「中央区を、子育て日本一の区へ」こども元気クリニック・病児保育室  小児科医 小坂和輝のblog

感染を制御しつつ、子ども達の学び・育ちの環境づくりをして行きましょう!病児保育も鋭意実施中。子ども達に健康への気づきを。

「東京都中央卸売市場築地市場の移転・再整備に関する特別委員会」

2009-12-18 00:00:00 | 築地を守る、築地市場現在地再整備
 本日18日の午後、築地市場の特別委員会が都議会で開催されます。

 委員会では、たいへん重要な質疑応答がなされるものと考えられます。

 特に、土壌汚染問題では、改正土壌汚染対策法に関連して、突っ込んだ内容の質問がなされることが期待されます。

 年末のたいへんお忙しい中とは存じますが、多くの皆様が傍聴されますことをお願い申し上げます。
 
 度々、本委員会の審議がなされなかった経緯もあり、委員会の開催時間など流動的になる可能性もございますが、その場合は、どうかご容赦願います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

画期的な判決 最高裁 区の行った建築確認は違法。

2009-12-17 18:34:11 | 街づくり

 画期的な判決のニュースが流れました。

 周辺住民との合意形成のもと、再開発は行っていくべきであることが、わかります。

判決文は以下:
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=38272&hanreiKbn=01


***以下、ニュース****
NHKニュース 12月17日 17時11分
 東京・新宿区で、「たぬきの森」と呼ばれる豊かな自然が残る一画に建設中のマンションについて、最高裁判所は、区が行った建築確認は違法だとして取り消しました。これによって、すでに7割ほど完成している建物は違法な建築物になり、区や業者は取り壊しなどの異例の対応を求められることになります。

 新宿区下落合に建設中の3階建てのマンションをめぐっては、周辺の住民たちが、敷地に接した道路の幅が狭く条例の安全基準を満たしていないと主張して、区が3年前に行った建築確認を取り消すよう求めていました。1審は訴えを退けましたが、2審は条例の基準に違反していることを認め、区の建築確認を取り消しました。17日の判決で、最高裁判所第1小法廷の宮川光治裁判長は区の上告を退け、住民の勝訴が確定しました。マンションの建設予定地にはたぬきが生息していることから、周辺の住民から「たぬきの森」と呼ばれ、住民たちは区に保全を求める運動を進めていました。建築中の建物の建築確認が取り消されるのは異例で、これによって7割ほど完成している建物は違法な建築物になり、区や業者は取り壊しなどの対応を求められることになります。判決について、原告の住民たちは「貴重な自然を後世に残すために大きな意味のある判決だ。木々は伐採されてしまったが、区には敷地を買い取って公園として整備するよう求めていきたい」と話しています。一方、新宿区は「司法の最終判断をしんしに受け止め、適切に対応していきたい」とコメントしています。また、マンションの建設業者は「区の認可を基に建設を進めていたので、困惑している。今後は区への賠償も視野に入れて対応を検討したい」としています。

****以上、***

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

参考人招致 実現へ

2009-12-17 11:09:32 | 築地を守る、築地市場現在地再整備
都議会で、参考人招致も行われながら、審議される方向です。

見守って行きたいです。

****以下、新聞より***

築地市場移転:土壌汚染専門家ら4人、参考人招致へ--都議会委 /東京
毎日新聞 2009年12月15日 地方版

 都議会経済港湾委員会は14日、江東区豊洲の新市場建設予定地から土壌汚染
が検出された築地市場(中央区)の移転問題を巡り、土壌汚染・環境の専門家と
業界関係者のそれぞれについて移転賛成派と反対派各1人ずつ、計4人を参考人
招致することを決めた。年内に日程調整を進め、年明け早々にも実施したい考
え。【市川明代】




築地市場参考人招致 識者ら4人で調整へ
産経新聞2009.12.14 21:32

 築地市場(東京都中央区)の移転問題をめぐり、都議会経済・港湾委員会理事
会は14日、参考人招致について、小沢昌也委員長(民主)が提案する4人の招
致を調整することで合意した。新年の早い時期の招致を目指す。
 小沢委員長によると、4人は各会派が推薦した候補者の中から、市場関係者と
学識経験者の2人ずつを選ぶ方針。移転に賛成派と反対派でバランスを取るとい
う。
 参考人招致をめぐっては、人選や人数で各会派の折り合いがつかず実施が先送
りされていた。14日は再調整の場だったが再び紛糾。約4時間半の中断後、小
沢委員長の提案に合意した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12/16日経新聞 経済教室「官に対する監視」どう徹底 行政訴訟の仕組み改善を

2009-12-16 17:40:26 | 国政レベルでなすべきこと
 本日12/16の日経新聞 経済教室『「官に対する監視」どう徹底 行政訴訟の仕組み改善を』は、とても大切な視点が書かれています。
 福井秀夫氏 政策研究大学院大学教授による論説です。
 
 テーマとして、
 「国民の提起、容易に
 法改正や規範、政治が率先」
 と書かれています。


 経済教室では、いつも、「ポイント」の欄があります。

 そこでは、

*誤った行政権力の発動、監視する機能必要

*事業仕分けの手法を行政監視にもいかせ

*裁判官人事を内閣主導に戻し、資質向上を

 の三点が掲載されていました。


 私は、中央区議会で、情報公開の壁にぶつかっています。
 また、まちづくりと関連する都市計画法も行政法の一分野です。

 つい先日の第四回定例会 本会議の私の一般質問の主要テーマのひとつは、「情報公開」や「住民の合意形成に基づくまちづくりや学校改築(明石小、中央小、明正小)」にありました。
 答弁を、今後出る議事録で振り返っていただきたいと思いますが、中央区で、もっともっと、前進をさせていかねばならない分野です。


 行政法の根底から、学んで行きたいと考えています。

 私の知識不足ゆえに(経済教室の内容はいつも難しいですよね。。。)、本日、書いている内容をすべて解釈できているわけではないのですが、参考にしていきます。

 みなさんも、本日の記事をとり置きください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ、地球は、丸いのか?

