また、寒くなった。
コロナも相変わらずだし。
それから、フィルスペクターが亡くなった。
収監中だったから、それで何も変わりはしないのだが。
60年代から70年代初頭にかけてのポップスを引っ張った人だが、途中からおかしくなった。
彼のいい時と、悪い時の両方見ているジョンのインタビューを読むと、雰囲気がよくわかる。
薬の影響が大きいと思うが、まさか殺人で、収監されるとまでは想像していなかったかもしれない。
ご冥福をお祈りする。
岩波書店の古代史をひらくシリーズも、早くも第5巻。
毎回、最新情報満載で、楽しませてくれるが、本書も、知らないことが満載だった。
漢字は、弥生時代、古墳時代の刀、鏡等に見られるが、当時は、言葉として理解されていなかったか、理解されていても、読める人は、ほとんどいなかったと解される。
文字が、コミュニケーションの手段として使われるようになったのは、7~8世紀と考えるのが、妥当だという。
言われてみれば、そうだ。
その使われ方が、わかってきたのが、木簡情報の急増だ。
オフィシャルな書に使われている文字は、脚色が入るが、木簡は、生の情報だから、実態により近づくことができる。
漢字が、表意文字として使われたのが先か、表音文字として使われたのが先かというのも、結構ややこしい問題らしい。
かつ、表音文字としての使われ方は、韓国での漢字の使われ方との関連がわかってきたという。
韓国は、その後、ハングル文字になったのだが、よかったのか悪かったのか。
万葉仮名の五十音表を初めて見たが、一つの音を表すのに、複数の漢字が使われていたことがわかっており、その使われ方を分析すると、今は同じ発音だが、かつては、違う発音であったのではないかと疑われるケースが出てくる。
ところが、書によって、使い方に癖があり、必ずしも、発音の違いで、使い分けできていたかというと、疑問も残る。
世界の文字の起源は、4つにまとめられるそうで、漢字は、その内の一つ。
それが、日本に、様々な経路と人を通して伝わったわけだが、今も綿々と使われ続けている不思議。
そして、1000年以上、どう使われていたかの資料も、日本には、比較的多く残り、木簡等、その資料は増え続けている。
文字と言葉というと、地味な印象を受けるが、古代に関する学問ととらえると、実は、とても深い世界が広がってていることが、わかった。
いよいよ残るは、1冊。
楽しみだ。