森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

暑いしダルイしツマラナイ、そして寂しい 《その5》

2020-08-20 22:28:25 | 梢は歌う(日記)
 
横浜ヒミツキチ オブ スクラップ で謎解き ♪

 港の見える丘公園と大佛次郎記念館 食っちゃ寝8月14日の日記。 この日の私は、まさに「食っちゃ寝」。 前日の13日は渋谷にて「プレイヤー」を観てきて、夜は夜で11......
 

 

上の囲みは昨年の17日に投稿したものです。

お盆休みの息子おっさんズたちとのお出掛け日記。実家の近所をぶらり程度のささやかなミニイベントでも楽しい想い出です。

そんなものを読み直していたら、何にもない「特別な夏」の今年、ドーンと落ち込んだ気持ちになり、その気持ちが少し軽くなればと思ってお気楽なお喋りを続けてきましたが、今の私はその寂しさの沼から抜け出しています。

このようにお喋りを続けてきたからと言うのもあり、またお盆休みが終わって夫たちが仕事に行き出すと、「特別な夏」感は未だに感じつつも日常が戻ってきたからかも知れません。

そしてまた、18日の火曜日は仕事帰りに星子さんの家に寄り、2時間近くおしゃべりをしリアルに楽しい時間を持ったからだと思います。

 

それでもこの「暑いしダルイしツマラナイ、そして寂しい」は、2020年のお盆休みの頃の日記なので、後ワン記事書かせていただきたいと思います。

 

9. 「終戦記念日とは戦いを終えた日なんだ。」

15日が「終戦記念日」だったことはもちろん忘れたわけではありませんでしたが、何も考えたくないなと思っていました。

ヤル気がないということは、そう言う事なんですよね。気持ちと言ってもハートと言うのは胸にあるわけではなく、実は脳の思考によるもの。芋づる式にやられます。

だけど夜になると大事な記念日をスルーすることは、自分では許せないような気持ちになって来たのです。

どんな時でも手放してはいけない、自信の思考の基盤と言うものがあると思うからです。

それでやはり自分の過去記事を読んでみました。

2016年8月16日に投稿した「ささやかな願い」

その記事でツリーになっている2015年8月15日に投稿した「家族の歴史を語り合おう」

なんだかしみじみとしました。

そうだ、やっぱり忘れてはいけないんだと強く思ったのでした。しっかりしなくちゃとも思いました。

 

そして2013年8月19日に投稿した自分の考えを思っているまま書いた「終戦記念日の日に思ったこと」。

その記事の中に

>その「終戦記念日」という文字を見て、しみじみ思った事。

戦いを終えた日の記念日なのだということ。

とありました。

 

リンクした記事は、もしお時間などがありましたらコメント欄も含めてお読みくだされば幸せに思います。

 

日本は原爆の被害に遭った唯一の国であり、その悲惨さを世界に発信し伝えていくのは民族の使命であると私は思います。言い換えればそれが出来る唯一の独立国家であり民族ではないのですか。それをどこかの国の顔色を窺って出来ないようではダメだと思います。強い意思を持って言うべきことを語っていきたいと思ったのでした。

 

10. 思わずはらはらと泣きました。

自分のブログの過去の記事を読むことは、意外と楽しい事なのです。楽しい想い出が蘇ってきたり、またしみじみとしたり考えさせられたりするので時々実践しています。

そう言えばこのブログを始めた頃の8月は何をしていたのだろうかと思い、読み直してみました。

ブログを長くやっていると歳がばれると言う弊害もあるわけですが、もうバレバレだと思うので、そこは「まっ、良いか」と言う事にしてください。

2006年の私はまだ40代。自分の気持ちの中ではそれなりのグラフが見えていて、心のうちではそれなりの不安や様々な模索をしていた頃だと思います。ただ傍から見れば仕事は一番のピークで、本当に朝から深夜まで働いていました。(と言っても、ちゃっかしお友達とのランチなどは行っていましたが。)今は単純に体力の問題で同じ事は出来ませんが、まだその頃は、仕事が好きだったと言うこともあって、休みなしなど全く気にならない事だったのです。

月に一日ぐらいしかオヤスミが無くても(もちろん主婦業は別)、夫殿にも「休みなしアピール」などした事はありませんでした。

だけど疲れていなかったかと言うとそうではありませんでした。

2006年8月13日に投稿した「なんとなく独り言」

その頃楽しんでいたマウス絵なども添付しているし、分かり辛い文章の愚痴なども載せてあったので、最初のところだけセルフコピーさせていただきます。

>世間では帰省ラッシュが始まったみたいだ。今日まだ眠りの中に居た私を今日という現実の中に引きずり出したのは、母からの電話だった。

「何時来るの。」

この季節、当然の質問だ。のらりくらりとかわしている私。どこにも行きたくない。

「なにやら、やりたいことも溜まっているし。・・・気が向いたら行くかも」なんて迷惑な事を言っている私。

傍で電話を聞いていたパパさんは、私が張り切って溜まっていた仕事や掃除をやるとでも思っただろうか。

今日はお休み。やりませんよ、なーんにも。仕事を持っている主婦の休みって、持っている仕事の代わりに家事という仕事をやる日って、世の中のだんな連中は思っていない?

まあ、そんな事をぶつぶつ言い出すときりもないのでやめるけれど、そういえば、今日買い物行ったのも、お昼のそうめん茹でたのもパパさんだから、夜ご飯を作るのは私でも仕方がないか。

 

2006年の40代、お仕事に頑張っていた私にとっては普通の日記です。

だけど既にそれから14年も経って、私はこの文章を読んで、胸が痛くなりました。

きっと実家では、まだ元気だった父が母に

「ところで花子たちはいつ来るんだい。」と聞いたりして、そして母は

「何も言ってこないのよ。電話してみようか。」

「早く電話してみなよ。」と父に促され、母は

「いつ来るの。」と電話してきたと思うのです。

それなのに私は、実家に帰るのも面倒に感じて「行けたら行くね。」などと答えていたのでした。

その時だって、父と母の会話は容易に想像できていたのです。

ただその先の未来を、私は考えもしませんでした。

花子はいつ来るのだろうと思った父はもう居なくて、14年前には母はまだ70代の前半。今みたいに頓珍漢な会話などすることもなく、いつだっておしゃべりすることは楽しかったのでした。

きっと電話を切って母は父に

「来ないんだって。」と言い、二人で「なーんだ。」と言った事でしょう。

 

もちろんこれが最後の夏であったわけでもなく、ある時から意識して毎月、実家には帰るようになった私でしたが、それでも心はタイムマシンに乗ってしまったかのように14年前の夏に引き戻されて、がっかりさせた父と母に、思わず泣きながら「ゴメンね、おかあさん。」と謝ったのでした。

 

 

以下の画像は、夜にも元気に咲いているひまわりです。

 

 


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