「中央区を、子育て日本一の区へ」こども元気クリニック・病児保育室  小児科医 小坂和輝のblog

感染を制御しつつ、子ども達の学び・育ちの環境づくりをして行きましょう!病児保育も鋭意実施中。子ども達に健康への気づきを。

第1回新しい築地をつくる会

2010-04-14 15:19:22 | 築地を守る、築地市場現在地再整備

 標記会合が、本日4/14開催されます。
 取り急ぎ、ご連絡いたします。

 築地市場移転問題に関する中央区の最重要の会になるはずです。

 詳細は、中央区ホームページへ。http://www.city.chuo.lg.jp/kusei/kuseizyoho/atarasiitukizi/index.html
(注、このアドレスは、平成22年4月16日現在、閉鎖)

 ご案内を見てわかることですが、申込期間が、平成22年4月12日(月)から平成22年4月13日(火)までと書かれています。
 今後は、十分な区民への開催周知をされることを希望いたします。


****以下、ご案内(中央区のホームページより)****

名   称 第1回新しい築地をつくる会
日   時 平成22年4月14日(水) 午後4時30分~
場   所 中央区役所 本庁舎10階 第1委員会室

予定議題
 主な議題
  ①築地市場移転問題の経緯について
  ②東京都の豊洲新市場予定地における土壌汚染対策について  など

傍聴について
 当日の会議は、公開で行いますので、傍聴することができます。
 次の点にご留意ください。
  【報道関係以外の方】
   ① 定員
      10名程度(希望者多数の場合は、当日抽せんにより決定します。)
   ② 集合時間・集合場所
      当日、午後4時までに区役所本庁舎8階第1会議室にお集まりください。
      (抽せんは、午後4時の時点でお集まりいただいている方を対象に行います。)
  【報道関係の方】
   ① 申込期間
      平成22年4月12日(月)から平成22年4月13日(火)まで
      (受付時間は、それぞれ午前9時から午後5時まで)
   ② 申込方法
      下記「問い合わせ先」へお電話でお申込みください。

問い合わせ先 企画部企画財政課企画主査  電話:03-3546-5212(直通)

以上

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追悼 故井上ひさし氏

2010-04-14 09:30:49 | 戦争と平和
 4/13の朝刊コラム欄は、井上ひさし氏一色でした。
 とくに、朝日新聞では、社説まで、井上氏に関連したものでした。

 井上氏は、かつて言いました。「むずかしいことを やさしく やさしいことを ふかく ふかいことを ゆかいに ゆかいなことを まじめに」
 自分自身も言葉を日々用いているが故に、井上氏の言わんとしたことに少しでも近づけるように努力したいと思います。

****各紙コラムなどより****

<朝日新聞 天声人語2010年4月13日(火)付>

 その執筆の遅さはつとに知られ、自ら「遅筆堂」を名乗っていた。劇作家の井上ひさしさんである。台本なしには芝居は稽古(けいこ)も始まらない。演出家の栗山民也さんはあるとき、焦る思いで、カンヅメ状態で執筆中の旅館を訪ねたそうだ▼ふすまの隙間(すきま)から井上さんが見えた。裸電球の卓上ランプをともして原稿用紙を積み上げ、机に15センチほどまで顔を近づけて、必死のさまで一字一字を刻んでいた。言葉が生まれる血のにじむような光景に、「私は涙がこぼれそうになりました」と回想している(『演出家の仕事』岩波新書)▼戯曲に小説に評論に、幅広い仕事を残して井上さんが亡くなった。言葉の持つ力をとことん信じた人だった。戯曲を一つ仕上げると体の肉がげっそり落ちたという。平易な一語一語に最大の力を宿らせるための、命を削るような闘いだったのだろう▼4年前にお会いしたのは、庶民の戦争責任を問う「夢の痂(かさぶた)」を上演したあとだった。戦犯を悪者にして知らぬ顔を決め込んだ日本人の戦後を、滑稽(こっけい)味をまじえて問う劇である▼脚本を書くうち、日本語を問題にすることになったと話していた。「日本語は主語を隠し、責任を曖昧(あいまい)にするのに都合が良い。その曖昧に紛れて多くの人が戦争責任から遁走(とんそう)した」と。日本語を様々な角度から見つめてやまない人だった▼「むずかしいことをやさしく」と言い、さらに「やさしいことをふかく」と踏み込む。故人が求めた極意に、われ至らざるの思いばかり募る。遥(はる)かなその背中を、もうしばし追わせてほしかった。

