日付変わってきょう7月26日は、十五世名人・大山康晴氏の命日である。
大山十五世名人が亡くなったのは1992年。そのころ私は、新卒で入った会社でリストラに遭い、休職中だった。家で悶々としていてもしょうがないので、7月下旬から北海道を旅行し、当日は旭川にいた。訃報は家にかけた電話で、オヤジから聞いた。
しばし雑談したあと、「あと、大山が死んだ…」と、オヤジが力なく言ったとき、やっぱり…と思った。
その1か月ほど前、棋聖戦30年の記念式典があり、永世棋聖の大山十五世名人も出席した。それを「週刊将棋」で見ると、写真の大山十五世名人はゲッソリ痩せており、これはただ事ではないと思った。
果たして7月上旬、新聞に「大山十五世名人、2か月休場」のニュースが載り、大山先生大丈夫か、と心配していた矢先の訃報なのだった。
そんなわけできょうは、私が勝手に選ぶ、大山十五世名人の名局を発表したい。
1局目のきょうは、1982年7月23日に行われた、米長邦雄棋王との一戦である。いまから31年も前だが、ちっとも古さを感じさせない。とりあえず、並べていただこう。
1982年7月23日 於:東京「将棋会館」
第21期十段戦・挑戦者決定リーグ
▲棋王 米長邦雄
△王将 大山康晴
▲2六歩△3四歩▲7六歩△4四歩▲4八銀△3二銀▲6八玉△4二飛▲7八玉△6二玉▲5八金右△7二銀▲5六歩△7一玉▲6八銀△5二金▲3六歩△8二玉▲5七銀左△4三銀
▲2五歩△3三角▲4六歩△5四銀▲5五歩△6五銀▲3五歩△同歩▲3八飛△4三金▲3五飛△3四歩▲3六飛△5四歩▲同歩△5二飛▲3五歩△同歩▲同飛△5四銀
▲3四歩△5一角▲5五歩△6五銀▲4五歩△3三歩▲同歩成△同桂▲3七桂△5六歩▲4六銀△3四歩▲3六飛△4五歩▲同桂△4四金▲5四歩△4五金▲同銀△同桂
▲1一角成△5七歩成▲5三香(第1図)

△5八と▲同金△5七歩▲5九金△1二飛(第2図)

▲5一香成△1一飛▲6一成香△同飛▲5五金(第3図)

△6六桂▲同歩△7六銀▲7九桂(第4図)

△7七香▲同桂△8九角▲同玉△7七銀成▲7八金△8八銀(投了図)
まで、84手で大山王将の勝ち。

大山の四間飛車に、米長は▲5七銀左の急戦策を採った。中盤、ふたりの対局らしく、押したり引いたりの駆け引きが続く。
米長は香を取り、それを▲5三香(第1図)と打つ。5二飛、5一角の田楽刺しだ。アマチュア同士の対戦ならこれで勝負あり、というところ。しかし大山は平然と△1二飛!(第2図) 何と▲1一馬に当て、取れ!と言ったのだ。当時大山は59歳。還暦間近の棋士の指し手とは思えぬ若々しさではないか。
△1二飛を▲同馬なら、△3三角とノゾいて後手がおもしろい。先手は▲5三香がスカタンで、これは指せない手である。馬筋を逸らして手を稼ぐ手は、いまでこそ常識になっているかもしれないが、当時は斬新だった。
米長は仕方なく▲5一香成だが、△1一飛~△6一飛と、後手の駒が綺麗に捌けた。
米長は▲5五金(第3図)と、目障りな△6五銀を除去しにかかる。しかしこの後11手で投了に追い込まれるとは、さすがの米長も思っていなかったのではなかろうか。
大山の持ち駒は角、金、銀、桂、香と一式ある。ここから大山の華麗な寄せが始まる。まずは△6六桂の犠打。やむない▲同歩に、体をかわすように△7六銀と摺り込む。米長は▲7九桂(第4図)と6筋を受けるが、今度は△7七香があった。
▲同桂に△8九角が、「玉は下段に落とせ」を地でいく好手。▲同玉△7七銀成で一遍に寄り形だ。▲7八金に△8八銀(投了図)で、米長の投了となった。
以下は▲8八同金△7六桂で必至である。
なおこの将棋は読売新聞に観戦記が載り、観戦記者は陣太鼓氏だった。
米長永世棋聖は、1985年前後に「NHK将棋講座」で1年間、自戦記のコーナーを持っていた。その何回目かに、本局も登場した。自戦記なら勝局を載せそうなものだし、敗局、しかも大山十五世名人の快勝局を採用することには相当な抵抗があったはずだが、それを踏まえても、本局は載せる価値あり、と見たのだろう。
自戦記には、▲5七銀左としながら▲4六歩とした組み合わせが悪かったかも、と書いてあったが、ここは後手の指し方を褒めるべきだろう。
最後は、「日陰の米長にされた一局」と結ばれていた。
さすがの米長永世棋聖もシャッポを脱いだのである。私はいままで何局の将棋を見てきたか分からぬが、中盤の豪快な飛車の動き、終盤の華麗な寄せと、こんなに一局の将棋に感嘆したことはなかった。
谷川浩司九段、羽生善治三冠が59歳になったとき、果たして本局の大山十五世名人のような将棋が指せるだろうか。そう思うと、やはり大山十五世名人は強い、と唸らざるを得ないのである。
大山十五世名人が亡くなったのは1992年。そのころ私は、新卒で入った会社でリストラに遭い、休職中だった。家で悶々としていてもしょうがないので、7月下旬から北海道を旅行し、当日は旭川にいた。訃報は家にかけた電話で、オヤジから聞いた。
しばし雑談したあと、「あと、大山が死んだ…」と、オヤジが力なく言ったとき、やっぱり…と思った。
その1か月ほど前、棋聖戦30年の記念式典があり、永世棋聖の大山十五世名人も出席した。それを「週刊将棋」で見ると、写真の大山十五世名人はゲッソリ痩せており、これはただ事ではないと思った。
果たして7月上旬、新聞に「大山十五世名人、2か月休場」のニュースが載り、大山先生大丈夫か、と心配していた矢先の訃報なのだった。
そんなわけできょうは、私が勝手に選ぶ、大山十五世名人の名局を発表したい。
1局目のきょうは、1982年7月23日に行われた、米長邦雄棋王との一戦である。いまから31年も前だが、ちっとも古さを感じさせない。とりあえず、並べていただこう。
1982年7月23日 於:東京「将棋会館」
第21期十段戦・挑戦者決定リーグ
▲棋王 米長邦雄
△王将 大山康晴
▲2六歩△3四歩▲7六歩△4四歩▲4八銀△3二銀▲6八玉△4二飛▲7八玉△6二玉▲5八金右△7二銀▲5六歩△7一玉▲6八銀△5二金▲3六歩△8二玉▲5七銀左△4三銀
▲2五歩△3三角▲4六歩△5四銀▲5五歩△6五銀▲3五歩△同歩▲3八飛△4三金▲3五飛△3四歩▲3六飛△5四歩▲同歩△5二飛▲3五歩△同歩▲同飛△5四銀
▲3四歩△5一角▲5五歩△6五銀▲4五歩△3三歩▲同歩成△同桂▲3七桂△5六歩▲4六銀△3四歩▲3六飛△4五歩▲同桂△4四金▲5四歩△4五金▲同銀△同桂
▲1一角成△5七歩成▲5三香(第1図)

