今日は、3連休の最終日。
行きたいと思っていた、金沢文庫での”東アジア 仏教への扉”展へ行った。
今月いっぱいの予定で、始まった特別展だったが、コロナの影響で、今日が最終日になった。
(新)金沢文庫ができて90周年)記念展だけあって、気合のはいった展示で、行ってよかった。
金沢文庫は、鎌倉時代に作られた日本最古の図書館だが、鎌倉幕府が倒れると、その所蔵本は散逸した。
しかし、隣の称名寺にもかなりの書物が残され、研究が進むにつれ、その重要性が認識され、ほとんどが国宝に指定されるに至った。
今回の展示は、その所蔵品の目玉を展示したもので、鎌倉時代のものが、これだけまとまって所蔵されるところはないのではないかと思わせた。
特に仏典類は、所蔵品の痛み具合に差があるものの、今は、失われてしまったものも多く含まれ、AIを利用した、中国との共同研究も検討されているようだ。
昭和に入って、その所蔵品の分析が断続的に行われたが、その量は膨大であり、完品も少ないことから、そのたびに頓挫した歴史があるようだ。
それにしても、当時の仏教研究に対する熱意は、どこから来ていたのだろうか。
探究心か、実利からか。
日蓮直筆の書なども発見されており、研究が進めば、新らな発見がある可能性も高い。
運慶の最晩年の仏像が見つかったもの称名寺だ。
称名寺自体は、池も凍るほどの寒さで、訪れる人も少なかった。
この光景が再現されたのも30数年前。
復原途上の金沢文庫と称名寺。
その後、横須賀方面に足を延ばして、走水神社に行った。
古事記に出てくる地で、最寄の地がここだが、まだ行けていなかった。
京急馬堀海岸からバスになるが、15分に1本ぐらい出ており、意外とすんなり行けた。
駐車場もあるようだった。
日本武尊が、東を征伐する際、ここから上総に渡ったと伝えられる。
日本武尊が、自分の冠を村人に与え、村人がその冠を埋めたところに、この神社を建てたそうで。
上総に渡る途中、暴風が吹き、同行してきた、弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)が身を投げることにより、水の上を走るように、上総国に渡ることができたことから、走水神社の名があるという。
東国をあずまと呼ぶのは、泣き妻を思いあぁ吾が妻よと嘆いたところからきている。
実話かどうかはわからないのだが、1300年前に書かれた本に、この地が記載されていることだけでもすごい。
神社から見下ろした海。
房総半島まではそう遠くない。
金沢八景まで戻って、次に参拝したのが、瀬戸神社。
これは、NHKの旅歩き番組で知り、行きたかった神社。
駅から、すぐなので、便利。
ここは、かつて海岸線だったところで、潮の干満により、海水が出入りする瀬戸だったからこの名が付いたという。
瀬戸を、古代人は、穢れを流し去ってくれる神聖な場所としてとらえていたらしい。
源頼朝は、三島明神の分霊をここに祀り篤く信仰したという。
正月だからか、関連の展示があり、鎌倉時代から続く、由緒ある神社であることがわかった。
その後も港町として栄えたことから、金沢北条氏、足利氏なども篤く信仰した。
拝殿。
ここも、かつての海に面した位置にある。
琵琶島神社。
瀬戸神社の向かいにある。
今は陸続きになっているが、かつては、海中にあった。
社は小さく、お賽銭箱もない。
瀬戸神社とセットで参拝するようで、御朱印も、瀬戸神社でいただける。
頼朝の妻である北条政子が、琵琶湖の註カ島の弁財天を勧請して、築いたと伝えられるが、結構信ぴょう性は、高いかもしれない。
琵琶島の名は、島の形が、琵琶に似ていることから。
広重の金沢八景の浮世絵にもその姿が残されている。
最後、京急富岡に戻って、富岡八幡へ。
ここも、駅名になっていることから、昔から行きたいと思っていた。
場所的には、中途半端で、京急富岡と、シーサイドラインの並木北の中間ぐらい。
結局、前者から行って、後者から帰ったのだが。
地元密着型の神社。
富岡八幡は、元は、頼朝公が西宮の恵比寿様をお祀りしたのが始まりで、その後、八幡様に変わったという。
もっと有名な富岡八幡は、この富岡八幡からの分霊という。
由緒ある神社。
近隣は、公園になっていて、その景色は金沢八景の時代を彷彿とさせる。
この地域は、ウォーキングルートになっていて、ここはお勧めできる。
鎌倉時代の海岸線のイメージがつかめるか。
金沢八景の浮世絵。
今は、工業地帯や、観光地になっていて、その痕跡を探すのは、難しいが、残る島々からかろうじて、その雰囲気を感じることはできる。
もっと細かく比較検討してみたいが。
古事記から始まって、鎌倉時代の濃密な歴史が感じられる金沢エリアを満喫。