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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (142) 長尾家 55

2024年07月17日 08時55分17秒 | 甲越軍記
*yottin私感 現在の越後(新潟県の県庁は新潟市にあるが、中世の越後国府(県庁)は上越市直江津地区にあった。
越後長尾家の祖は、上州(群馬)長尾家で関東管領上杉氏の有力な忠臣の一族で、その一派が越後上田(南魚沼郡)に移り住み、越後国主上杉氏に従い分家筋が国府に同行したのであろう、ずっと国府長尾家は上杉氏に忠勤して守護代を勤めたが、為景の時、反乱を起こして上杉氏を下剋上で討ち、越後をわがものとした。 後に為景の四男の上杉謙信が国府の隣の春日山に城を構える。

 さて、このような事情で越後国内は三分し、黒田勢を含めると四分の様相を呈した。
国府の晴景の元には一族長尾家を中心に、栃尾の景虎には中越後の有力豪族が中心に集まり、屋形上杉定実も景虎を支持する
このような国を二分する大騒動に発展してしまい、戸惑ったのは景虎であった
景虎は本庄、宇佐美の二人を前にして涙を流し「父、為景公は関東管領上杉氏の臣でありながら、管領の顕定公、房能公を害し奉った、その報いを受けて越中の陣で討死された。 その子、景康、景房のわが兄は父の寵臣、黒田和泉守のために滅ぼされ汚名を末代まで伝える
因果は車が回る如し、我はまたここに兄、晴景に対し弓矢を取らんとす、これ末世の恥辱である、某がこのような者であるから兄の疑惑を招き、諸将を騒がし、人民を苦しめた、もとより出家遁世の身であったものである、兄に背くより、再び我は出家して国内の安寧をはかりたい」

これを聞いて、宇佐美、本庄は席を前に進め諌めるには
「某、つらつら思うに、大将晴景は国を治める器にあらず、彼に国家を預けるならば、たちまち越後は逆徒によって滅ぼされるでありましょう、このような薄氷を踏むような今にあって君が出家なされば長尾家は滅び去ること必定なり、これこそが先祖に対する最大の不孝であります
国の為、家の為に早く義兵の旗を揚げて府内を潰して、長尾家長久の基を開き奉え
和漢において、弟が兄を討って政道を正す例は数多あります、唐の大宗は兄、弟を討って天下を保ち賢君の御名を得たり、早く旗をあげたまえ」と必死に説くのであった。

景虎はそれでも迷いに迷っていた。
そこに屋形上杉兵庫頭より神余越前守が早馬で遣わされ栃尾に着いた
「早く、義兵を挙げよ」との催促であった、ここに至り、ついに景虎の心も定まりさらば、用意あるべしと城郭を修理し、砦を築いて旗を立て、鉄砲の玉薬を用意した。

この鉄砲について、去る天文十二年、大隅国(鹿児島)の種子島に西洋の船が来て交易を求めた、そのとき西洋人が持ち込んだ鉄砲は百発百中で驚かせた島主の種子島時尭は鉄砲二挺求めた
そのころ、これを聞いて遠く紀州根来寺の法師杉の坊という者が種子島を訪れ、時尭と共に地元鍛冶に命じて多く模して造らせたがうまくいかず、その後
金兵衛という鍛冶の内匠が初めて西洋並みの精度の鉄砲を完成させた。
これが今ある鉄砲の始めである。

杉の坊はこれを関東北条家に伝えたが、いち早く甲斐の武田がこれを欲してこの家に渡った。
近年、景虎はこの話を聞いて、家臣を甲斐に遣わし根来に会い、これを学ばせたのであった。

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