△5八と▲同金△5七歩▲5九金△1二飛(第2図)

▲5一香成△1一飛▲6一成香△同飛▲5五金(第3図)

△6六桂▲同歩△7六銀▲7九桂(第4図)

△7七香▲同桂△8九角▲同玉△7七銀成▲7八金△8八銀(投了図)
まで、84手で大山王将の勝ち。

大山の四間飛車に、米長は▲5七銀左の急戦策を採った。中盤、ふたりの対局らしく、押したり引いたりの駆け引きが続く。
米長は香を取り、それを▲5三香(第1図)と打つ。5二飛、5一角の田楽刺しだ。アマチュア同士の対戦ならこれで勝負あり、というところ。しかし大山は平然と△1二飛!(第2図) 何と▲1一馬に当て、取れ!と言ったのだ。当時大山は59歳。還暦間近の棋士の指し手とは思えぬ若々しさではないか。
△1二飛を▲同馬なら、△3三角とノゾいて後手がおもしろい。先手は▲5三香がスカタンで、これは指せない手である。馬筋を逸らして手を稼ぐ手は、いまでこそ常識になっているかもしれないが、当時は斬新だった。
米長は仕方なく▲5一香成だが、△1一飛~△6一飛と、後手の駒が綺麗に捌けた。
米長は▲5五金(第3図)と、目障りな△6五銀を除去しにかかる。しかしこの後11手で投了に追い込まれるとは、さすがの米長も思っていなかったのではなかろうか。
大山の持ち駒は角、金、銀、桂、香と一式ある。ここから大山の華麗な寄せが始まる。まずは△6六桂の犠打。やむない▲同歩に、体をかわすように△7六銀と摺り込む。米長は▲7九桂(第4図)と6筋を受けるが、今度は△7七香があった。
▲同桂に△8九角が、「玉は下段に落とせ」を地でいく好手。▲同玉△7七銀成で一遍に寄り形だ。▲7八金に△8八銀(投了図)で、米長の投了となった。
以下は▲8八同金△7六桂で必至である。
なおこの将棋は読売新聞に観戦記が載り、観戦記者は陣太鼓氏だった。
米長永世棋聖は、1985年前後に「NHK将棋講座」で1年間、自戦記のコーナーを持っていた。その何回目かに、本局も登場した。自戦記なら勝局を載せそうなものだし、敗局、しかも大山十五世名人の快勝局を採用することには相当な抵抗があったはずだが、それを踏まえても、本局は載せる価値あり、と見たのだろう。
自戦記には、▲5七銀左としながら▲4六歩とした組み合わせが悪かったかも、と書いてあったが、ここは後手の指し方を褒めるべきだろう。
最後は、「日陰の米長にされた一局」と結ばれていた。
さすがの米長永世棋聖もシャッポを脱いだのである。私はいままで何局の将棋を見てきたか分からぬが、中盤の豪快な飛車の動き、終盤の華麗な寄せと、こんなに一局の将棋に感嘆したことはなかった。
谷川浩司九段、羽生善治三冠が59歳になったとき、果たして本局の大山十五世名人のような将棋が指せるだろうか。そう思うと、やはり大山十五世名人は強い、と唸らざるを得ないのである。