酒井順子著『金閣寺の燃やし方』(講談社文庫さ66-11、2018年2月14日講談社発行)を読んだ。
裏表紙にはこうある。
若い修行僧はなぜ火を放ったのか。「金閣寺焼失事件」に心を奪われ、共に事件を題材に作品を書いた三島由紀夫と水上勉。生い立ちから気質まで、すべてが対照的な二人を比較すると、金閣寺の蠱惑的な佇まいに魅入られずにいられない日本人特有の感覚まで見えてくる。著者ならではの分析眼が生きた文芸エッセイ。
金閣寺は、1950年、金閣寺の21歳の修行僧・林義賢によって放火され、全焼した。事件の6年後、三島由紀夫は小説『金閣寺を書き、12年後、水上勉は『五番町夕霧楼』、さらにその17年後に『金閣炎上』を書いた。
この本は、裁判記録などから放火犯・林養賢の推定できる実像を探ると共に、三島由紀夫と水上勉が書いた二つの小説を比較している。
あまりにも対照的な育ちの二人の視点はまったく異なる。
「表日本」で生まれ育ち、エリート街道から若くして作家として評価された三島は「絶対的な美」という天の視点に立ち、自らの観念をフィクションとして書き上げた。
「裏日本」に育ち、放火犯と同じ若狭の貧しい家に生まれ、口減らしで寺の小僧に出され、40歳で作家として一本立ちするまで裏街道を進んできた水上は「地を這うような貧しさ」という地の視点から見上げ、犯人の屈折した半生から、ノンフィクションともいうべき小説を書いている。
三島は対談の中で、「あれはね、現実には詰ンない動機らしいんですよ。見物人が来る、若いやつがきれいな恰好してね、アベックで見物に来たりする、それがシャクにさわる、…」「ああいうやつ」と語っている。
一方、水上は対談の中で、「宗教家を含めて百パーセントあれ(犯人)を国賊だと指差したけれど、僕は……捨てた人に降りていきたい、そう思った」と執筆動機を語っている。
本作品は、書き下ろし作品として2010年10月に講談社より単行本として刊行。
私の評価としては、★★★★★(五つ星:読むべき)(最大は五つ星)
著者はエッセイとしているようだが、文芸評論と言えるだろう。しかし、難しい話ではなく、面白く読める。相変わらず著者の話は分かりやすい。論理が明快、ストレートで文章はやさしい。著者の頭の中がよく整理されているからだろう。
三島のフィクションの筋立てと、水上の実録風の小説がはっきりとわかりやすく提示される。裁判記録などから推定すると水上の論に分があるが、もともと三島は、事件をヒントとして、自らの理想を小説として描きたかったのだろう。
なお著者は、犯人が育った僻地なども訪ね、よく著作、文献なども調べている。
著者の書き方は、三島に厳しく、水上よりだと思えるが、このようなことも書いている。
三島は死を描くときにもっともうっとりした筆致になった。水上は不幸を描くとき、筆は陶酔感とともに踊り、走った。膨大な仕事量をこなした水上は、自ら「貧困者の小説ばかり書いて金持ちになった」と書いている。