一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

王将戦の指し込み

2019-03-05 00:11:11 | 将棋雑記
第68期王将戦・久保利明王将VS渡辺明棋王の七番勝負は、渡辺棋王が4勝0敗のストレートで勝利し、今年度2人目の二冠王となった。
ところで「王将戦ストレート勝ち」といえば、私には「指し込み」の文字が浮かぶ。

1950年、名人戦が毎日新聞から朝日新聞に移行した際、毎日は名人戦に対抗する新棋戦を創設した。
それが「王将戦」である。一番の特色は、「三番手直りの指し込み制」だった。すなわち、七番勝負で3勝差がついた時点で指し込みとし、以降は「平香交じり」で第7局まで指す、というものである。
これは負けた側には屈辱の制度で、もし名人がそれを喫したら、名人の権威は失墜する。だが時の名人木村義雄は「俺が指し込まれるわけねえよ」と高笑いした。
そしてここに、指し込み王将戦がスタートした。
だが、大波乱は早くも第1期に起こった。決勝七番勝負で、升田幸三八段が木村名人を4勝1敗で指し込んでしまったのだ。
規定通り第6局で香落ち戦が指されることになったが、升田八段はこの対局を拒否。これが世に言う「陣屋事件」である。
この後、第4期で大山康晴王将が松田茂行八段を指し込んだが、2度目の大波乱が翌5期に起こった。
挑戦者の升田八段が、大山王将・名人を3-0で指し込んでしまったのだ。
今度は香落ち局も行われたが、それも升田八段が勝ってしまい、棋界は騒然となった。名人が指し込まれるのも恥だが、香落ちで負けるのはそれ以上のこと。大山名人の屈辱はいかばかりだったか。
大山十五世名人の棋歴は輝かしいものばかりだが、唯一の汚点はこの敗戦だったと思われる。だがこの時の屈辱があったから、後の常勝将軍・大山康晴が生まれたとも云えるのだ。
続く第5局の平手戦も升田八段が勝った。だが第6、7局は、升田八段が病気を理由に棄権した。
なお第5期の場合、記録上の番勝負は第3局で終了。王将戦の七番勝負一覧で、一部「3-0」の表記があるのはこのためである。
この頃は「七番勝負」ではなく「七番将棋」と呼ばれていたが、この制度は第8期をもって終了し、第9期からの指し込みは、香落ち番を1局だけ指すだけとなった。
そして第15期からは「四番手直り」に改められた。ということは、片方が4勝した時点で番勝負は終了だから、香落ち戦の対局は事実上なくなったのである。
ただし指し込みの記録は規則上、生きている。ゆえに以後も「名人が指し込まれる」可能性は残った。
1986年の第35期では、B級2組在籍の中村修六段が中原誠王将(名人)に挑戦し、いきなり3連勝してしまった。次に中原王将が負けると、30年振りに名人が指し込まれてしまう。
だが中原王将は第4、第5局と勝利し、屈辱は免れた。
第35期以後は、現在まで8回、指し込みの記録があった。うち5回が羽生善治九段によるものである。なおこの中で、羽生九段は2度、時の名人を指し込んでいる。
実は今回、指し込まれた棋士の一覧を書くつもりでいた。だがそれは負けた棋士に失礼と思い、見送った。もっともこれは容易に確認ができるので、興味のある方は調べてください。
現在王将戦は、8大タイトルの序列7位である。「大阪王将杯」の香ばしい冠も付き昔年の威厳はないが、七番勝負に熱局が多いのは、「四番手直り」の規則が残っているから、と個人的には考えている。
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