2009-12-16 16:30:28 | シチズンシップ教育
 なぜ、地球は、丸いのか?

 東洋大学が今年1月に発表した「現代学生百人一首」にその回答があります。

 「神様は誰も隅っこに行かせないように
  地球を丸くしたんだ」
  (沖縄県立小禄高校 高橋秀)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

届け、思い。 夢のある築地市場 現在地での再整備

2009-12-15 22:37:01 | 築地を守る、築地市場現在地再整備
 中央区は、日本の食文化を継承する『築地ブランド』を育んできた築地市場の移転を“断固反対”し、現在地での再整備をあくまで実現することを目指してきました。築地地区の活気とにぎわいをさらに発展させ、歌舞伎座や銀座・日本橋などの周辺地域と連携することにより、日本の食文化の中心として、さらには都心商業・観光の一大集積地として繁栄に導く構想を有しているところです。

 一方、移転候補地の豊洲6丁目東京ガス工場跡地の土壌汚染がたいへん深刻な状況下、東京都には、土壌汚染対策に関する都民への十分な説明(リスクコミュニケーション)が求められています。同時に、東京都は、汚染土壌コアサンプルを廃棄しようとしているところですが、コアサンプルが廃棄されて追試ができなくなれば、土壌汚染対策の信頼性を科学的に検証する道を失うことになってしまいます。現在、そのような“証拠隠滅”を食い止めるために、仲卸の皆様を中心に総勢210名により提起された「コアサンプル廃棄差止め訴訟」の裁判が、東京地方裁判所で、進行中です。(第三回口頭弁論期日は、平成22年2月25日13:30~)

 おりしも、鳩山現首相は、「築地は世界の言葉である。築地はいのちの源である。東京都の暴挙を絶対に許すわけには行かない。」と先だって行われた都議会議員選挙初日の第一声を築地の地で明言されています。国政の中心にあられる方からの支援の言葉に、大変勇気付けられます。

 大阪の市場も、札幌の市場も営業を継続しながら、現在地で再整備を立派に成し遂げることが出来ました。「築地市場地区を核とした活気とにぎわいづくり委員会」や「新しい築地をつくる会」での公開の議論の下、中央区として現在地再整備に向けて何ができるか真剣に検討し、環状二号線のもともとの計画であった地下化に向けた「都市計画再々変更」や種地提供の手法の提案をはじめ現在地再整備へ都を誘導する方策を、今こそ取っていくべきであると考えています。

 日本の食文化は、築地市場からはじまります。中央区民、都民そして日本国中の多くの人が、築地市場を現在地で守ることを願っています。
 来年こそ、築地を大切に思う皆様とともに、夢のある築地市場現在地での再整備の絵を描いていきたいと思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12/19連続シンポジウム「都市計画法・建築基準法改正へ」 第4弾 「土地利用規制」

2009-12-15 17:12:52 | 街づくり

 都市計画、まちづくりに関するシンポジウムが、連続シリーズで、開催されています。
 私も出席し、いつも勉強させていただいております。

 今週末も開催されますので、お知らせいたします。

 主催は、「景観と住環境を考える全国ネットワーク」です。


***以下、お知らせ*****

■■連続シンポジウム「都市計画法・建築基準法改正へ」■■

4、土地利用規制 12月19日(土)午後6時~

会場・主婦会館(四ッ谷駅麹町口正面)

 

世界の都市計画は、名称は異なるがゾーニング制度を採用しています。しかし、
欧米の制度に真似たゾーニング制度をベースとしている日本の土地利用規制制度
は、良い都市づくりに貢献していません。

そればかりでなく、醜悪な都市づくりにこの制度が貢献をしているといっても過
言ではないでしょう。では、日本の制度の何が問題で、どう変えればよいので
しょうか?

