A氏いわく、幹事を中心にして、居酒屋に14名の予約をしているとのことであった。でも、それなら私が飛び入りで入ってはマズイだろう。が、A氏は
「いいんですよ。先週の木村先生の喜寿の会で、大沢さん帰っちゃったでしょ。私ほか人から、大沢さんをなんで帰したんだ、って怒られちゃったんですから」。
こううれしいことを言われては、私も参加する一手だ。
場所は出版クラブホール近くの居酒屋。近くにアカシヤ書店もあり、星野氏のフランチャイズだ。
が、まだ店は開いていない。準備前でも予約済だから入れてくれそうだが、この店は厳格だ。
外は小雨が降っていて、青年氏が店の中を覗いたりする。よく見ると、窪田義行七段だった。
久し振りの窪田七段に、挨拶をする。なぜか窪田七段の前だと、ほかの棋士とは別の、妙な緊張感が生じるのが不思議だ。
入店すると、予約14名に対し、総勢18名である。最初はA氏と並んで座ったが、奥のソファーは上座っぽいということで、反対側へ移動する。私の右には湯川恵子さん、星野氏、三上氏、小川敦子さん、Akuさんが来たが、座りきれない。
あれは18年前のことである。私の音頭で高校のクラス会を開いたことがあった。私は人数ぶんの食事を予約しなければならなかったので、事前の出欠は絶対だった。
だが当日、出欠不明のヤツが出席した。彼は「時間の都合をつけてきた」と言わんばかりだったが、こっちは出席者が増えたから、食事のやりくりが大変だった。
今回星野氏には、同じ苦労を強いてしまったわけである。
私が帰ろうかと思ったが、Akuさんが抜けて、反対側に移った。Akuさんには申し訳ないことをしてしまった。
総勢18人である。私の左が西上心太氏、その左が窪田七段。向かいはA氏で、その左が所司和晴七段、その左が湯川博士幹事である。私の右ブロック4名は恵子さん、星野氏、三上氏、敦子さんが窮屈そうに座った。やはり私は申し訳ない気持ちになった。窪田七段から左のスペースは、Kan氏、Akuさん、Fさんなどが着席した。
それにしても西上氏の存在感が大きい。将棋を指していると銭湯に入ったときのように身分の差はなく緊張感も薄れるが、こうした場でハッと我に返ると、西上氏は文芸評論家、A氏は作家で棋士も2人、ほかに画家や観戦記者と、豪華絢爛だ。自分は相当場違いなところにいるなと思う。
14名分はコースで運ばれてくる。私は緊張しながら箸をつける。蕎麦の煮凝りなどは美味いが、ここは蕎麦店らしい。とすれば、〆に蕎麦が出てくるのだろうか。
右の4名分は単独での注文だが、隣の芝生は青く見えて、そちらが美味しそうでもある。
とりあえず西上氏に話し掛けると、快活に答えてくれた。私は恐縮するのみである。
料理がなくなってくると、窪田七段が「残飯は出すまい」とばかり綺麗に片付ける。その精神に脱帽である。
私は所司七段に聞きたいことがあった。「先生は、1987年に17連勝をしていますよね。その後半に―実際は1勝目だった―王位戦(日本将棋連盟、新聞三社連合主催)で大山先生にも勝っているじゃないですか。大山先生の雰囲気はどうだったんですか」
すると、所司七段は懐かしそうに話してくれた。
「大山先生との王位戦ね。あの何ヶ月か前に別の棋戦で当たりましてね。簡単に攻め潰されて負けました。
あのね、世間では大山将棋が受け将棋といけど、実は攻め将棋ですよ」
そういえば、桐山清澄九段は「いぶし銀」といわれるが、実は猛烈な攻め将棋である、と谷川浩司十七世名人が語っていた。大山十五世名人にも同じことがいえるのか。「だから王位戦で当たったときも、大山先生は私のことを相手にしていなかったでしょうね。
その将棋も攻められちゃってね、終盤で私が王手飛車を掛けたら、大山先生が『王手飛車を掛けられちゃった』と笑っていた。将棋は勝勢と見ていて、ごきげんだったんですね。そういう大山先生は珍しい」
実戦はその後、所司五段(当時)の頑強な飛車受けが妙手で、所司五段が勝ち切った。ここから所司七段の17連勝が始まったのである。
宴は終盤になり、Fさんは退席。その際、幹事を辞することが発表された。Fさんとは7月の美馬和夫氏の会でお会いしただけだったが、精力的に幹事の仕事をしている印象があった。
Fさんは容姿も端麗で若く、将棋ペンクラブには不可欠な存在だと思ったが、余人には分からぬ事情があるのだろう。ともあれFさん、お疲れ様でした。
〆はへぎそば。これもツルツルしていて、美味かった。
楽しかった宴もお開き。最後はいつものように三本締めで終了である。私もここ1年半は所用があってめっきり人付き合いが悪くなったが、ヒトとの交流は乾いた我が人生の一服の清涼剤である。皆さま、またよろしくお願いいたします。
