滋賀県の甲賀市には「甲賀三霊山」と呼ばれる3つの山があり、それぞれ山岳信仰や山伏による修験道が盛んだった地とされており、巨石群や磐座信仰が残ります。
三霊山とは「飯道山」「庚申山」「岩尾山」の三山のことを指し、これまで「庚申山」と「岩尾山」には訪れておりましたので、最後となる「飯道山」へ登ることとしました。
飯道山は山中に巨岩・奇石が聳え立つ古来より山伏たちの山中修行の修験行場だったといい、役小角を始祖とする修験道が栄えて飯道山の修験者は忍者の元になったと考えられているという。
甲賀忍者は時代劇や時代小説に度々登場しますが、実際に佐々木六角氏や織田信長・徳川家康の伊賀越えでの暗躍、羽柴秀吉によって改易されるものの現在までその名を留めています。
飯道山は山岳信仰から修験の山となりましたが、平安期には天台宗と浄土宗の影響を受け神仏習合の山となり、最盛期には20カ所あまりの坊院が立ち並んでいたという。
飯道神社は原始山岳信仰として飯道神を祀っていたが、熊野本宮から分霊して現在に至るとされており、そこには熊野修験や大峰山の修験道が大きく影響しているようです。
まずは宮町登山口まで林道を進んで二之鳥居から登山開始です。
二之鳥居という呼び方はされていませんが、林道の入口にあったのが一之鳥居とすれば、これは二之鳥居になります。
鳥居を抜けて石段を登って行くことになり、石段の参道が続くのかと思いきや、石段はすぐに終わり石段の後は短い参道です。
スギの植林の間を進みますが、最初から巨石が多いのでこの先に出会う巨石の数々が楽しみになってきます。
すぐに舗装された道は終わりとなり、まずは果てしなく感じるような木段登りの開始です。
ちょうど太陽が正面に来る時間帯でしたので、太陽に向かって天国への階段を登る心境です。
...と綺麗に書いていますが、実際は息は切れて我慢我慢の木段登りです。
湖南の山は笹が多いのか、笹が道を覆ってきている場所もある。
当日は山麓付近で地元の方々が笹や樹木の整備で伐採されており、上の登山道にも笹の伐採跡がありました。
地元の方々が何日もかけて整備して頂いているようであり、登る方としては非常に助かりました。
5丁目を越えた辺りだったでしょうか、地蔵宿という名の石仏が祀られているのを見つける。
由来は分からないものの、参拝で登って来られる人がちょうど疲れてきたところで、もう少しだからガンバレ、見守っているよとでも聞こえてくるような安堵感があります。
さぁもうすぐ飯道神社かと思うようになってくると、石垣と苔むして不揃いの石段の参道に到着する。
前日の雨やこの場所の湿気の多さで滑らないように注意しながら登っていきます。
石段と石垣の道を越えると3つ目の鳥居が見えてきて、飯道神社の境内に入ります。
鳥居の奥には鳥居護法石の「熊野岩」。
熊野修験との関係と思われ、滋賀の山麓などでは時々熊野神社が祀られているのを見かけます。
これは山岳信仰と熊野修験の結びつきが影響しているのでしょうか。
境内を進むとフレームには入りきらない巨大さの「鏡の大岩」に圧倒されます。
この大岩の正面からは下界が見渡せるほど見晴らしがよくなっており、おそらくは麓からもこの巨石が見えるのではないでしょうか。
山の頂上近くにある神社には下界からも見える巨石が祀られていることが多々ありますが、それは山の頂を見て神として意識しやすいこともあるのでしょう。
面によっては平坦な鏡のような面があり、光によっては麓や別の山から神々しく輝く大岩に神を見るという行為も信仰につながったのかもしれません。
飯道神社の本殿は1649年の再建で、鮮やかな極彩色の色合いをしており、重要文化財に指定されている。
御祭神に伊弉冉尊・速玉之男神・事解男神を祀り、熊野権現と深く共通している。
本殿にお参りを済ませましたので次は飯道山の山頂を目指して歩き出します。