①「集団規定は街を壊しているか?」柳沢厚(C-まち計画室)

用途地域等によって構成されている建築基準法集団規定では、何故、まちづくり
ができないか。現行の土地利用規制制度がもたらす問題とその背景を解説しつ
つ、望ましい改革の方向について提案する。

②「公開空地は、高層ビルの免罪符か?」川西崇行(早稲田大学講師)

都心の再基発は、公開空地が免罪符となり、高度利用が実現するシステムとなっ
ている。では「公開空地」とは一体なんであるのか、また、魅力的な都市づくり
に「公開空地」は役立っているのか、問題提起する。

③「地方自治体開発行政のジレンマ」若林祥文(NPO法人 都市づくりNPO
さいたま)

自治体の建築行政、開発許可行政は、法で定められた基準を審査するにとどま
り、「最低限度」の開発や建築の質を実現はするが、しかし、地域実態とあわな
い開発を促進し、都市マスタープランとは異なる開発を誘引している。自治体の
開発行政のジレンマを紹介する。

司会 日置雅晴氏

参加費1800円

申し込み

http://form1.fc2.com/form/?id=475638

※予告無くパネリストの変更をする場合があります。

 

〈単体規定〉個々の建築物の安全、衛生、防火等に関する基準を定めたもの

〈集団規定〉用途地域、建ぺい率制限、容積率制限、斜線制限、日影規制、接道
義務など周囲に影響するもの

〈公開空地〉建築基準法の総合設計制度で、開発プロジェクトの対象敷地に設け
られた空地のうち、一般に開放され自由に通行または利用できる区域。

有効容積に応じて、容積率割増や高さ制限の緩和が受けられる。都心部では公開
空地を儲けることで容積が緩和され周囲とまったく乖離した巨大な建築が可能に
なっている。

以上、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『こっこクラブ 1月号』

2009-12-15 16:46:40 | 小児医療
 『こっこクラブ 1月号』で、「保存版 1~3歳の症状別病気ガイド 今月の症状:熱が出た」(P.155-158)の記事作成のお手伝いをさせていただきました。
 今、書店で、並んでいるところでしょうか。(12月15日発売)

 “発熱”という一番身近な症状を、わかりやすく解説させていただいたつもりです。

 思い返せば、決算特別委員会のまっ最中の原稿依頼でした。
 暇なときにといいたいところだけど、先延ばしにすると、いつになってもお受けできないことになりかねないから、快くお引き受けした次第。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

届け、築地を守る思い

2009-12-14 23:00:00 | 築地を守る、築地市場現在地再整備
 いよいよ、届きました。

 築地を守る“思い”が、届きますように。。。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

13日 中央区保健所 新型インフルエンザワクチン 集団接種

2009-12-13 23:00:00 | 各論:新型インフルエンザに備える
 13日 新型インフルエンザ 集団接種が実施されました。
 中央区保健所では、中央区医師会主催で、日本橋保健センターでは、日本橋医師会主催で、行われました。

 私も、一接種医として中央区保健所に午前・午後と協力させていただきました。午前9:00-11:30、午後13:30-17:00過ぎ、この間に、162名(9:00-10:00 19名、10:00-11:00 28名、11:00-11:30 17名、13:30-14:00 19名、14:00-15:00 16名、15:00-16:00 24名、16:00-17:00 33名、17:00-17:10 6名。)の子ども達への接種となりました。
 1000名の子どもがやってくるということで、最初は、すごく混雑するとどうしようと緊張しましたが、実際は、余裕のあるゆったりとした時間の中で接種を行うことができたと思っています。助手に用紙記入をお願いし、私は、問診表チェックと診察及び実際の接種に集中して行いました。
 こうして見ると、30分で、20名弱がひとりの医師の限界の接種数となるかもしれません。

 集団接種の難しさは、自分のクリニックであれば、すでに医師ー患者の信頼関係の上で、実施できますが、お互いが初対面の関係での予防接種であるというところからきます。
 初めて出会った子ども達に、極力痛くない注射ができるように心がけたつもりです。
 一家族1-3分というわずかな時間の一期一会の医療行為の現場でした。
 
 
 まだ、きちんとした数字は出されていませんが、中央区保健所では、予約枠1000名で、実際の当日接種は700ぐらいと大体の感じを述べられていました。

 中央区医師会30名(29医療機関)の医師による実施となりました。小児科だけでなく、内科、外科、耳鼻科、精神科、皮膚科などの先生方も参加しての事業となり、子ども達のために多くの皆様がご協力くださったことに、小児医療に携わる医師として深く感謝いたしております。
 保健所の職員の皆様、看護師や受付など医師会関連のスタッフの皆様、医師の皆様、本当にお疲れ様でございました。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説全文 (1)

2009-12-12 13:25:59 | 国政レベルでなすべきこと

 オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説を掲載します。
 朝日新聞の全訳によりました。
 下線、赤字は、小坂による。

****以下、演説****

 国王王妃両陛下、皇太子皇太子妃両殿下、ノルウェーのノーベル委員会のみなさん、米国民のみなさん、そして世界の市民のみなさん。

 この栄誉を、私は深い感謝と非常に謙虚な気持ちで受ける。これは、世界のすべての残酷なことや困難にもかかわらず、我々は単なる運命の囚人ではない、という高い志を示す賞だ。我々の行動には意味があり、歴史を正義の方向へと向けることができる。

 しかし私は、みなさんの寛大な決定が、かなりの論争を生み出したことを認めないわけにはいかない。それはまず、世界の舞台での私の仕事が緒についたばかりで、終わっていないためだ。シュバイツァー氏(医師)やキング氏(牧師)、マーシャル氏(元米国務長官)、マンデラ氏(元南ア大統領)といった、この賞を受けた歴史上の偉人たちに比べて、私が達成したものはきわめて小さい。そして世界には、正義を求めて投獄されたり暴行を受けたりする男女や、人々の苦しみを和らげるために人道組織で苦労しながら働く人々、勇気と思いやりをもった静かなる行動で、最もかたくなな皮肉家の心さえ動かす何百万もの名もなき人々がいる。私は、これらの男女――名が知られた人もいるし、助けている相手にしか知られていない人もいる――が私よりもこの名誉に値すると考える人々に、反論できない。