<朝日新聞社説 2010年4月13日>
 井上さん逝く―築いた言葉の宇宙に喝采 希代の喜劇作家。現代の戯作者(げさくしゃ)。博覧強記の知恵袋。時代の観察者。平和憲法のために行動する文化人。

 井上ひさしさんを言い表す言葉は、幾通りも思い浮かぶ。だが、多面的なその活動を貫いた背骨は一つ。自分の目で見て、自分の頭で考え、平易な言葉で世に問う姿勢だ。

 本や芝居は、深いテーマを持っているのにどれも読みやすく、わかりやすい。それは、ことの本質を掘り出して、丁寧に磨き、一番ふさわしい言葉と語り口を選んで、私たちに手渡していたからだ。

 そのために、できる限りたくさんの資料を集め、よく読み、考えた。途方もない労力をかけて、自分自身で世界や歴史の骨組みや仕組みを見極めようとしていた。

 この流儀は、井上さんの歩んだ道と無縁ではないだろう。

 生まれは1934年。左翼運動に加わっていた父を5歳で亡くし、敗戦を10歳で体験した。戦後の伸びやかな空気の中で少年時代を過ごすが、高校へは養護施設から通った。文筆修業の場は、懸賞金狙いの投稿と浅草のストリップ劇場。まだ新興メディアだったテレビ台本で仕事を始め、劇作家としては、デビュー当時はまだ傍流とされていた喜劇に賭けた。

 王道をゆくエリートではない。時代の波に揺られる民衆の中から生まれた作家だ。だからこそ、誤った大波がきた時、心ならずもそれに流されたり、その波に乗って間違いをしでかしたりしないためには、目と頭を鍛えなければならない、歴史に学ばなければならないと考え、それを説き、実践した。

 特に、あの戦争は何だったのかを、繰り返し、問い続けた。

 復員した青年を主人公に、BC級戦犯の問題を書いた「闇に咲く花」という芝居に、こんなせりふがある。

 「起こったことを忘れてはいけない。忘れたふりは、なおいけない」

 井上さんは2001年から06年にかけて、庶民の戦争責任を考える戯曲を3本、東京の新国立劇場に書き下ろした。名付けて「東京裁判3部作」。

 東京裁判を、井上さんは〈瑕(きず)のある宝石〉と呼び、裁判に提出された機密資料によって隠された歴史を知ることができたことを評価している。

 同劇場は、8日から、この3部作の連続公演を始めたところだ。その翌日、拍手に包まれて幕が下りた直後に、井上さんは旅立った。

 〈いつまでも過去を軽んじていると、やがて私たちは未来から軽んじられることになるだろう〉。公演に寄せた作者の言葉が、遺言になった。

 生涯かけて築いたのは、広大な言葉の宇宙。そこにきらめく星座は、人々を楽しませてくれる。そして、旅する時の目当てにもなる。

<毎日新聞余録2010/04/13>
 江戸の黄表紙にカチカチ山のパロディーがある。狸(たぬき)の遺児が江戸まで兎(うさぎ)を追って敵討ちをする話だ。ついに狸が兎の胴を真っ二つに切ると、上は黒い鳥、下が白い鳥になる。「兎を二つに切たる鳥なれば、黒きを鵜(う)、白きを鷺(さぎ)と名付けし」▲くだらないと怒ってはいけない。若き井上ひさしさんは図書館で読んだこのくだりに大笑いし「世界を抱きしめたくなる気分」になったのだ。東京の大学になじめず、ささいなことに恐怖を抱くようになっていた時だった▲「この時ぼくは笑うことを回路にして世界と共感し結合していた」「一つの語呂合わせで状況はくるっと引っくり返ってしまう。音の響きを蝶番(ちょうつがい)にすれば、状況は扉の向こうへも押せるし手前に引くことができる」。ほどなく井上さんは浅草でコント作りを始めた▲しゃれや語呂合わせ、方言を巧みに使い、言葉を現実の束縛から解き放った井上さんだ。自由になった言葉の戯れによってきらびやかな権威も、恐ろしげな権力もくるっと引っくり返った。その時の人々の笑いから新たな言葉の宇宙を組み上げた戯曲や小説の数々だ▲9年前、井上さんは朝日賞受賞のあいさつで米詩人の詩を引いて語った。「悩みごとや悲しみは最初からあるが、喜びはだれかが作らねばならないという詩です。この喜びのパン種である笑いを作り出すのが私の務めです」。この時、江戸の戯作者が書いた笑いと出合った若き日々が胸をよぎりはしなかったか▲人の心を自由にし、豊かにするたくさんの言葉の蝶番を残し井上さんは逝った。人生も世界も変える笑いから生まれた日本語のかけがえのない富だ。


