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“男のためのガーデニング”改め

「繖山 観音正寺 奥之院」の磐座~近江八幡市安土町~

2021-01-24 19:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所の第32番札所である「繖山 観音正寺」は、聖徳太子自らが千手観音菩薩像を彫り、標高433mの繖山の山頂に堂塔を建立したのが始まりとされます。
寺伝によると近江国を遍歴していた聖徳太子が、前世の因果により人魚の姿にされてしまった漁師と出会い、成仏させてほしいと懇願されたという。
聖徳太子はその願いを聞き入れて、千手観音の像を刻み堂塔を建立したと伝えられています。

また、観音正寺には「奥之院」があるといい、聖徳太子が巨岩の岩で舞う天人を見てその岩を「天楽石」と名付け、妙見菩薩を中心に五仏の仏を描いたと伝えられています。
「奥之院」には石窟や磐座、巨石群が祀られているということであり、もう一つの観音正寺の姿を求めて繖山へと向かいました。



「観音正寺」のある「繖山」には、観音正寺以外にも「桑実寺」や「石馬寺」があり、麓には「教林坊」や「奥石神社(老蘇の森)」。繖山から「北向十一面岩屋観音」のある猪子山への縦走も可能だといいます。
この山には磐座信仰や山岳信仰が色濃く残り、古来より山に対する山岳信仰が盛んだった霊山であったことが伺われます。

「奥之院」へは五個荘側から林道 観音寺線で入りましたが、困ったのは入口の係の人に聞いても、参道で出会った巡礼衣装の方に聞いても「奥之院」は知らないと場所が分からなかったこと。
行くだけいってみようということで、裏参道からの緩やかなスローブのルートを石仏などを眺めながら「奥之院」を探してみる。



「奥之院」の鳥居は実際は参道のすぐ脇にあり、圧倒される巨石群は俗世と聖域を切り離す結界のような石造りの鳥居、巨石群へと続く急な石段に緊迫した空気を感じる。
参道から見上げるだけでも巨石が幾つも見え圧倒されますが、石段は登りにくそうであり勾配もかなりきつい。
これは登るより降りる時の方が大変だと思いつつも登ってしまう。



石段を登ると少し平坦な場所となり、山の上方にはさらに巨石群が点在しているのが分かる。
鳥居の正面や横にも巨石がありますが、目を引いたのは訪れる人を拒絶するかのような空気を醸し出す石窟でした。
奥の院には「権現岩 風神雷神窟」という名の石窟があるといいますが、それはここを指すのか。怖くなってくるほどの聖域です。



引き寄せられるように近づいていくと段々と様子が明らかになっていき、聖域に足を踏み入れていく緊張感が高まります。
かつては石窟で修行されていた僧や行者がいたのではないかと想像させるような畏れを感じつつ、とにかく石窟の内部が見える場所まで進んで行く。





「奥之院」には平安時代後期の作とされる磨崖仏5躰が彫られているというのですが、彫が浅いとされていることもあって結局どれが摩崖仏なのかは確認できず。
現在は裏参道が整備されているため奥之院に辿り着くのは容易ですが、かつては山中の難所にある山岳信仰の拠点だったのでしょう。



石窟の上にも巨石が点在しており、さらに上に向かって進んでみます。
ちょうど石窟の上の辺りにも巨石があり、どれが磐座なのか分からなくなりますが、言い方を変えるとこの巨石群全体が磐座として信仰されてきたといっても差し支えはないかもしれません。



さらに上へ向かって登って行っても巨石が平然とした姿で点在しています。
「観音正寺」にある石積み庭園も見事ですが、石積み庭園が造られた要因の一つには繖山の石の多さも影響しているのではないでしょうか。





行き着いた先には目を見張るほどの巨石の上に「佐佐木城址」の石碑が建てられていた。
「佐々木城」は南北朝時代に近江守護・佐々木氏頼が北畠顕家の軍を迎え撃つために築いた砦とされており、室町期~戦国時代にかけては佐々木(六角)氏の居城「観音寺城」へと拡大していったようです。



佐々木(六角)氏は戦国時代に内紛などで弱体化し、織田信長率いる上洛軍に敗れた後、再び挙兵することはあったものの、大名としては歴史の舞台からは消えていくことになります。
観音寺城は城址としてしか残ってはいないものの、まだ各所には城址跡と見られる遺構が残り、参道を歩いていても石垣の一部や砦跡らしき跡地があります。



巨石の多い繖山ですから、巨石を利用してうまく石垣を組んでいるのが面白いところです。
仮に石垣のないところから攻め上がろうとしても、巨石が自然の防御の役目を果たしてくれるのではないかと思えてしまいます。



参道をさらに進むと観音正寺の本堂のあるエリアに近づき、「ねずみ岩」のある所まで辿り着く。
どういう由来で「ねずみ岩」と呼ばれているのか分かりませんが、ねずみの顔かどうかはともかくとして口を開けた顔には見えます。



景観の開けた所から見えるのは八日市や竜王方向でしょうか。
天候には恵まれなかったものの、蒲生野の平野の向こうには山々が見え、気持ちが晴れるいい風景です。



白洲正子さんは「西国巡礼」の中で観音正寺の奥之院のことを次のように書かれています。

奥の院には、びっくりするような大きな石窟があった。
近江は帰化人が住んだ国だから、あるいはその墓だったのかもしれないし、もっと古いものかもしれない。
くわしいことは私には分からないが、ここが信仰の元だったことは間違いない。(白洲正子「西国巡礼」)



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