山頂は飯道神社とは1㌔以上離れたところにあり、周回出来そうでしたので「杖の権現」から山頂を目指し、「木食応基上人入定窟」と経由して神社へ戻るコースとしました。
分岐のある林道を約700mほど歩くと「杖の権現」の祠と休憩所に到着します。
かつての飯道山は「杖の権現」より山頂側は神の山として立ち入りが禁止されており、飯道山へ登ってきた人はここから山頂を拝んでいたといいます。
山頂までの500mほどの道を登っていると岩の山門のような場所を通ることになる。
山の上の磐座や奥宮があるような道にはかなりの確率で岩の山門のようなあり、御本体との結界といつも感じてしまいます。
そして飯道山の山頂へ到着。
テーブルと椅子があるのは知っていましたので山頂についたら休憩と思っていましたが、先客がおられ食事中でしたので写真だけ撮って、別ルートで下山します。
甲賀市から琵琶湖は遠いように思いますが、ここからは近江富士こと三上山とその向こうに琵琶湖を眺めることが出来ます。
琵琶湖のさらに向こうには比良山系の山々が連なる。
「木食応基上人入定窟」として祀られる木食応基上人は、近江の国に生まれた六角氏に仕えたものの織田信長との戦に敗れ、その後に高野山に登って出家された方とされる。
豊臣秀吉の高野山を攻めの折には和議を結んで中止させたとされ、高野山の復興や寺社の勧進に勤めたとされます。
関ヶ原の戦い後は飯道寺に隠棲して、死期が近くなると入定窟で遷化されたといいます。
飯道神社まで戻った後、山伏修行の「行場巡り」をしましたが、それは続編とさせてもらいます。
飯道山の表参道を下山して登山口の入口近くに祀られた「白髭神社」に参拝してホッと一息。
何でホッと一息なのかというと、それだけ「行場巡り」の山伏修行がハードで怖かったからです。
巨石が連続する嬉しさの反面、難所が多くて危険を感じて緊張感の高い修行道でした。
下山後に振り返って眺めた飯道山。
山伏修行の「行者巡り」へと続く...。
三霊山とは「飯道山」「庚申山」「岩尾山」の三山のことを指し、これまで「庚申山」と「岩尾山」には訪れておりましたので、最後となる「飯道山」へ登ることとしました。
飯道山は山中に巨岩・奇石が聳え立つ古来より山伏たちの山中修行の修験行場だったといい、役小角を始祖とする修験道が栄えて飯道山の修験者は忍者の元になったと考えられているという。
甲賀忍者は時代劇や時代小説に度々登場しますが、実際に佐々木六角氏や織田信長・徳川家康の伊賀越えでの暗躍、羽柴秀吉によって改易されるものの現在までその名を留めています。
飯道山は山岳信仰から修験の山となりましたが、平安期には天台宗と浄土宗の影響を受け神仏習合の山となり、最盛期には20カ所あまりの坊院が立ち並んでいたという。
飯道神社は原始山岳信仰として飯道神を祀っていたが、熊野本宮から分霊して現在に至るとされており、そこには熊野修験や大峰山の修験道が大きく影響しているようです。
まずは宮町登山口まで林道を進んで二之鳥居から登山開始です。
二之鳥居という呼び方はされていませんが、林道の入口にあったのが一之鳥居とすれば、これは二之鳥居になります。
鳥居を抜けて石段を登って行くことになり、石段の参道が続くのかと思いきや、石段はすぐに終わり石段の後は短い参道です。
スギの植林の間を進みますが、最初から巨石が多いのでこの先に出会う巨石の数々が楽しみになってきます。
すぐに舗装された道は終わりとなり、まずは果てしなく感じるような木段登りの開始です。
ちょうど太陽が正面に来る時間帯でしたので、太陽に向かって天国への階段を登る心境です。
...と綺麗に書いていますが、実際は息は切れて我慢我慢の木段登りです。
湖南の山は笹が多いのか、笹が道を覆ってきている場所もある。
当日は山麓付近で地元の方々が笹や樹木の整備で伐採されており、上の登山道にも笹の伐採跡がありました。
