あす20日(土)から、プロ野球日本シリーズが行われる。東京ヤクルトスワローズ対オリックスバファローズで、ペナントレースを制したチームがそのまま日本シリーズに出場するのはよろこばしい。ペナントレースの結果を軽視するクライマックスシリーズなんか、早く廃止にしちゃえばいい。
両球団の対戦は、オリックスの前身・阪急ブレーブスや、合併前の近鉄バファローズを合わせると、4回目になる。その中で私にいちばん印象深いのは、両者の初対戦となった1978年のシリーズである。
当時パ・リーグは前後期制だったが、阪急は知将・上田利治監督を筆頭に福本豊、加藤秀司、島谷金二、山田久志、足立光宏と錚々たるメンバーを擁し、完全優勝を果たした。リーグ優勝・日本シリーズも3連覇中で、最も脂が乗っていた。
いっぽうヤクルトスワローズは万年下位のチームだったが1976年途中から広岡達朗が監督に就任し、徐々に実力をつけてきた。1977年は首位巨人に15ゲーム差をつけられたが2位。そのオフに森昌彦(現・森祇晶)を招聘し、体制は整った。
森作戦コーチは、ヤクルトの巨人に対する劣等感を拭うことに尽力した。すなわち、王貞治には大杉勝男、張本勲には若松勉、堀内恒夫には松岡弘と、個々の実力は巨人に劣っていないことを熱心に説いた。それが通じたか、ヤクルトは巨人に競り勝ち、初優勝を果たしたのである。
その日本シリーズは、ヤクルトの本拠地・明治神宮球場が大学野球で使えないため、後楽園球場を使うことになった。これが最終戦のドラマを生むことになる。
日本シリーズは第1戦から阪急、ヤクルト、阪急と勝利し、第4戦も阪急が8回を終わって5対4とリードしていた。
9回表、ヤクルトは2死から伊勢孝夫が内野安打でからくも出塁した。ここで上田監督は今井雄太郎投手の交代に向かったが、今井はこれを拒絶。今井はこの年の8月31日に完全試合を達成しており、それなりの自信はあった。
そこで上田監督は続投としたが、この温情が裏目に出た。再開後、1番・ヒルトンが逆転2ラン。ヤクルトが劇的な勝利を収め、息を吹き返した。
第5戦はヤクルト、第6戦は阪急が制し、3勝3敗。そして10月22日、運命の後楽園決戦となったのである。
ヤクルトは松岡、阪急は足立の先発で始まったこの試合、ヤクルトが5回に先制。そして日本シリーズ最大の事件が6回裏に起こった。
この回、1死から大杉が左翼ポール際に大飛球を放った。左翼線審の富澤宏哉は右手を回し「ホームラン」の合図。しかしこれに上田監督が「ファウルだ」と猛抗議に出た。上田監督にはポールの外を通ったように見えたし、ヤクルトの選手も打球を追ったが、ファウルと見てすぐにベンチに引っ込んだ。上田監督にはファウルの確信があった。しかし富澤も審判生活24年のベテランである。「打球はポールの上を通過した」という絶対の自信があった。
上田監督の抗議は長引く。いまならビデオをリプレイして判定が覆る可能性もあるが、当時はそこまで革新されていない。しかしここにきて1点の有無は試合を大きく左右する。上田監督もここで引くわけにはいかなかった。
「なら線審を変えてくれ」と上田監督は要望したが嫌がらせみたいなもので、到底受け入れられるわけがない。そのうちNPBの金子鋭コミッショナーまで出動したが、上田監督はそれでも納得しない。
あたりは夕陽が射し込み、結局上田監督の抗議は1時間19分にも及んだのだった。現在ではこの長時間抗議は、ルール的にも道徳的にもできない。ともあれ私たちは、勝利に対するチームの執念を目の当たりにしたのであった。
むろん判定は覆らず、試合はこのまま続行。8回裏、ヤクルトは大杉が2本目のホームランを左中間に放ち、今度は文句を言わせない、とばかりダイヤモンドを一周した。
結局4対0でヤクルトが勝ち、勇者阪急を制して日本一になったのであった。
なお上田監督はこのときの抗議の責任を取り、シーズン後に辞任。以後、チームも決め手を欠くようになり、次の優勝は1984年まで持ち越されることになる。
また富澤審判も、あの試合が最後の日本シリーズ出場となった。