 しかし恐らく、私の受賞に関する最も深い問題は、私が二つの戦争のただ中にある国の軍最高司令官だという事実だ。これらの戦争の一つは幕を閉じようとしている。もう一つは米国が望んだのではない紛争であり、さらなる攻撃から米国自身、そしてすべての国を守る努力として、ノルウェーを含む他の42カ国が参加している紛争だ。

 我々はなお戦時下にあり、私には、遠い地での戦いに何千人もの米国の若者を送り出している責任がある。その中には、殺すことになる者もいるだろうし、殺されることになる者もいるだろう。だから私は、武力紛争に代償が伴うことを切に感じつつ、ここに来ている。戦争と平和の関係や、戦争を平和に置き換える努力についての難問を抱えて、だ。

 さて、これらの問いは新しいものではない。どんな形であれ、戦争は最初の人類とともに登場した。歴史の始まりにおいては、その道義性は問われなかった。干ばつや疾病のように、単なる事実にすぎなかった。部族、そして後には文明が、お互いに権力を追い求め、不一致を解決するための方法だった。

 やがて、法によって集団内での暴力の制御が模索されるようになり、哲学者や聖職者、政治家らは戦争の破壊的な力を規制しようとした。正しい戦争」という概念が生まれ、一定の条件が満たされる場合にのみ戦争は正当化されるとされた。つまり、最後の手段または自衛として行われ、武力の使用が(目的に)釣り合うものであり、可能な限り、民間人に暴力が及ばないように行われなければならないというものだ

 歴史の大部分において、この「正しい戦争」という概念は、めったに守られなかった。互いに殺し合う新しい方法を考えつく人間の能力は、容姿が違いや信仰の異なる人々に慈悲を示さない能力と同様、尽きることがなかった。軍隊同士の戦争は、国家間の戦争に取って代わられた。戦闘員と民間人との区別があいまいになる全面戦争である。30年の間に、そのような大量殺害が2度、この大陸を席巻した。(ドイツ)第三帝国と枢軸国を倒すこと以上に正当な理由は見いだし難いとはいえ、第2次世界大戦は、戦死した民間人の数が、死亡した兵士の数を上回った戦争だった。

 そのような破壊と、核兵器の時代の到来で、勝者と敗者双方にとって、さらなる世界大戦を防ぐための機構が必要だということが明らかになった。そして、ウッドロー・ウィルソン元米大統領がこの賞を受賞したアイデアである国際連盟を米上院が拒否してから四半世紀後、米国は平和を維持するための仕組み作りで世界をリードした。マーシャルプランと国際連合、戦争遂行を統制する機構、人権を守り、集団殺害を防ぎ、最も危険な兵器を制限する諸条約だ。

 さまざまな意味で、この努力は成功した。確かに悲惨な戦争が起こり、残虐行為も行われた。しかし、第三次世界大戦は起きていない。歓喜に満ちた群衆によって壁は倒され、冷戦は終結した。商業によって、世界の大部分がつながれた。何十億人が貧困から脱出した。自由、自己決定、平等、そして法の支配といった考えは、たどたどしくも前進した。私たちは、過去の世代の不屈の精神と先見の明の継承者だ。そしてこれは、私自身の国が誇るに値する遺産だ。

 しかし、新しい世紀に入って10年がたち、この古い構造物は新たな脅威の重みに押しつぶされつつある。世界はもはや二つの核超大国の間での戦争のおそれに震えることはないかもしれないが、核の拡散は、大惨事の危険性を増大させうる。長い間、テロリズムは戦術だったが、現代の科学技術によって、不相応に大きな憎悪に駆られた少数の者たちが、恐るべき規模で罪のない人々を殺害できるようになった

 さらに、国家間の戦争は急速に国家内の戦争に取って代わられつつある。民族や宗派間の紛争の再びの台頭、分離独立運動や反乱、失敗国家の増加。これらはいずれも終わりなき混乱に民間人をどんどん巻き込んでいる。今日の戦争では、兵士より多数の民間人が殺される。将来の紛争の種がまかれ、経済は荒廃し、市民社会はずたずたに引き裂かれ、難民は増加し、子どもたちが傷ついている。

 今日私は、戦争の問題について明確な解決方法を持ち合わせていない。私が知っているのは、これらの困難に立ち向かうには、何十年も前に勇敢に行動した男女が持っていたのと同じ構想力や勤勉さ、粘り強さが必要だということだ。そして、それは私たちに、正しい戦争の観念と、正しい平和をもたらすという急務について、新しい思考を求めるのだ。

 我々は、厳しい真実を認めることから始めなければならない。我々が生きている間には、暴力を伴う紛争を根絶することはできないという真実だ。一国による行動であろうと、複数国の共同行動であろうと、武力行使が必要なだけではなく、道義的に正当化されると国家が考える場合が出てくるだろう

