捕虜も数百に達したが、それらの多くは市民の男女であった、兵士で生き残った者はほとんどなかった。
戦のあとの処理が行われた、日本軍の武士は国内では敵の首を取って、それを大将に見聞してもらう。 名のある兜首を取った者は勇士として大いに称賛され、出世も叶う、ところが朝鮮では取った首を秀吉に見せるために少なくとも10日間の日数がかかり、その間に腐ってしまうし、塩漬けにしても数人ならともかく、数千の首を塩漬けで送るのは不可能だ
そこで鼻を削いで討ち取った敵数の証として、部隊別に名護屋へ送った
この日、送った鼻は5000を越えたという
捕虜の多くは女で、男たちはほぼ全員が殺された、捕虜は名護屋に船で送られた。
文禄の戦では、朝鮮全土を制圧したのち、明国に攻め込み北京の王宮、紫禁城を占領して大明国を従えると言うのが、目的であった。
だが予想以上に朝鮮は奥深く、気候までもが敵となって占領した平壌、漢城も手放して、南に撤退するしかなかった。
秀吉は今度の渡海の目標を大幅に変えた、明の占領はおろか、漢城も占領しようとはしない、「忠清道」「全羅道」「慶尚道」から明と朝鮮の軍を追い出してしまえば目的は達成されたという。
「日本は、その気になれば、ただちに朝鮮など占領できるのだ」と言うことを知らしめることで良いのだと。
そのためには全州は何が何でも攻め落とさなければならない、小西たちの軍は北進を続けた、全州に近づいて物見を出すと意外にも
「もはや全州城に敵は一人もおりませぬ」という報告であった
兵数が足りず、今度の日本軍の残虐性が前回の比ではないとの噂が広がっていたから恐れて逃げ出したのだった。
確かに、小西行長の攻撃性は文禄のときとは全く違う、情け容赦ない攻撃で焼き尽くし、殺しつくすように家臣に命じている
これは秀吉に殺されそうになったトラウマであろう、秀吉が甥の秀次さえも一族皆殺しにした恐怖は、小西のような戦大名さえ恐れたのである
敵を皆殺しにすることが、秀吉の歓喜ではないかと思ったのではないだろうか
ともあれ全州は戦わずして日本軍に落ちた、続けて入城してきた東軍もここで合流して、次の作戦を秀吉直属の使者が、攻撃軍を手分けして公州、天安、清州、忠州まで進出して黄海側の忠清南道を制圧することを命じた
毛利、黒田隊35000は破竹の勢いで、公州(クンジュ)、天安(チョンアン)を占領した。
この勢いに怖気づいた明国の将軍たちは漢城、水原(スウォン)まで下がって兵を集中させたが、日本軍も安城(アンソン)まで進出してにらみ合いとなり、ここが軍事境界線となった
安城から水原まで40km、水原から漢城まで30kmだから、朝鮮にしてみれば喉元に匕首をつけられたような状況だ
ここを破られれば、漢城は再び地獄の都となるだろう。
水原は約200年後に「イ・サン」で有名になった「正祖」が別邸として広大な城「華城(ファソン)」を建設する町である。
安城、水原の中間のチタサン、竹山(チュクサン)で戦闘が行われたが、戦力は互角で勝敗がつかなかった。
一方、朝鮮水軍の総督、元均元帥が戦死して大敗した朝鮮水軍は指揮官を失って意気消沈していた。 そこで再び李舜臣将軍の復権の声が上がった
「あいつだけは絶対許さぬ」と言う西人派官僚を、光海君が叱り飛ばした
「国難の時に、西も東もない、今は日本軍を朝鮮から追い払うためには皆一体となって立ち向かうしかないのだ、敵を利するようなものは国賊として、成敗する」と脅したので、ついに李舜臣は牢から解放され、再び朝鮮水軍総督となって復帰した、しかし元均の敗北で、多くの軍船が失われていた
それでも李元帥は、9月半ばわずかに残った数十隻の軍船を率いて、朝鮮西岸を狙う日本の水軍を迎え撃った、その数は大船は僅か10隻そこそこで、全部でも50隻に満たない貧弱な水軍であった。
一方瀬戸内毛利来島水軍を率いたのは、黒田長政と藤堂高虎、脇坂、来島であった、その数は150隻に迫る大軍勢である
早くも日本の大船団を見た、朝鮮の水夫は怖気づき船足を止めた
日本軍は「見よ! 先の戦で沈めた生き残りがやって来たぞ、これもみな沈めて全滅させようぞ」と意気込む
そして珍島と本土の岬の狭い鳴梁海峡に、縦列になった日本軍船が滑り込んでいった、朝鮮水軍は海峡の西で凍り付いたように動かない
だが、ただ一艘だけ海峡に突入してきた、そして先頭の日本船に大砲を撃ち込んだ、船首下に被弾して大穴が空いた、また一発、それは甲板を突き抜けた
そして指揮をしていた大将の一人、来島通総を破片が突き抜けて即死した
早くも緒戦で日本の指揮官の一人が戦死、船も浸水して傾いた
後続の船も潮の流れに巻き込まれて操縦がままならず、臨船と衝突した。
この朝鮮の船の中でただ一隻戦っていたのは、李元帥の旗艦であった
これを見た、朝鮮の各船は一気に勇気百倍となって動き出した。
他の大船も大砲を放ち、小舟は潮の流れをうまく使って、複雑な岩場を潜り抜けて日本船に近づいては弓を放つ、乗り込んで切り合いになる
日本の船は慣れない狭い海峡にひしめき合って、運航ままならず衝突して大破したり、座礁したりするものが増えてきた。
それでも勇敢に敵艦に飛び移り、白兵戦となると圧倒的に日本軍が有利であった、しかし全体を見ると日本が不利で、監察士官までもが海に落ちて危うく戦死しそうになったりと不利であった。
「これではままならぬ、退却じゃ」ついに黒田長政の命令で日本艦隊は戦場を離れた、朝鮮が有利であったが大海に出てしまえば小細工も効かず、数に勝る日本軍が有利になる
朝鮮軍は追撃をあきらめて軍港に戻った、日本艦隊も釜山に近い、熊川まで引き上げて体制を立て直すことにした。
損害は日本軍の方が多かったが、朝鮮水軍はもともと数的に少なかったので、次回に戦える船は僅か30艘ほどまで減っていた
一方、黒田らの艦隊だけでもまだ100艘ほどあるし、釜山周辺の九鬼ら本隊は200艘も無傷で待機している。
後日、日本軍はあらためて南海を西に進んで行ったが、もはや李舜臣の艦隊は南海から、西海岸に移動してそこで防御線を張っているだけであった。
結局、南海の制海権は日本軍が奪ったが、明国の水軍が南下してきたという西海岸には進出できなかった。
李舜臣将軍
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