「いいんですよ。先週の木村先生の喜寿の会で、大沢さん帰っちゃったでしょ。私ほか人から、大沢さんをなんで帰したんだ、って怒られちゃったんですから」。
こううれしいことを言われては、私も参加する一手だ。
場所は出版クラブホール近くの居酒屋。近くにアカシヤ書店もあり、星野氏のフランチャイズだ。
が、まだ店は開いていない。準備前でも予約済だから入れてくれそうだが、この店は厳格だ。
外は小雨が降っていて、青年氏が店の中を覗いたりする。よく見ると、窪田義行七段だった。
久し振りの窪田七段に、挨拶をする。なぜか窪田七段の前だと、ほかの棋士とは別の、妙な緊張感が生じるのが不思議だ。
入店すると、予約14名に対し、総勢18名である。最初はA氏と並んで座ったが、奥のソファーは上座っぽいということで、反対側へ移動する。私の右には湯川恵子さん、星野氏、三上氏、小川敦子さん、Akuさんが来たが、座りきれない。
あれは18年前のことである。私の音頭で高校のクラス会を開いたことがあった。私は人数ぶんの食事を予約しなければならなかったので、事前の出欠は絶対だった。
だが当日、出欠不明のヤツが出席した。彼は「時間の都合をつけてきた」と言わんばかりだったが、こっちは出席者が増えたから、食事のやりくりが大変だった。
今回星野氏には、同じ苦労を強いてしまったわけである。
私が帰ろうかと思ったが、Akuさんが抜けて、反対側に移った。Akuさんには申し訳ないことをしてしまった。
総勢18人である。私の左が西上心太氏、その左が窪田七段。向かいはA氏で、その左が所司和晴七段、その左が湯川博士幹事である。私の右ブロック4名は恵子さん、星野氏、三上氏、敦子さんが窮屈そうに座った。やはり私は申し訳ない気持ちになった。窪田七段から左のスペースは、Kan氏、Akuさん、Fさんなどが着席した。
それにしても西上氏の存在感が大きい。将棋を指していると銭湯に入ったときのように身分の差はなく緊張感も薄れるが、こうした場でハッと我に返ると、西上氏は文芸評論家、A氏は作家で棋士も2人、ほかに画家や観戦記者と、豪華絢爛だ。自分は相当場違いなところにいるなと思う。
14名分はコースで運ばれてくる。私は緊張しながら箸をつける。蕎麦の煮凝りなどは美味いが、ここは蕎麦店らしい。とすれば、〆に蕎麦が出てくるのだろうか。
右の4名分は単独での注文だが、隣の芝生は青く見えて、そちらが美味しそうでもある。
とりあえず西上氏に話し掛けると、快活に答えてくれた。私は恐縮するのみである。
料理がなくなってくると、窪田七段が「残飯は出すまい」とばかり綺麗に片付ける。その精神に脱帽である。
私は所司七段に聞きたいことがあった。「先生は、1987年に17連勝をしていますよね。その後半に―実際は1勝目だった―王位戦(日本将棋連盟、新聞三社連合主催)で大山先生にも勝っているじゃないですか。大山先生の雰囲気はどうだったんですか」
すると、所司七段は懐かしそうに話してくれた。
「大山先生との王位戦ね。あの何ヶ月か前に別の棋戦で当たりましてね。簡単に攻め潰されて負けました。
あのね、世間では大山将棋が受け将棋といけど、実は攻め将棋ですよ」
そういえば、桐山清澄九段は「いぶし銀」といわれるが、実は猛烈な攻め将棋である、と谷川浩司十七世名人が語っていた。大山十五世名人にも同じことがいえるのか。「だから王位戦で当たったときも、大山先生は私のことを相手にしていなかったでしょうね。
その将棋も攻められちゃってね、終盤で私が王手飛車を掛けたら、大山先生が『王手飛車を掛けられちゃった』と笑っていた。将棋は勝勢と見ていて、ごきげんだったんですね。そういう大山先生は珍しい」
実戦はその後、所司五段(当時)の頑強な飛車受けが妙手で、所司五段が勝ち切った。ここから所司七段の17連勝が始まったのである。
宴は終盤になり、Fさんは退席。その際、幹事を辞することが発表された。Fさんとは7月の美馬和夫氏の会でお会いしただけだったが、精力的に幹事の仕事をしている印象があった。
Fさんは容姿も端麗で若く、将棋ペンクラブには不可欠な存在だと思ったが、余人には分からぬ事情があるのだろう。ともあれFさん、お疲れ様でした。
〆はへぎそば。これもツルツルしていて、美味かった。
楽しかった宴もお開き。最後はいつものように三本締めで終了である。私もここ1年半は所用があってめっきり人付き合いが悪くなったが、ヒトとの交流は乾いた我が人生の一服の清涼剤である。皆さま、またよろしくお願いいたします。