いやぁ。残暑が厳しい。
やっと週末。
備中国分寺は、この辺では、唯一の大きなお寺。
吉備は、大和朝廷が力をつけてからは、衰退したので、神社が中心の地域だ。
一旦恥となったが、江戸時代に再興された。
境内は、すっきりしているが、風格を感じさせる。
正面にある仏塔群。
これらの建物も、江戸時代のもの。
五重塔は、立派。
近くに高い建物がなく、ひっそり佇んでいる感。
ユニークなのは、一層目に、十二支が刻まれていること。
なかなかしっかりした彫り物である。
ひまわり畑越しに臨んだ備中国分寺。ちょっと出来過ぎだが、すばらしい眺めである。
やはり説明板があったので、載せておきたい。
『国分寺は国分尼寺とともに鎮護国家を祈るため、天平13年(741)に、聖武天皇の勅願によって建てられた官寺です。
備中国分寺の寺域は東西約160メートル、南北180メートルで、周囲には幅1.2~1.3メートルの築地土塀がめぐらされており、寺域内には、南門、中門、金堂、講堂、塔などの伽藍が、配置されていました。
昭和46年に岡山県教育委員会が実施した発掘調査によって、南門跡、中門跡、建物跡、築地土塀などが確認されていますが、金堂跡や講堂跡は現在も寺の境内地のうちに含まれており、その一や規模などは明らかではありません。
備中国分寺は、中世には廃寺となり、その後、江戸時代中期に至って日照山国分寺として再興されました。現存する伽藍はすべて再興後に建てられたものです。』
やっと週末。
備中国分寺は、この辺では、唯一の大きなお寺。
吉備は、大和朝廷が力をつけてからは、衰退したので、神社が中心の地域だ。
一旦恥となったが、江戸時代に再興された。
境内は、すっきりしているが、風格を感じさせる。
正面にある仏塔群。
これらの建物も、江戸時代のもの。
五重塔は、立派。
近くに高い建物がなく、ひっそり佇んでいる感。
ユニークなのは、一層目に、十二支が刻まれていること。
なかなかしっかりした彫り物である。
ひまわり畑越しに臨んだ備中国分寺。ちょっと出来過ぎだが、すばらしい眺めである。
やはり説明板があったので、載せておきたい。
『国分寺は国分尼寺とともに鎮護国家を祈るため、天平13年(741)に、聖武天皇の勅願によって建てられた官寺です。
備中国分寺の寺域は東西約160メートル、南北180メートルで、周囲には幅1.2~1.3メートルの築地土塀がめぐらされており、寺域内には、南門、中門、金堂、講堂、塔などの伽藍が、配置されていました。
昭和46年に岡山県教育委員会が実施した発掘調査によって、南門跡、中門跡、建物跡、築地土塀などが確認されていますが、金堂跡や講堂跡は現在も寺の境内地のうちに含まれており、その一や規模などは明らかではありません。
備中国分寺は、中世には廃寺となり、その後、江戸時代中期に至って日照山国分寺として再興されました。現存する伽藍はすべて再興後に建てられたものです。』