今日は、五木寛之さんの講演会に行って来た。
お題は、再・学問のすすめ。
五木さんの話は、2回目。
当たり前だけど、おもしろいし、ためになる。
今日の話の結論は、人生100年時代、50歳ぐらいで、一旦仕事を離れて、授業を受けるタイプの学問をしてはいかかという話だった。
学問のすすめというと、福沢諭吉の学問のすすめを思い出すが(360万部の大ベストセラーで、斎藤孝さんが、新訳本も出した)、実利を求める学問のイメージで、五木さんの言う学問は、人生をゆたかにするタイプの学問で、ややニュアンスが違う。
もちろん、どちらの学問も、有益なのだが。
話は、五木さんの父親が、とんでもない田舎の出身で、小倉の規範学校しか出られず、社会に出てから、苦労した話から始まる。
そのハンデを乗り越えるため外地へ行き、そして、検定試験を猛勉強の上パスし、より高いレベルの学校での教員になれたと思ったら、敗戦。
平壌で、敗戦を迎え、軍人や、役人が、庶民を置き去りにする中、ソ連が侵攻。
荒くれ者の集団のような軍で、乱暴の限りを尽くす中、収容所では、発疹チフスで、多くの人が命を落とし、母親も、亡くなる。
すべてを失った父親と、弟たちと逃げ出し、帰国するが、苦労は、続いた。
ようやく、生活できるようになった時、荒くれ者のロシア兵が、自然に合唱出来る謎を知りたくて、ロシア文化学部のある早稲田に入学。
しかし、学費が払えず、中退しようと思ったら、滞納がある間は、中退できす、抹籍となる。
その後、作家として、成功し、学費滞納分を払うことにより、中退証明書をもらい、正式に中退と言えるようになった。
ところが、共に歩んで来た弟が亡くなり休筆し、京都に住居を移したところ、龍谷大学の存在を知り、聴講生として、在学し、そこで、学ぶ。さらに、そこで、作家仲間(とんでもない豪華メンバーなのだが)の雑談をする会に出るようになり、世界が広がり、生まれ変わったように、新たな作家活動に入った。
私と同じように、大和を巡ったり、古墳巡りもしたそうだ。
寺内町の話も面白かった。
浄土真宗のお寺を中心に町が形成されることを言うが、石山本願寺は、その際たるものという。
村上海賊の娘にも出て来たが、結局信長も勝てず、和解。
その後、和歌山に移ったものの、石山本願寺跡に、大阪の町が形成され、御堂筋に、薬屋や、商社や、繊維問屋など、花形の産業が、集まった。
その2度目の学ぶ期間がなかったら、今の五木さんはなかったと言う。
本を読むことも重要だが、人から人へ伝える学問には、敵わない。
肉声が大切。
若い頃に学ぶ学問と、50歳に学ぶ学問とは、全く味わいが違うともいう。
確かに私もよく講演会に行くが、学生時代の授業とは、全く感覚が違う。
2度目の授業は、感動的。
学問とは、物を知る喜びだとも。
私の履歴書を執筆中だが、なかなか書けず、どんどん(数年!) 遅れているそうだ。
自慢話は嫌だし、かと言って、懺悔録では、朝刊に掲載するのも憚られるのが理由。
五木さんらしいが、波乱万丈の人生を歩んで来られた五木さんの履歴書も、早く読ませていただきたいものだ。
2年間、収入なしで、学問に集中することは、できないが、時間があれば、学びに当てているつもりではある。