谷口眞子(しんこ)「赤穂浪士の実像」吉川弘文館 歴史文化ライブラリー214 を読んだ。
忠臣蔵というと、私の歳だと、長谷川一夫の「おのおのがた」を思い出すが、TVのほかにも映画、歌舞伎などでさまざまの形でドラマ化されてきた。しかし、それらは事実と大きく異なっている点が多い。
この本は、当事者が書き残した手紙などの資料から赤穂浪士と事件の真相に迫っている。なお、実録物はほとんどが物語りに過ぎないものもあり、資料には採用していない。
代々の家臣である家老大石内蔵助は御家再興を目指し自重を主張するが、浅野内匠頭(以下内匠頭たくみのかみ)に取り立てられた堀部安兵衛は吉良上野介(以下上野介こうずけのすけ)を討ち取り、主君の無念を晴らそうとする。この両者のやりとりが手に取るようにわかる。そして、結局、御家再興の望みが絶たれたときに討ち入りが決まる。
この間の考え方、行動がこの本を読むとリアルタイム感覚で分かる。
以下、簡単に事実を追ってみる。
元禄14年(1701年)3月14日の江戸城松の廊下で内匠頭が上野介に切りかかった。大切な勅使が通る廊下を血で汚した殿中での刃傷に内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。対して、上野介には何の咎めもなかった。
赤穂藩士の多くは、幕府の裁定に強い不満を持ち、篭城や殉死が叫ばれた。しかし、結局、家老大石内蔵助は内匠頭の跡継ぎの浅野大学を擁立しての御家再興を目指し赤穂城を開城し、引渡す。
江戸の浅野上屋敷、下屋敷を幕府へ明け渡したのが3月17日-22日で突然の事が起きて1週間で明け渡した。赤穂城を退出したのが4月15日であり、それぞれ多くの人が突然、住むところと収入を絶たれた。御家断絶とは厳しいものである。
1702年7月、浅野大学の広島浅野宗家への永預けが決まり、赤穂浅野家再興は絶望的となった。内蔵助は京都円山で会議を開き、上野介への仇討ちを決定した。高禄の者をはじめ半数以上の同志が脱落し、最終的に同志は47人となった。この間、次々と脱落していく家臣の家族、経済的事情などと、同志からの侮蔑の言葉などが生々しい。
1702年12月14日深夜、47人の赤穂浪士は吉良上野介の屋敷に討ち入り、討ち果たした。なお、この本には討ち入りそのものについてはほとんど触れていない。翌年2月4日、赤穂浪士はお預かりの大名屋敷で武士としての体面を重んじられた形で切腹した。
そして、赤穂事件は庶民の人気を呼び、さまざまに脚色される忠臣蔵へと変化していく。