 私はこの発言を、ずいぶん前にマーティン・ルーサー・キング牧師がこの授賞式で語った言葉を胸に行っている。彼は「暴力は決して恒久的な平和をもたらさない。それは社会の問題を何も解決しない。それはただ新たな、より複雑な問題を生み出すだけだ」と言った。キング牧師が生涯をかけた仕事の直接の結果としてここにいる者として、私は非暴力が持つ道義的力の体現者だ。私は、ガンジーとキング牧師の信条と人生には、何ら弱いものはなく、何ら消極的なものはなく、何ら甘い考えのものはないことを知っている。

 しかし、私は、自国を守るために就任した国家元首として、彼らの先例だけに従うわけにはいかない。私はあるがままの世界に立ち向かっている。米国民への脅威に対して、手をこまねいてることはできない。間違ってはいけない。世界に邪悪は存在する。非暴力の運動では、ヒトラーの軍隊をとめることはできなかっただろう。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を置かせることはできない。武力行使がときに必要だと言うことは、冷笑的な態度をとることではない。それは人間の不完全さと、理性の限界という歴史を認めることだ

 多くの国々では、理由はどうであれ、今日軍事行動をめぐって深く相反する感情がある。だから、私はこの点を提起する。時にこれは、唯一の軍事大国である米国への反射的な疑念を伴う。

 しかし、世界は思い出さねばならない。第2次大戦後の世界に安定をもたらしたのは、国際機関だけや、条約や宣言だけではないことを。我々は誤りも犯したかもしれないが、事実として、米国は60年以上に及んで自国民の流した血と軍事力によって、世界の安全保障を保証する助けになってきた。米国の男女の兵士による献身と犠牲が、ドイツから韓国に及ぶ平和と繁栄を促し、バルカンのような場所に民主主義が根を下ろすのを可能にしてきた。我々がこうした負担を背負ってきたのは、我々の意思を押しつけたいからではない。我々がそうしてきたのは、見識ある自己利益のためだ。つまり、我々の子孫のためによりよい未来を求めるからだ。他国の子どもや孫たちが自由と繁栄のうちに暮らせたならば、我々の子孫の暮らしもよりよくなるだろうと信じるからだ。

 そう、だから戦争の手段というのは、平和を保つうえで役割を持っている。しかしこの真実は、また別の真実と共存せねばならない――いかに正当化されようとも、戦争は人類に悲劇をもたらすという真実とである。兵士たちの勇気と犠牲は栄光に満ち、国家、大義、戦友への献身を表す。しかし、戦争それ自体は決して輝かしいものではないし、我々は決してそのように持ち上げてはならない。

 したがって、我々の課題の一つは、これら一見矛盾する二つの真実――戦争は時に必要であり、また戦争はあるレベルにおいて人間の愚かさの発露だという真実――を調和させることだ。具体的にいえば、かつてケネディ大統領が呼びかけた課題に努力を振り向けなければならない。彼は語った。「人間の本性の急激な変化に基づくものでなく、人間のつくる制度の段階的な進化に基づいた、より実際的で、より達成可能な平和を目指そう」と。

 人間の作る制度の段階的進化。この進化とはどんなものだろう? これらに向けた実際的なステップは何か?

 まず最初に、私は強い国も弱い国も同じ様に、すべての国は武力行使を規定する基準を厳守しなければならないと信じる。私は、ほかの国の元首と同様、もし自国を守るために必要ならば一国で行動する権利を留保する。しかしながら、基準を厳守するものは強くなり、厳守しないものは孤立し、弱体化すると確信している。

 世界は9・11後、米国のそばに結集した。そして、米国のアフガニスタンにおける取り組みを引き続き支援している。無分別な攻撃への憎悪や広く認識された自衛原則からだ。同様に世界は、サダム・フセインがクウェートに侵攻した時に彼に対決する必要を認めた。それは、侵略の代償についての明確なメッセージを送る世界の総意でもあった

 さらに米国は、いや実際どんな国でも、自らが規則に従うことを拒めば、他国に規則に従うように主張できない。規則を守らなければ、我々の行動は恣意的(しいてき)に映り、正当化されうる場合でも、将来の介入の正当性を損なう

 この点は、軍事行動の目的が、自衛や、侵略を受けた国の防衛の範囲を超える時に、特に重要となる。我々はみな、政府による自国民の虐殺をどう防止するか、暴力や被害が地域全体を巻き込むような内戦をどう食い止めるかといった難問に直面するケースがますます増えている

 私は、バルカンや、戦争で傷ついた他の場所でそうであったように、人道的な見地からの武力行使は正当化できると信じる行動をしないことは我々の良心を引き裂き、後により高くつく介入へとつながりうる。だからすべての責任ある国は、明確な任務を与えられた軍隊が平和を維持するために果たすことができる役割を認める必要がある

 世界の安全保障に対する米国の決意は揺るがない。しかし、脅威が拡散し、やるべきことがより複雑になった世界では、米国だけで平和を確保することはできない。それはアフガニスタンでも同様だ。テロリズムと海賊行為に、飢えや人々の苦境が重なり合ったソマリアのような失敗国家にもあてはまる。悲しいことだが、今後もそれは不安定な地域の現実であり続けるだろう。

