旦就職できれば安泰。定年退職まで転職などをせず、勤め上げるのが当たり前、と思われていた時代でもあった。
だからこそ、就職先の人気企業の多くが、銀行や東証一部上場の企業だったのだ。
そのような「企業と社員の暗黙の了解」が崩れたのは、やはりバブル崩壊の頃からだろう。
「リストラ」という名の、解雇が堂々と行われるようになったからだ。
と同時に「ブラック企業」の素地が生まれたのも、このころからだったのかもしれない。
「仕事があるだけ、ありがたいと思え」というような考えをする、企業が生まれたという意味だ。
このような考えが企業側が持つようになると、人を使い捨ての駒のように考えるようにもなってしまう。
自分の体と心が壊れるなら、サッサと辞めてしまえばよいと思う。
ただ、一つ考えてほしいことがある。
その企業から「何を学んだのか?」ということだ。
「ブラック企業から学ぶことは無い」と思うかもしれないが、「ブラック企業」だからこそマネージメントや何がブラック企業化させているのか?という問題点があると思う。
その問題点を自分なりに分析をし、新しいチャレンジをして欲しいと願っている。