日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

withコロナの前に「検証」が必要かもしれない

2023-05-11 20:50:20 | アラカルト

GWが明け、「ウィズ・コロナ」の生活になってきた。
街中を歩けば、まだまだマスク着用で歩いている人を見かける。
それでも、ここ数日の暑さでマスクを外している人も徐々に見かけ始めた。
中には、マスクは着用しているけど「顎マスク」になっている、という人も見かける。
個人的には「顎マスクをするなら、外したら」と思うのだが、マスクをサッと着用するための「顎マスク」なのかもしれない。

あと1ヵ月もすれば、暑さも本格的になり「マスクをしていたら、熱中症になってしまう」という、危機感からマスクを外す人も多くなってくるのかもしれない。
とはいえ、まだまだ街中に刄「新型コロナ対策」の跡を見る事ができる。
例えばスーパーやドラッグストアーのレジ。
撤去後のプラスチックのパーテーションや、透明なビニールの幕などは現在も継続利用中、という所も多い。
まだまだ「新型コロナから解放されていない」という心理状態の人の為の「安心」提供ということだろう。

このような状況をある一定期間経て「ウィズ・コロナ」へと人の気持ちも切り替わっていくのだと思う。
思うのだが、人の気持ちとは別に「経済面・政策面」等の視点で、「新型コロナ対策」を検証していく必要があると思う。
というのも、日本の場合「五月雨的に流され、忘れていく」という傾向があるからだ。
そのような思考が全て悪いわけではない。
ただ今回の「新型コロナ」の感染拡大によって、経済は大きく疲弊してしまった。
とにかく「消費意欲」そのものの低下を、感じる場面が随分増えたように感じるからだ。
「消費意欲の低下」は、ジワジワと日本の経済にダメージを与え、消費傾向も「欲しいものがない」消費減退なのか?「消費するコトへの抵抗感」なのか?「将来に対する不安の増幅」なのか?と言った、「生活者の気持ち」を振り返る必要がある、ということなのだ。
その中から、今の「社会問題」が分かることもあるだろう。

高齢者の場合「人と接する機会の減少」により、運動機能だけではなく認知機能の低下などもあったはずだ。
実際、実家の父の様子を見ていると、高齢ということもあるが「新型コロナ」が感染拡大し始めた頃よりも、ご近所の方と接する機会が減り続けた今の方が認知機能やコミュニケーション力など、人が生活をする上で必要な「生活力」の低下が顕著になっている。
単純に「年だから」では済まされないような感じなのだ。

それだけではなく、日本の場合「個人の気合と根性」で、この「新型コロナ」の感染拡大を乗り切ろうとしたような部分がある。
それが「新しい生活習慣」という、政府が発表した「お願い」だ。
内容については、改めて書く必要はないと思うのだが、まだまだ感染拡大が見込まれている時点で行った「Go to キャンペーン」。
この時も大型予算を組んで実施したが、果たしてどれだけ一部特定業界にどれだけの恩恵となったのだろうか?
他にも長い間「保健所」を窓口としたため、「保健所職員」の負担増となり、感染者の情報がスムーズに集まらないということもあった。
そもそも未だにファックスで情報を集める、という方法は効率や合理性という点でよかったのだろうか?
一体何のためのデジタル庁新設だったのか?
何より、「陽性者数(あるいは「感染者数」)」と死亡者数、クラスター発生報告だけの情報で、良かったのか?
拙ブログでは、再三「統計データとして使えない」と書いてきているが、この発表によって生活者が大きな不安を抱き続けたという、印象を持っている。
そして、2類相当から5類へ移行する「条件」が明確に示されなかった、ということも生活者に不安を与える結果となってしまったのでは?