 北大西洋条約機構(NATO)の指導者たちと兵士たち、そしてその他の友好国と同盟国は、アフガンで発揮した能力と勇気を通じて、その事実を明らかにした。だが、多くの国で、こうした任務に当たる人々の努力と、一般市民の相反する感情の間に、溝が存在する。戦争がなぜ不人気なのかは分かっている。だが私は同時に、平和が望ましいという信念だけで平和が達成できることはめったにないことを知っている。平和には責任が必要だ。平和は犠牲を伴う。だからこそ、NATOは不可欠なのだ。だからこそ、我々は国連と地域の平和維持活動を強化せねばならないし、その役割を限られた国に任せてはいけない。だからこそ、我々はオスロやローマ、オタワやシドニー、ダッカやキガリへと、国外での平和維持活動や訓練から帰還した者をたたえるのだ。戦争を起こす者としてではなく、平和を請け負う人たちとしてたたえるのだ。

 武力行使について、最後に1点強調させて欲しい。戦争を始めるという難しい決断をする時も、我々は常にどう戦うかについて明確な考えを持たねばならない。ノーベル賞委員会はこの事実を認識し、赤十字の創設者でジュネーブ諸条約(制定)の原動力となったアンリ・デュナンに最初の平和賞を与えたのだ。

 武力が必要なところでは、我々は一定の行動規範を守ることに道徳的で戦略的な利益を見いだす。ルールに従わない悪質な敵と立ち向かう時も、米国は戦争遂行上の(規範を守る)旗手であり続けなければならない。それが我々と戦う相手との違いだ。それが我々の強さの源泉だ。だから、私は拷問を禁じた。(キューバの)グアンタナモ米軍基地の対テロ戦収容所の閉鎖を命じた。そして、私は米国がジュネーブ諸条約を順守することを再確認したのだ。まさにそうした理想について妥協してしまえば、我々は自分自身を見失ってしまうことになる。そして、それを守るのが困難な時にこそ、我々は理想を守り、敬意を払うのだ。

 戦争の遂行を選ぶ際、我々の頭や心に重くのしかかる問題について、私は時間を割いて話してきた。しかし、そのような悲劇的な選択を避けるための我々の努力に話を移し、正義として持続する平和を築く三つの方法について話したい。

 一つ目は、ルールや法を破る国々に対応する際、暴力ではない形で(その国の)ふるまいを変えさせねばならないということだ。もし持続的な平和を求めるなら、国際社会の言葉は、何らかの意味のあるものでなければならない。ルールを破る政権は責任をとらなければならない。制裁は、真の代償を払わせるものでなければならない。非妥協的な態度にはより強い圧力で対応せねばならない。そして、そのような圧力は、世界が一つにまとまった時にのみ、存在するのだ。

 喫緊の例として、核兵器の拡散を防ぎ、核なき世界を求める努力が挙げられる。前世紀の半ば、各国はある条約に拘束されることに同意した。その内容は明確だ。すべての国は平和的な原子力を利用できる。核兵器を持たない国は所有をあきらめ、核兵器を持つ国は軍縮に向かうということだ。私はこの条約への支持を明言する。それは私の外交政策の中心項目であり、メドベージェフ・ロシア大統領とともに米ロの核保有量を減らそうと努力している。

 一方でまた、イラン北朝鮮などの国がこのシステムをごまかさないよう主張することが、すべての国にとって必要だ。国際法を尊重するという国は、法が守られない状況から目を背けてはならない。自国の安全を大切にする国は、中東や東アジアの軍備競争の危険を無視するわけにはいかない。平和を求める国は、核戦争のためにほかの国が武装するのをただ傍観するわけにはいかない。

 同じ原則は、自国民を残虐に扱うことで国際法を犯している者にも当てはまる。(スーダンの)ダルフールでの集団殺害、コンゴ(旧ザイール)での組織的なレイプ、ビルマ(ミャンマー)での抑圧などは、必ず重大な結果が伴うべきだ。もちろん、対話や外交も行われるだろう。だが、そうした営みが失敗したときには重大な帰結を招くべきなのだ。我々が団結を強めればそれだけ、軍事介入と抑圧の共謀者となるという二者択一に直面しなくても済むだろう。

 そこで私は二つ目の点我々が求める平和の本質について語りたい。なぜなら、平和は単に目に見える紛争がないということではない。すべての個人の持つ尊厳と生来の権利に基づく公正な平和だけが、本当に持続することができるのだ

 この知見こそが、第2次世界大戦後に世界人権宣言の起草者たちを後押しした。荒廃の中にあって、人権が保護されないのなら平和はうわべだけの約束にすぎないと、彼らは悟ったのだ。

 それなのにあまりにも頻繁に、これらの言葉は無視されている。一部の国では、人権はいわば西洋の原則であって固有の文化や自国の発展段階の中では異質のものである、という間違った主張をもとに人権を維持しない口実にしている。そして米国では、自らを現実主義者と称する人々と、理想主義者と称する人々との間の緊張が長く続いてきた。その緊張が示すのは、狭い国益を追求するべきか、世界中で我々の価値を押しつける終わりのない運動をするべきなのか、という厳しい選択だ。

 私はこうした選択肢を拒絶する。自由に話したり、好きなように礼拝したり、自分たちの指導者を選んだり、恐れず集会を開くといった権利が否定されている場所では、平和は不安定なものになると信じる。抑圧された不満が募り、部族や宗教に根ざしたアイデンティティを抑えれば暴力につながりうる。我々はその逆も真実であることを知っている。欧州は自由になった時、やっと平和が訪れた。米国は民主主義国家に対する戦争は一度もしたことがなく、我々と最も密接に関係がある諸国の政府は、彼らの市民の権利を守る。いかに冷静に定義しようとも、人類の希望を否定することは、米国の利益にも世界の利益にもつながらない。