そして今年のヤクルトも、明治神宮球場は使えず、東京ドームを使う。シリーズ初対戦から43年、今年はどんなドラマが待っているだろう。
両球団の対戦は、オリックスの前身・阪急ブレーブスや、合併前の近鉄バファローズを合わせると、4回目になる。その中で私にいちばん印象深いのは、両者の初対戦となった1978年のシリーズである。
当時パ・リーグは前後期制だったが、阪急は知将・上田利治監督を筆頭に福本豊、加藤秀司、島谷金二、山田久志、足立光宏と錚々たるメンバーを擁し、完全優勝を果たした。リーグ優勝・日本シリーズも3連覇中で、最も脂が乗っていた。
いっぽうヤクルトスワローズは万年下位のチームだったが1976年途中から広岡達朗が監督に就任し、徐々に実力をつけてきた。1977年は首位巨人に15ゲーム差をつけられたが2位。そのオフに森昌彦(現・森祇晶)を招聘し、体制は整った。
森作戦コーチは、ヤクルトの巨人に対する劣等感を拭うことに尽力した。すなわち、王貞治には大杉勝男、張本勲には若松勉、堀内恒夫には松岡弘と、個々の実力は巨人に劣っていないことを熱心に説いた。それが通じたか、ヤクルトは巨人に競り勝ち、初優勝を果たしたのである。
その日本シリーズは、ヤクルトの本拠地・明治神宮球場が大学野球で使えないため、後楽園球場を使うことになった。これが最終戦のドラマを生むことになる。
日本シリーズは第1戦から阪急、ヤクルト、阪急と勝利し、第4戦も阪急が8回を終わって5対4とリードしていた。
9回表、ヤクルトは2死から伊勢孝夫が内野安打でからくも出塁した。ここで上田監督は今井雄太郎投手の交代に向かったが、今井はこれを拒絶。今井はこの年の8月31日に完全試合を達成しており、それなりの自信はあった。
そこで上田監督は続投としたが、この温情が裏目に出た。再開後、1番・ヒルトンが逆転2ラン。ヤクルトが劇的な勝利を収め、息を吹き返した。
第5戦はヤクルト、第6戦は阪急が制し、3勝3敗。そして10月22日、運命の後楽園決戦となったのである。
ヤクルトは松岡、阪急は足立の先発で始まったこの試合、ヤクルトが5回に先制。そして日本シリーズ最大の事件が6回裏に起こった。
この回、1死から大杉が左翼ポール際に大飛球を放った。左翼線審の富澤宏哉は右手を回し「ホームラン」の合図。しかしこれに上田監督が「ファウルだ」と猛抗議に出た。上田監督にはポールの外を通ったように見えたし、ヤクルトの選手も打球を追ったが、ファウルと見てすぐにベンチに引っ込んだ。上田監督にはファウルの確信があった。しかし富澤も審判生活24年のベテランである。「打球はポールの上を通過した」という絶対の自信があった。
上田監督の抗議は長引く。いまならビデオをリプレイして判定が覆る可能性もあるが、当時はそこまで革新されていない。しかしここにきて1点の有無は試合を大きく左右する。上田監督もここで引くわけにはいかなかった。
「なら線審を変えてくれ」と上田監督は要望したが嫌がらせみたいなもので、到底受け入れられるわけがない。そのうちNPBの金子鋭コミッショナーまで出動したが、上田監督はそれでも納得しない。
あたりは夕陽が射し込み、結局上田監督の抗議は1時間19分にも及んだのだった。現在ではこの長時間抗議は、ルール的にも道徳的にもできない。ともあれ私たちは、勝利に対するチームの執念を目の当たりにしたのであった。
むろん判定は覆らず、試合はこのまま続行。8回裏、ヤクルトは大杉が2本目のホームランを左中間に放ち、今度は文句を言わせない、とばかりダイヤモンドを一周した。
結局4対0でヤクルトが勝ち、勇者阪急を制して日本一になったのであった。
なお上田監督はこのときの抗議の責任を取り、シーズン後に辞任。以後、チームも決め手を欠くようになり、次の優勝は1984年まで持ち越されることになる。
また富澤審判も、あの試合が最後の日本シリーズ出場となった。
そして今年のヤクルトも、明治神宮球場は使えず、東京ドームを使う。シリーズ初対戦から43年、今年はどんなドラマが待っているだろう。