既に「ウィズ・コロナ」へと生活が変わり始めている今だからこそ、多角的な視点で「新型コロナ対策」を検証する必要があると思う。
それが、今後発生するかもしれない「大規模感染症」の対策の参考になっていくと考えるからだ。


「広告」と「プロパガンダ」

2023-05-09 21:17:59 | マーケティング

毎日新聞のWebサイトを見ていたら、面白い記事があった。
毎日新聞:アニメや漫画にただ乗り?プロパガンダとしてのクールジャパン 

ご存じの方も多いと思うのだが、過去プロパガンダという手法で大成功を収めたのはナチスだと言われている。
私自身も、過去「広告がプロパガンダとして使われ、最も成功したのはナチス」だと思っている。
その中でも、ベルリンオリンピックのドキュメンタリー映画「オリンピア」だと考えている。
監督のレニ・リーフェンシュタールは、「ただただ、人の美を撮りたかった」と話しているが、彼女の思惑とは別にヒットラーは、この映画を国威発揚の一つとして使い、成功している。

皮肉なことだが、以来「平和の祭典オリンピック」は「国威発揚」の材料となり、今でも日本では「獲得したメダル数」を逐次メディアを通して伝えられる。
そこにはまさに「がんばれ!日本」という、ナチスとは違う一種のプロパガンダ的要素が含まれているような気がしていて、個人的には心地よいものではない。

そしてこの「アニメや漫画にただ乗り」している(?)クールジャパンだが、今現在の状況は成功している、と言い切れないような気がしている。
特に、海外展開の為に30億円以上投資したといわれている事業に関しては、一度も黒字になってはいないはずだ。
その理由の一つが、この「アニメや漫画にただ乗りをしたプロパガンダ」という感覚を、受け手となる相手国の人たちが感じているからではないだろうか?

そもそもアニメや漫画に限らず、クールジャパンが目指している日本の文化は、自由なモノだ。
それは表現の自由であったり、創造の自由であったりするものだからだ。
その「自由」に対して、広告は何かしらの対価が求められる。
それが、広告や広報活動に対する「費用対効果」ということになると思う。
もちろん、アニメや漫画もヒットしなくては、作者が活動をし続ける事はできないのだが、創作の根底にあるのは「自由」ということだと思う。

それだけではなく、今はネットの普及により世界各国からお気に入りのアニメや漫画に、アクセスできるようになっている。
アニメや漫画の受け手(=ファン)が、世界各地に広がれば広がるほど、広告の在り方も変わってくるし、まして政府が旗振りをするような仕掛けに、多くのファンは乗ってこない。
それが、クールジャパンを推進している政府や広告代理店の考えが合わない理由なのでは?と、考えている。

国が打ち出したい「カッコイイ今の日本文化」としての、アニメや漫画という考えは十分分かる。
しかし、国が広告代理店を通してしまうことで、プロパガンダと受け取られやすくなり、今のグローバル情報社会では受け入れられなくなってきている、というような気がしている。


「お墨付き」という、安心感 -新型コロナ2類相当から5類‐

2023-05-08 19:16:11 | 徒然

4年近く猛威を振るっていた「新型コロナ」が、収束する目途がたったようだ。
先週末には、WHOが新型コロナに対する「緊急事態宣言」を解除する、と発表。
そして、今日から感染症2類相当から「季節性インフルエンザ」とほぼ同じ5類へと、変更された。
真意はともかく、まるでWHOの対応は、日本の5類への移行を待っての発表だった印象を受ける。

3月、「マスク着用の判断は個人に任せる」という方針になってから、まだまだマスクをしている人が多いとはいえ、「マスクからの解放」が一つの呼び水になったかのように、今年のGWは観光地などでは大賑わいだったようだ。
高速道路の渋滞状況も、久しぶりの渋滞予想を聞いたような気がする。