 米国は、様々な国の独自の文化と伝統を尊重しながらも、普遍的な希望のためにいつでも声をあげる。我々は、静かに威厳を保っている(ミャンマーの)アウン・サン・スー・チーのような改革者の証人となる。暴力にさらされながらも票を投じるジンバブエ人の勇気や、イランの通りを静かに行進した何十万の人々についても証人になる。これら政府の指導者は他のいかなる国家の力よりも、自国民の希望を恐れるということがわかる。そして、希望と歴史に根ざしたこれらの運動に対して、我々が味方であることを明らかにするのは、すべての自由な国民と自由主義諸国の責任だ

 もう一つ言わせてほしい。人権の促進は、言葉で熱心に説くだけでのことではない。時には、困難な外交と組み合わせなければならない。抑圧的な政権と対話すれば、憤りの純粋さという満足感に欠けることは私も分かっている。しかし、相手に手を差し伸べずに制裁を科すことや、議論を経ないままの非難が、ひどい現状を継続するだけになりうることもわかっている。開かれた扉という選択肢がなければ、どんな抑圧的な体制も新しい道を進むことはできない

 文化大革命の戦慄(せんりつ)を考えると、ニクソン(元米大統領)が毛沢東(元中国主席)と会ったことは弁解の余地がなかったように見える。だがその会談が、何百万人もの中国国民を貧困状態から引き上げ、中国を開かれた社会とつながる道に乗せる助けになったのは確かだ。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世がポーランドと対話したことは、カトリック教会だけでなく、レフ・ワレサ(元大統領)のような労働指導者にも(活動の)場を作った。ロナルド・レーガン(元米大統領)が軍縮に取り組み、ペレストロイカ(改革)を受け入れたことは、ソ連との関係を改善しただけではなく、東欧全体の反体制派に力を与えた。ここに単純な公式はない。しかし我々は、孤立と関与、圧力と報奨のバランスをとるよう最善の努力をして、時をへて人権と尊厳が前進していくようにしなければならない

 (下のブログにつづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説全文 (2)

2009-12-12 12:38:38 | 国政レベルでなすべきこと

 三つ目に、正義としての平和とは、市民的・政治的権利だけではなく、経済的な安全と機会を含まなければならない。というのも、真の平和とは恐怖からの解放だけでなく、欠乏からの自由でもあるからだ

 開発は、安全なしには根付かないということは疑いようのない真実だ。生きるのに必要な食糧やきれいな水、医薬品や寝場所が手に入らないところに安全は存在しないのも事実だ。子どもたちがまっとうな教育や、家族を養える仕事を望めないところにも安全は存在しない。希望の欠如は、社会を内側から腐らせうる。

 だからこそ、農民による食糧供給や、国家による子どもの教育、病人への医療を支援することは、ただの慈善事業ではないのだ。同様に、だからこそ、世界が一緒に気候変動に立ち向かわなければならない。もし我々が何もしないなら、この後何十年にもわたって一層の紛争の原因となるような、干ばつや飢饉、大規模な避難民の発生に直面することになるいうことには、科学的にはほとんど争いがない。科学者や運動家たちだけが迅速で力のある行動を求めているのではない。わが国や他国の軍指導者も、これに共通の安全保障がかかっていることを理解している。

 国家間の合意強い組織人権への支持開発への投資。これらすべてが、ケネディ大統領が言及した進化をもたらすのに不可欠な材料だ。とはいえ、さらなる何かがなければ、我々がこの仕事を成し遂げるための意志や持久力を持つとは思わない。それは、我々が倫理的な想像力の広げること。そして、我々みんなが共有し、奪い得ないものがある、ということへのこだわりだ。

 世界がより小さくなるにつれ、人類はいかに似通っているかということが認識しやすくなるだろうと思うかもしれない。我々は基本的に同じものを求めていること、すなわち、自分と家族にとっての幾ばくかの幸福と満足感をもって人生を送る機会をみんなが望んでいることが理解しやすくなると思うかもしれない。

 だが、めまいがするようなペースでグローバル化し、近代という文化的な平準化が進んでいることを考えると、人々が、自らが慈しむ特定のアイデンティティ――自らの人種、部族、そして一番強いであろう宗教――を失うのではないかと恐れることは驚きではない。その恐怖が紛争につながった場所もある。時には、我々は昔に逆戻りしているのでないかとさえ感じることもある。それは、中東では、アラブ人とユダヤ人の間の紛争が激化する中に見られる。部族の境界で引き裂かれている国家にも、そうしたことが見られる。

 そして最も危険なことに、イスラム教という偉大な宗教をねじまげ、汚してきた者たち、アフガニスタンから私の国を攻撃した者たちによる罪のない人々の殺害の正当化に、宗教が使われるというやり方にもそれが見られる。この過激主義者たちは、神の名の下に殺人を犯した最初の者たちではない。十字軍の残虐ぶりは十分記録に残っている。だが、それらは、聖戦は正義の戦争にはなり得ないということを思い出させてくれる。というのも、もしも神聖な神の意志を実行していると本当に信じているならば、抑制の必要がないからだ。(神の意志ならば)妊婦や医者、あるいは赤十字社の職員、さらには自分と同じ信仰を持つ人に対しては危害を加えないとする必要もない。そうしたゆがんだ宗教の見方は、平和の概念と相いれないだけではなく、信仰の目的自体とも矛盾すると私は信じる。というのも、すべての主な宗教の中核にある法則は「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」ということであるからだ。