<日経新聞春秋 2010/4/13付>
 人生の出口でもう一度観(み)てみたい……。映画好きは「ラストムービー」を考える。井上ひさしさんが挙げた一本に、黒澤明監督の「素晴らしき日曜日」があった。饅(まん)頭(じゅう)1個、コーヒー1杯が5円という敗戦直後、35円しかない若い男女のデートを描いた佳品だ。

▼絶望と希望が、あざなえる縄のごとく二人にからまる。ただし、絶望はいつもいつも具体的だ。ダフ屋が券を買い占めたため、10円足りずに「未完成交響曲」の音楽会に入れない。ダフ屋に食ってかかれば逆に殴り飛ばされる、というように。一方、希望ははかなく、つかみどころがない。

▼極めつきのシーンがある。文無しになった男が寒風吹きすさぶ無人の野外音楽堂に立ち、女ひとりを聴衆に透明人間の楽団を率いて「未完成」を指揮する――。見えなくても確かにある希望に、井上さんは「素晴らしき人生」を見た。思えば、言葉とユーモアを操って井上さんが説いたのも、弱き者の希望だった。

▼「日頃(ひごろ)からよく勉強し、よく考え、大事なときに、そういったものをすべて捨て去って自然体になる」。いい作品を生む秘訣を井上さんはこう語っていた。言うはやすし。それゆえの遅筆と承知していたが、最期ばかりはあまりに急ぎ足だった。たぶんラストムービーを観る間もなく。そんな思いにとらわれている。

<読売新聞4月13日付 編集手帳>
 「鐵(てつ)」という字を分解すれば〈金の王なる哉(かな)〉。「鉄」は〈金を失う〉。金運に恵まれる「鐵造」さんが「鉄造」さんでは気の毒だ。よって〈余(よ)は漢字制限に反対である〉◆井上ひさしさんの長編小説『吉里吉里人』(新潮文庫)で主人公の三文小説家が力説する。漢字2字の対比の妙と、気取った口調に思わず頬(ほお)のゆるむ場面だが、笑ったあとの胸には知らぬ間に“宿題”が置かれている◆日本語論に限らず、政治、経済、世相、歴史――何を描いても徹頭徹尾、読者サービスに努める井上文学は面白く、楽しい。「あなた、どう思います?」という宿題に気づくのはいつも、笑い疲れたあとである◆かつて語ったことがある。「人間の愚かさが誰かに注意されて改まるならば、悲しみや怒りではなく、笑いによって注意を下されるべきではないだろうか」と。井上さんが75歳で亡くなった。人間というかなしく、おかしい存在が織りなす笑い、その笑いによる世直しが『ひょっこりひょうたん島』以来の、生涯を貫く創作哲学であったろう◆訃報(ふほう)とともに部屋の照明がほんの少し落ちた、そんな錯覚のなかにいる。

