かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

吉備路その12 備中国分尼寺

2014年08月28日 | Other Western Japan


さらに先に行くと、備中国分尼寺がある。
その途中にも、いろいろ見所が。
この溜池らしき池の脇にある井戸は、由緒あるものらしい。
説明板には、以下の説明がある。

『むすびあぐる 松井の水は そこ清み
うつるは君が 千代のかげかも
        藤原茂明

常磐なる 松井の水を むすぶ手の
雫ごとにぞ 千代は見えける
        藤原資実

この二首の和歌は久寿2年(1155)の後白河天皇及び建久9年(1198)の土御門天皇の即位に当って行われた大嘗会(だいじょうえ)のときに詠まれたものです。
これらの和歌に詠まれた松井の井戸であると伝えられており、長良の”菊の下水(したみず)”と”上林(かんばやし)の臼井(うすい)”とともに、総社市の三名水といわれています。』

平安時代、後期の歌である。



その先に、吉備路郷土館があり、その前に、古民家が再生された公園がある。



これは、山手村役場。幕末から、明治初期の建物という。



こちらは、民家。



しっかりと整備されている。



そして、その先に、備中国分尼寺跡がある。
ここは、築地土塀跡。



階段の先に、中門跡がある。



その先の金堂跡には、礎石がしっかり残っていて、立派な建物があったことがわかる。
大和朝廷にとって、8世紀になっても、この地域が重要であったことがうかがわれる。
説明板には以下のようにある。

『奈良時代に聖武天皇の発願により造営された備中国の尼寺跡です。
寺域は、東西108メートル、西北216メートルを計り、築地土塀で囲まれた境内には、南から北へ、南門、中門、金堂、講堂などの建物が一直線上におかれた伽藍配置をもっていました。それらの建物は南北朝時代の戦火で焼失したと伝えられていますがこの尼寺跡に創建時の金堂の礎石をはじめ、南門、中門、講堂、築地土塀などの遺構が現在も比較的良好な状態で保存されています。』

国分寺と、国分尼寺のほどよい距離感がいい。



飛鳥を思わせるのどかな風景だ。
コメント
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