それから半月ほどで慶長2年(1597)になった
続々と諸将は釜山周辺の城に、それぞれ向かった
加藤清正は西生浦城に入ったが、秀吉からは「戦を急いではならぬ、戦の前に明との交渉を続けよ、朝鮮の王子を約束通り日本に送り、朝鮮が従属するならばそれ以上を求めるものではない、そのように交渉せよ」と命じた。
秀吉は未だ、明国との交渉をあきらめていなかった、ようやくここに来て、朝鮮での戦争よりも、秀頼を次期関白としての足固めをしようと考え出したのだ
が、朝鮮出兵をしなければ明や朝鮮に足元を見られて、場合によっては今度は対馬を占領されて、九州に攻め込まれる恐れさえ出てくる
ここは名誉ある撤退をしなければならなかった、「おまえたちが秀吉に従ったから兵を引いてやる」という形で終わりたかった、そのためにも朝鮮王子が日本へ人質として来る必要が不可欠だったのだ。
実のところ、明国も日本が撤退すれば自分たちも撤退する気であった、戦争をするにも金もかかるし犠牲者もでる、朝鮮に義理を張って金も兵も失い、得る者が何もないのだから、やめたいのは本音であったろう
だが朝鮮は、そうはいかない、「王子を人質に渡して従属せよなど認めるわけにはいかぬ」王家も軍人もみなそう思っている
明国にしても、朝鮮が明を離れて日本に従属されては困るから、朝鮮を応援するしかない。
秀吉は朝鮮の考えが改まらないことに業を煮やして、本格的な攻撃再開を開始する。
2月には陣立てを発表した、総大将は小早川秀俊(秀秋)で、従う大将たちは
加藤清正、小西行長、黒田長政、鍋島直茂、島津義弘、長曾我部元親、蜂須賀家政、脇坂安治、毛利秀元、宇喜多秀家、大田一吉など36将、総勢15万である、文禄の役とほぼ同じで、九州、四国、中国の大名で編成されている。
既に加藤清正と小西行長、宗、松浦、大村など肥前、肥後の部隊15000が渡海して守備しているが、他の諸将は追々出撃して、5月にはあらかた渡海するよう命じられた。
一方、日本の動きを察した朝鮮も、すぐに明国に救援の使者を送った
同時に文禄の役で活躍した権慄は元帥に昇進して、漢城および京畿道一帯、朝鮮王直属の総司令官として権威を得た。
そしてまずは日本軍の水軍を前回同様に妨害するために、実績ある李舜臣(イ・スンジン)将軍に出撃を命じた、ところがまたしても東人派と西人派の争いが勃発して、西人派が権力を持つと、東人派の元左議政、柳成龍(ユ・ソンニョン)が失脚した、李は柳の推薦で将軍となった人物だったので、連座して突然投獄された。
水軍の総司令官は、文禄の役で尉山の水軍基地を放棄して真っ先に逃げた、元均(ウオン・ギュン)将軍が指名された。
日本軍が渡海する前に、加藤と小西が外交ルートでぎりぎりまで交渉するように、秀吉に命じられている
だが交渉内容は同じであったが、最初から朝鮮攻撃のスタンスが異なる二人は、交渉のスタンスも違っていた。
加藤は交渉決裂なら、武力で朝鮮を奪うという文禄の役の繰り返しを前提として、強く出る交渉をした
一方、小西はできる限り互いに妥協して、平和裏に解決したいというスタンスだった、このような消極的な小西を加藤は軽蔑して「これでは、話はまとまっても、朝鮮や明は実行などいたしませぬ」と、大坂の秀吉に書き送っている
秀吉も、小西に対し、「皇子の来日と、南四道の引き渡しだけという妥協をしているのだから、それは絶対譲ってはならぬ」と書き送った。
この時、加藤清正と惟政との会談で、互いのトップの言い分が正反対であることがわかった
偽書状事件では日本では既に小西は許されて、朝鮮戦線に送られたが、明の方では直ちに沈は捕えられて北京に護送された、怒った万歴帝は最も残酷な八つ裂き刑を命じて、沈を処刑した。
日本では徳川家康らが必死で小西の助命をしたが、明では誰一人として沈をかばう者は居なかったという。
結局、交渉は6月までかかったが物別れに終わった、交渉が長引いたので名護屋に集結していた軍団が朝鮮に上陸したのは7月から8月になった。
そして8月、日本軍は東軍と西軍の二方面作戦で、北上を始めた。
明軍もこれに呼応して、大軍で南下を始めた。
海上では7月半ば巨済島を中心に、藤堂高虎らの瀬戸内水軍が、元均の朝鮮水軍と激突して、元均将軍が戦死するなど、一方的に日本水軍が勝利して制海権を握ったので、兵員や物資の輸送も容易になった。
朝鮮は水軍の名将、李舜臣将軍を、政治の対立で投獄したことが敗因となった。
今度も先鋒隊は肥後の国を二分している、小西と加藤に任せられた
どちらも文禄の戦では、命がけで奉公したにもかかわらず、秀吉に叱責されている。 小西などは磔刑にされそうになったくらいである。
「見ていろ!」という気持ちは当然ながら二人共持っている、そしてこの二人はいつもいがみ合っているから、この度の先陣争いも熱が入っている。
それぞれは侵入経路が異なるが、最初に目指すのは全羅道の要衝、南原(ナmウォン)であった。
秀吉はこの度の軍は総大将を小早川隆景の代理、小早川秀俊(秀秋)として、釜山に置き、東軍の軍団長は3万の大軍を率いる、毛利秀元が務める、これは毛利輝元の代理である。
西軍の軍団長は、備前勢1万を率いる宇喜多秀家が命じられた。 加藤は家臣1万を率いて毛利に、小西は家臣7千を率いて宇喜多に属して、それぞれの先駆けとなっている。
日本軍の攻撃目標が全羅道であることが明らかになると、揚元将軍率いる明軍5千が朝鮮守備隊を支援して南原城に籠って、日本軍を待ち受けた。
日本軍は小西を先陣に南原城の東西南北すべてを包囲して、蟻の出る穴さえないようにした。
城内には兵士だけでなく、南原の朝鮮人市民も千ほどが籠っている。
日本軍は数万で取り囲んでいるので、城内に向けて降参することを勧めたが、楊元はこれを拒んで、徹底抗戦する決意であった。
三日後の早朝から、日本軍は城内に向けて、大砲、鉄砲、弓矢を射かけてから、四方の城門めがけて堀を渡り突入を企てた。
城方も必死に城壁から石を落し、鉄砲、弓矢で応戦する
しかし、ついに城門の一つが破られ、そこから数百、千の日本軍がなだれ込んだ、中には広場があり、さらにその奥に本丸ともいうべき城塞がまたしても待ち受けていた、だが広場で迎え撃った、明、朝の兵はたちまち討ち取られ、本丸の門も圧倒的な日本軍によって破られ、明や朝鮮の将軍は日本軍の中に血路を開くしかなかった。
楊元将軍は、部下に幾重にも囲まれて馬で城外を目指した、たちまち槍で突かれて外側の兵から倒されていった、何とか城外へ出た楊元は運よく逃げおおせることが出来た、しかし朝鮮の司令官や武将はことごとく討ちとられた。
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