<読売新聞4月12日付 よみうり寸評>
 〈むずかしいことを やさしく やさしいことを ふかく ふかいことを ゆかいに ゆかいなことを まじめに〉――作家、劇作家井上ひさしさんのモットーだ◆氏には〈遅筆堂〉の名があるが、このモットーに忠実な仕事をすれば、遅筆も当然だろうとうなずける。言うのは易しいが、実践するのはまことに難しい◆その難しい作業を長いこと続け、数々の名作を世に残した。上智大学在学中に浅草・フランス座の文芸部員になったのが氏の演劇経歴の始まりだった◆父のいない少年時代に「この本の山を父さんと思いなさい」と母。「シェークスピアはホラ吹き親父、モリエールはおもしろ親父……私の父はゴーカケンラン」とエッセー「本とわたし」にある◆「読書は智恵の永遠の連続性への参加。本が父親とは母のとっさの言い抜けだろうが、意外にも本質を言い当ててもいる」ともある。〈難しいことを易しく〉は若き修業時代から身につけてきた◆井上ひさし氏逝く。75歳。偉大な日本のおもしろ親父を失った。

<【産経抄】4月13日2010.4.13 03:24>
 日曜日、なぜか小紙にだけ訃報(ふほう)が掲載された、作家の井上ひさしさん(75)は、昭和47(1972)年に37歳で、直木賞を受賞している。受賞作『手鎖心中』は、絵草紙の作者にあこがれる材木問屋の若旦那(だんな)を通して、江戸の戯作(げさく)者の業(ごう)を描いた作品だった。

 ▼「他人を笑わせ、他人に笑われ、それで最後にちょっぴり奉られもしてみたい」「茶気が本気に勝てる道をさがしてやる」「机の前の地獄に座り通してやる」。作中には、こんなセリフがあった。「現代の戯作者」たらんとする、井上さん自身の決意表明でもあったはずだ。

 ▼サービス精神という点では、日本の作家のなかでも、ずば抜けた存在だった。小説、劇作ともに一作一作、膨大な資料に当たって、趣向を凝らした。時にその完全主義が仇(あだ)となり、締め切りに間に合わず“蒸発”し、芝居の初日を延期させる騒ぎもあった。出来上がりが気にくわない自作の上演を取りやめ、後始末に2千万円以上費やしたこともある。

 ▼離婚、再婚も大きなニュースになった。あらゆる権威を疑い、笑いのめす井上作品は、小欄も大ファンだ。ただ、日本国憲法やイラク戦争についての発言や、次第に進歩派の「権威」となっていく井上さんには、どうしてもなじめなかった。

 ▼一度だけ、お話をうかがう機会があった。岩手県釜石市で営まれた、母堂、マスさんの葬儀を取材したときだ。マスさんは、紙製の使い捨て生理帯を考案、販売して成功し、後に土建会社を率いた「女傑」として知られる。

 ▼波乱の人生を自らつづった本は、テレビドラマにもなった。「母親ではなく、井上マスを通した昭和史をライフワークにしたい」。そのとき話してくれた構想が、実現しなかったのは残念だ。


<東京新聞 筆洗2010年4月13日>

 おばあさんが一人で店番をしている書店があった。中学生の男の子が、いたずら心で国語の辞書を持ち出そうとしたら、見つかって諭された。「あのね、そういうことばかりされると、わたしたち本屋はね、食べていけなくなるんですよ」▼裏庭で命じられたのはまき割り。罰だと思っていたら違った。「働けば、こうして買えるのよ」とおばあさんは国語辞書を渡し、労賃から辞書代を差し引いたお金までくれたという▼劇作家・作家の井上ひさしさんが中学の一時期を過ごした岩手県一関市のエピソードだ。井上さんは<おばあさんはまっとうに生きることの意味を教えてくれたんですね>と述懐している(『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』)▼肺がんで亡くなった井上さんの戯曲や小説は、持ち前のユーモアや風刺の中にも、まっとうに生きている人を包み込む温かさがあった。市井の人々がまっとうに生きられなくなるからこそ、戦争を憎んだ▼護憲を訴える「九条の会」の呼び掛け人の一人に名を連ねた。近年は戦争責任をテーマにした芝居も手掛け、東京裁判をモチーフにした「夢の裂け目」などの三部作が、ちょうど東京の新国立劇場で三カ月にわたって連続上演中だった▼療養中も新作の構想を練るなど創作欲は旺盛だったという。原稿の遅さで知られた人だが、人生も「遅筆堂」でよかった。


以上、



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