もちろん、専門家と言われる方々の中には「感染が無くなったわけではないので、5類への移行は時期尚早」という意見もあったようだが、であれば、感染者率や死亡率などがどれくらいになれば、「時期尚早」ではなくなるのだろう?
そもそも、昨日と今日は連続的な時間の中で生まれてくる「日にち」という概念だ。
昨日まで感染の主流となっていた「新型コロナ変異株」と、今日の「新型コロナ変異株」の大きな違いはないはずだ。
時間という連続性の中で「新型コロナ」は、次々と変異し新たな特製を獲得するコトで、感染拡大をしてきたはずだ。
昨日と今日の間に「新型コロナ」の変異の連続性が途切れ、無くなってしまったわけではない。
ということは、「新型コロナ」の変異株は今後も発生し続ける、と考える方が自然だろう。

しかし、いつまででも「新型コロナの変異株」を恐れていては、様々な弊害が起きてくる。
特に経済に与える影響は大きい。
だからこそ、今までのような2類相当にし続けることに、社会的メリットがないという「政治的判断」が必要となってくるのだ。

「政治的判断」というお墨付きを得る事で、多くの人は「(必要以上の)不安が軽減」され、医療機関にしても特定の病院に集中することなく、治療が受けられる機会を得る事ができる、ということになる。
その「お墨付き」という安心が、実際の感染状況以上に必要だった、ということなのだと思う。

拙ブログでは、「データのとり方と発表の仕方」について疑問を呈してきたつもりだ。
客観的判断となるデータ発表がされていたとは言い難い、と感じていたからだ。
客観性に富まないデータ発表が長い間継続されたことで、生活者の多くは「発表される数字」に対して、徐々に無関心になっていったのでは?という気もしている。
何故なら、「発表される数字の意味」が、年数を経るごとに分からなくなっていった感があるからだ。
反面、「発表される数字」の影響力はとても大きかった。
「新型コロナ」の変異株が見つかる度に、感染者・陽性者の数字が跳ね上がったからだ。
その跳ね上がる数字を見て、多くの生活者が不安を感じ、「やはり新型コロナは怖い」という不安を植え付けるということの繰り返しだったようにも感じている。
ただ、年数を経るごとにその「不安感」が、薄れていったということでもある。
その繰り返しが、ここ2年ほどされてきたような気がしている。
だからこそ、「政府のお墨付き」が必要だったのだと思っている。


テクノロジーの発達が脅威になる時

2023-05-05 21:04:08 | アラカルト
  1. 既にご存じの方も多いと思う、ロシアで起きたドローンによる攻撃。
    ロシア側は、ウクライナの関与を訴えているようだが、ウクライナ側はそれを否定している。
    一部では、ロシアによる自作自演だったのでは?という、考えもあるようだ。
    その真実は、まだまだ分からないままだが、このドローンによる攻撃というのは、ある意味衝撃的だった。
    それは、ドローンを多目的用途で使うという機運が起き始めていた時に、軍事目的で使用されたからだ。

    ドローンの軍事目的の使用、ということ自体は予想されていたとは思う。
    思うのだが、「まさか!」というタイミングで使用されたからだ。
    というのも、現在ドローンの活用については、「物流・災害時における状況確認(動画撮影を含む)・農薬散布」等が中心に考えられてきたからだ。
    これらの使い方は、社会変化に対応したプラスイメージの使われ方だろう。
    物流コストを下げるという点では、人から自動運搬などへシフトするような方向が再三言われている。
    今の状況は、「安全に使用するための法整備」等だろう。

    考えてみれば、技術革新によって社会は大きく変わり続けてきたし、おそらく変わり続けるだろう。
    今回のロシアのクレムリンを攻撃したのはドローンだったが、「戦争」そのものも技術革新によって大きく様変わりした。
    「湾岸戦争」が勃発したとき、ニュース映像で映し出された光景は、戦争そのものが遠隔によって起きるということだった。
    かつてのように戦車が侵攻し、爆撃機が爆弾を投下するという映像ではなく、スカッドミサイルと呼ばれる長距離弾道ミサイルが遠隔地から照準を合わせ砲撃をしたからだ。
    と同時にそれは、衛星情報戦の中で展開された戦争であった、と言っても良いかもしれない。

