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いったいどんな神社なんだろうと不思議に思っていましたところ、東近江市に出かけた際に立ち寄る機会があり鬼室神社へ参拝することができました。
国道沿いに行先表示があったものですから、すぐ近くかと思っていたら山あいに向かって約6キロほど離れた鈴鹿の山麓に神社はありました。
鬼室神社は大津に都を定めた頃、百済からの渡来人の中に鬼室集斯という高官の文化人がいて、その墓が神社の本堂裏に祀られていたと伝承されているようです。
神社としては1429年に不動堂を建てたことが始まりとされ、江戸期まで崇拝されていたものの、明治の廃仏毀釈により不動堂は西宮神社と改名して1950年に鬼室神社となったという。
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鬼室集斯の父・福信将軍が大韓民国忠清南道扶餘郡恩山面の恩山別神堂にお祀りされていることから、日野町と韓国の恩山面は1990年に姉妹都市協定を結んで交流が行われているという。
案内板にハングル文字で表示されているのはこの影響だといい、案内板が道筋の各所にあるのは韓国からの参拝者に分かりやすいようにしているのかもしれません。
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境内の外からも良く目立つのは「集斯亭」という韓国の古代建築様式を模した建物で、日野町と韓国恩山面の都市交流20周年を祈念して2009年に建てられたものだそうです。
曲線の屋根や色鮮やかな丹青の集斯亭は日本離れした大陸的な建物で、主に休憩所として利用されているようである。
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鬼室神社は鳥居と本殿と石燈籠があるのみで、本殿はごく普通の社ですが、拝殿と本殿がひとつになったような建物です。
拝殿には「百済金銅大香爐(香炉)」と「金銅弥勒菩薩 半跏思惟像(韓国)」の写真が掲げられており、これは韓国恩山別神堂に関わるものと推測されます。
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鬼室神社の由来となっている鬼室集斯の墓は本堂の裏にあり、石祠の中に鬼室集斯の墓碑が祀られているという。
鬼室集斯の墓碑に関する説は諸説あり真偽のほどは結論が出ていないようですが、この墓碑によって姉妹都市として民間レベルでの異文化交流が深められており、真偽にはこだわらないとのこと。
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いずれにしても滋賀県には当時の韓国の百済や新羅にまつわる伝承の残る社寺が多く、渡来人との関係は深かった、または渡来人の有力者がいたのは確かなようです。
7世紀半ばの百済は新羅に攻められて国は滅亡しており、日本に渡ってきて定着した百済人によってもたらされた文化や技術が多かったようです。
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ところで、小野集落にあった周辺地図を見てみたら、不思議で尚且つ興味をそそられるものがありました。
この集落は鈴鹿山系の直下の麓のような位置にありますが、こんな山奥近くになんと「人魚塚」があるという。
Uターンする場所もなさそうな細い道を山に向かって進んでいくと、「人魚塚」の看板を発見!興奮しました。
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滋賀県の人魚伝説については、東近江市の「願成寺のミイラ(人魚)」や「観音正寺の人魚伝説」などが伝えられており、東近江と人魚は関係が深い。
619年の「日本書紀」には「蒲生河に物有り。その形人の如し」と書かれているといいます。
「人魚塚」の人魚についてもいくつかの伝承があるようですが、山奥に人魚伝説が残るのは実に不可思議な話です。
鬼室神社の鬼室集斯の墓も人魚塚と呼ばれていた時代があったといいますので謎は深まるばかり。
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いずれにしても何か人魚あるいは得体のしれないものへの畏れがあったのかと思われます。
伝承や妖怪というものは得体のしれないものに人の想像力が加わっていると思いますが、何か元になるものがあったのでしょう。
碑はやや曲がりながら墓碑にも見えるような姿で立っており、ここは山との結界になっているのかもしれません。
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もう少し山の方へと進むとお地蔵さんの祠が祀られ、草に覆われた人魚塚とは違って花が供えられています。
ここから先は鈴鹿の山々になり、山を越えていく人たちが手を合わされた場所なのでしょう。
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お地蔵さんは風化して見にくくなってはいますが、複数の頭が見えますので六地蔵かと思いました。
この先にも道はあるようでしたが、この先は山へと続く極細の酷道ですのでここで折り返します。
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山の方向を見てみると「綿向山」とその奥に頭を出しているのは「雨乞岳」でしょうか。
地図を眺めるとそんな感じなんですが、この辺りまでくると鈴鹿の山々はもう目の前です。
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