地元の方々が何日もかけて整備して頂いているようであり、登る方としては非常に助かりました。
5丁目を越えた辺りだったでしょうか、地蔵宿という名の石仏が祀られているのを見つける。
由来は分からないものの、参拝で登って来られる人がちょうど疲れてきたところで、もう少しだからガンバレ、見守っているよとでも聞こえてくるような安堵感があります。
さぁもうすぐ飯道神社かと思うようになってくると、石垣と苔むして不揃いの石段の参道に到着する。
前日の雨やこの場所の湿気の多さで滑らないように注意しながら登っていきます。
石段と石垣の道を越えると3つ目の鳥居が見えてきて、飯道神社の境内に入ります。
鳥居の奥には鳥居護法石の「熊野岩」。
熊野修験との関係と思われ、滋賀の山麓などでは時々熊野神社が祀られているのを見かけます。
これは山岳信仰と熊野修験の結びつきが影響しているのでしょうか。
境内を進むとフレームには入りきらない巨大さの「鏡の大岩」に圧倒されます。
この大岩の正面からは下界が見渡せるほど見晴らしがよくなっており、おそらくは麓からもこの巨石が見えるのではないでしょうか。
山の頂上近くにある神社には下界からも見える巨石が祀られていることが多々ありますが、それは山の頂を見て神として意識しやすいこともあるのでしょう。
面によっては平坦な鏡のような面があり、光によっては麓や別の山から神々しく輝く大岩に神を見るという行為も信仰につながったのかもしれません。
飯道神社の本殿は1649年の再建で、鮮やかな極彩色の色合いをしており、重要文化財に指定されている。
御祭神に伊弉冉尊・速玉之男神・事解男神を祀り、熊野権現と深く共通している。
本殿にお参りを済ませましたので次は飯道山の山頂を目指して歩き出します。
山頂は飯道神社とは1㌔以上離れたところにあり、周回出来そうでしたので「杖の権現」から山頂を目指し、「木食応基上人入定窟」と経由して神社へ戻るコースとしました。
分岐のある林道を約700mほど歩くと「杖の権現」の祠と休憩所に到着します。
かつての飯道山は「杖の権現」より山頂側は神の山として立ち入りが禁止されており、飯道山へ登ってきた人はここから山頂を拝んでいたといいます。
山頂までの500mほどの道を登っていると岩の山門のような場所を通ることになる。
山の上の磐座や奥宮があるような道にはかなりの確率で岩の山門のようなあり、御本体との結界といつも感じてしまいます。
そして飯道山の山頂へ到着。
テーブルと椅子があるのは知っていましたので山頂についたら休憩と思っていましたが、先客がおられ食事中でしたので写真だけ撮って、別ルートで下山します。
甲賀市から琵琶湖は遠いように思いますが、ここからは近江富士こと三上山とその向こうに琵琶湖を眺めることが出来ます。
琵琶湖のさらに向こうには比良山系の山々が連なる。
「木食応基上人入定窟」として祀られる木食応基上人は、近江の国に生まれた六角氏に仕えたものの織田信長との戦に敗れ、その後に高野山に登って出家された方とされる。
豊臣秀吉の高野山を攻めの折には和議を結んで中止させたとされ、高野山の復興や寺社の勧進に勤めたとされます。
関ヶ原の戦い後は飯道寺に隠棲して、死期が近くなると入定窟で遷化されたといいます。
飯道神社まで戻った後、山伏修行の「行場巡り」をしましたが、それは続編とさせてもらいます。
飯道山の表参道を下山して登山口の入口近くに祀られた「白髭神社」に参拝してホッと一息。
何でホッと一息なのかというと、それだけ「行場巡り」の山伏修行がハードで怖かったからです。
巨石が連続する嬉しさの反面、難所が多くて危険を感じて緊張感の高い修行道でした。
下山後に振り返って眺めた飯道山。
山伏修行の「行者巡り」へと続く...。
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