    そう考えた時、今回のドローンによる攻撃は近い将来の戦争や紛争の姿と、考えても良いのかもしれない。
    例えば、物流用のドローンが突然攻撃を仕掛けてくる、というようなコトだ。
    あるいは、「ピーピング・トム」のように、盗撮する機会を狙い続けるということも考えられる。
    かつてAIに様々なことを教えた結果として「ヒットラー万歳!」という趣旨のことを話し始めたため、実験を中止したという話題があった。
    最近話題になっている、ChatGTを活用するコトでオリジナルな創造性が、勝手に侵害され、創造性が必要とされる人たちを脅かすのでは?と、指摘されていることも同じだろう。
    欧州諸国では、既に見直し論が出てきているが、日本ではChatGTへの活用に積極的という点も、不安なところだ。
    ただ一つはっきりしているのは、革新的な技術であっても、そのものを使う人が誤れば、人の大きな脅威となるということでもあるのだ。






GWだから考えたい「大人の教養」?

2023-05-03 21:01:31 | ライフスタイル

今日からGW後半戦、ということで5日間の連休を楽しまれている方も多いと思う。
今年は(実質)「コロナ禍」から、解放された大型連休ということで、自粛されていた全国各地のお祭りも4年ぶりに開催しているところも多いようだ。
当然だが、人の往来も「コロナ禍」前のようになり、全国各地の観光地も賑わっていると、ニュースなどでは報道されている。

そんな大型連休だからこそ、いつもとは違う分野について少しだけ興味を持つのも良いのでは?と、朝日新聞のWebサイトの記事を読んだ。
朝日新聞:江戸時代の武士にも必要な教養 奥深い和菓子の魅力 

この記事を読んで思い出したのが、実家の菩提寺がある松江だった。
ご存じの方もいらっしゃると思うのだが、松江は京都・金沢に次ぐ和菓子の銘菓が多いと言われている。
その理由が、松江藩主であった松平治郷が自ら「不昧流(「ふまいりゅう」と読む)」という流派をつくり、松江城下に「茶の湯」を広めたことにある。
山陰中央新報:大名茶人松平不昧公 松江の茶の湯

茶の湯の文化があるからこそ、和菓子文化もまた発達した、ということだろう。
確かに京都は茶の湯文化発祥の地であり、金沢がある旧加賀藩は、茶の湯を文化奨励としていた。
そのような茶の湯文化と大きく関わっているのが、茶席で出される和菓子ということになるだろう。

では、今はどうなのだろう?
実は、昭和の政治家や経営者の多くは、茶の湯をたしなむ方が少なくなかった。
「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助などは、わざわざ京都の南禅寺近くに茶室を中心とした別邸「真々庵」をつくり、来訪者を茶の湯でもてなした、と言われている。
もてなすだけではなく、松下幸之助自身の思い考える場でもあった、とも言われている。
政治の世界では、そのような場というよりも豊臣秀吉から続く、「社交の場」としての茶の湯があったのかもしれない。
それが今でも続いているのか?と言われれば、おそらく違うだろう。
社交の場としての茶席は無くなり、大掛かりな「パーティー」の方が、効率よく政治資金を集める事ができるだろうし、料亭で話をおすれば良いからだ。
料亭と言ってもそれなりの格式あるところであれば、茶の湯の作法位知っておく必要があるかもしれないが、バブル経済崩壊後はそのような場所も無くなりつつあるのではないだろうか?

そのように考えると、かつては女性の嫁入り作法の一つとしての「茶道」ではなく、むしろ男性の中でもそれなりの社会的地位の有る人たちにとっての「茶の湯」があり、「茶席」があったともいえそうだ。
ただ残念なことに、今は男女問わず「茶の湯」や「茶席」という場そのものが、遠いモノとなっている。
茶の湯を引き立てる和菓子にしても、一般的な生クリームやバターを使う洋菓子よりもカロリーが低く腹持ちも良い、という理由で和菓子を選ぶ女性は多くなっている。
茶席のような抹茶ではなく身近な煎茶であっても、今は急須でお茶を淹れる家庭は少なくなっているはずだ。
むしろ、ペットボトルのお茶しか飲んだことがない、という若い方もいらっしゃるかもしれない。

そう考えると、茶席のような場所に行くには、それなりの作法という「教養」が必要であり、その「教養」は日本文化を知るという意味でも重要なことかもしれない。
グローバルなビジネス社会だからこそ、「日本文化に対する知」は今のビジネスパーソンに必要な「教養」のような気がする。

 


「公園の子ども達の声」と共存するには?

2023-05-01 22:37:25 | アラカルト

先日「公園での子どもの声に対する法整備」という記事が、取り上げられていた。
TBS DIGITAL:「子どもの声は騒音ではない」法律で定めることも視野に政府検討 社会の意識は変えられるか  

ここ10年位だろうか?「子どもの公園遊び」で、様々な禁止事項が増え、公園から子ども達が締め出されるようになったように思う。
その一つが「子どもの声が騒音である」という、感覚だ。
先日も「子どもの声が四六時中聞こえて、体調を崩した」という高齢夫婦の訴えがあり、行政側が公園の利用禁止に踏み切った。
確かに、時六時中子どもの声が響きわたるような状況であれば、精神的にも肉体的にもストレスを常に感じるとメディアに取り上げられるようになった。
当事者となれば、毎日毎日子どもの甲高い声を聞き続けるのは、苦痛でしかないだろう。
その反面、「せっかく楽しみに公園にきているのだから、大人も余裕をもって見守ってやれば」という話がある。
以前、ある公園で「大声を出さない」という注意書きから始まり、「ボール遊びはしない」など、禁止事項が次々と増え、結果誰もやってこない公園となってしまった、という記事を見たような気がする。
注意事項が増える=できないことが増える、ということになるので利用者が減っていくのは、当然と言えば当然なのだがそれが公園として利用されなくなる、というのも問題だろう。

問題になるのは、「公園」という場所の役割と住宅地という関係なのかもしれない。
例えば、週末になると新聞のオリコミチラシとして入ってくる、マンションなどの広告。
広告には、必ずマンションの立地条件の良さを強調している。
その中にあるのが「近隣の公園」だ。
「公園が近くにある=住宅地として環境が良い」ということを、伝える条件の一つとなっているのだ。
だからこそ、「公園の近く」という立地=生活環境が良い、ということとして社会的認知がされている、ということだろう。
とすれば、生活環境が良い公園の近隣が子どもの声で生活の質が落ちる、ということを解決する必要がある、ということになる。

考え方の一つとして、「公園と住宅の間に騒音緩衝地帯を設ける」という方法があると思う。
住宅地+広葉樹林帯+遊歩道などを設ける事で、公園と住宅地の距離を開け、広葉樹帯を設け都市部の温暖化対策などにも繋げる、という考えだ。
それだけではなく、海外の公園のように芝生化するということも、考えても良いだろう。
芝生化すると、管理などが大変かもしれないが、サッカーなどのスポーツ会場などのような維持管理は必要としないはずだ。
むしろ、芝生化するコトで子ども達が転んで怪我をする心配もなくなるだろうし、これまでとは違う公園での遊びになるかもしれない。
週末などはピクニック気分でお弁当を広げる人達がいるかもしれない。
そうなれば、公園等場所がコミュニティー場所となる。

人との繋がりが公園という場所で出来る事で、公園での騒音に対する感覚も変化する可能性もある。
何故なら、見も知らない人の声は騒音のように思えても、知人の声となれば騒音とはならないからだ。
「公園」という場所は、本来そのような自由でありながら人が集まる場所なのだと思う。
災害時での避難場所という役割もあるはずだが、その時でも利用する人達の間でコミュニケーションができていれば「公園を中心としたコミュニティー」が既に出来上がっているので、これまでとは違う地域コミュニティーとして機能する可能性もあるのではないだろうか?