 この愛の法則に従おうとすることは、常に人間にとって本質的な闘いであった。我々は誤りに陥る。間違いを犯し、自尊心、権力、時には邪悪の誘惑に屈する。最も善意を持った人びとも、目の前の悪をただすことができないときはある。

 だが、人間の性質は完全であると考えなくても、人類が置かれる環境を完全にしうると信じることはできる。世界をより良い場所にする理想を追求するために、理想化された世界に住む必要はない。ガンジーやキング牧師のような人々がとった非暴力は、いかなる状況でも現実的で可能なことだとは言えなかったかもしれない。しかし、彼らが説いた愛――人間の進化に関する彼らの根源的な確信、それこそが、常に我々を導く北極星であるべきなのだ。

 なぜなら、もし我々がこの信念を失ったら――それをばかなもの、幼稚なものとして退け、戦争と平和の問題について下す決断とは無縁だとしてしまえば、その時我々は、人類にとって最善のものを失ってしまう。我々は可能性への意識を失う。我々は倫理の羅針盤を失う。

 我々の先人の幾世代もがそうだったように、我々はそんな未来は拒否しなければならない。何年も前に、キング牧師がノーベル平和賞授賞式で語った。「私は歴史のあいまいさに対する最終回答として絶望を受け入れることを拒む。『いまこうあること』が人間の今の状態だから、人間の前に永遠に立ちはだかる『こうあらねばならない』というものに達することは道徳的に不可能だとする考え方は受け入れない」。こうあるべき世界を目指そうではないか。我々の魂をなお揺り動かすあの神の輝きに到達しようではないか。

 今日もどこかで、武器の数で圧倒的に不利な状態にあっても平和を保つため踏みとどまっている兵士がいる。今日もこの世界のどこかで、政府の残忍さを知りながら抗議のデモ行進をする勇気を持つ若い女性がいる。今日もどこかで、貧困に打ちのめされながらも、それでも自分の子どもに教える時間を作り、なけなしの小銭をはたいて学校に行かせる母親がいる。こんな残酷な世界であっても、子どもが夢見る余地は残っていると信じているからだ

 そんな彼らを見習っていこうではないか。常に抑圧はあることを認めながらも、正義を追求することはできる。手に負えない欠乏があることを認めながらも、尊厳を追求することはできる。曇りなき目で見れば、これからも戦争があるだろうことを理解しつつ、平和を追求することはできる。

 我々にはできる。なぜなら、それこそが人間の進歩の物語であるからだ。それこそが全世界の希望だ。この挑戦の時、それこそが、この地球で我々がやらなければならない仕事なのだ。

 どうもありがとう。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ブッシュからオバマヘ アメリカ変革のゆくえ』

2009-12-12 04:13:51 | 国政レベルでなすべきこと
 2009年1月20日、厳寒のワシントンにおいて、初のアフリカ系大統領オバマ氏の就任演説がなされた。建国の理念を、歴史の被害者たる黒人による抗議としてではなく、白人有権者も同調可能な言葉として正面から掲げ、国民統合(多元的統合)を米国民に訴えたのであった。多元的統合とは、具体的には、公共的討議空間には個々の文化的選好間の優劣問題を極力持ち込まないことを提案している。
 私も、日本時間深夜、固唾を呑んで、オバマ氏のスピーチを聞き入った。その日の日記には、「演説を聴いていて、オバマ氏の言霊がジーンと伝わってきました。私は、米国人ではありませんが、もし米国人なら、オバマ氏と、経済の難局をともに乗り切って行きたいという思いを抱きました。そして、命がけで、米国の改革に取り組む姿に対し、厚く敬意を表します。」と感想を述べ、オバマ氏が述べたことは、二語でいうと、CHANGE(変革)とUNITY(団結)であったと書きおいていた。
 現代史は、第二次世界大戦、ベトナム戦争、冷戦の終焉に匹敵する構造的変容の季節を迎えている。また、金融・経済危機も文明史的な規模と深さとなり、世界のいたるところで信用が崩壊し、投資意欲が地を這う状況の中で、保護主義に陥ることなく国内経済をたて直し、諸外国と強調しつつ経済復興をはかってゆくのかが、問われている。
 このような人類史の一大転換期に世界的な期待感に押し上げるようにして誕生したオバマ政権の課題は、対外的には、個別具体的な政策目標をブッシュ政権時代の単独主義によらずに、多国間協働主義に則って追及していくと同時に、アフガンーイラク戦争と米国発の金融危機とによって地に落ちた米国の道義性、信頼性を回復して行くことにあろう。当面は、それら金融経済危機とイラク戦争の終結が最優先の課題であるが、それ以外にも、地域環境問題、核拡散・核軍拡の防止、国際司法制度の確立による戦争犯罪の防止などの諸課題が重要かつ切迫している。
 米国内では、長期の戦争と経済破綻が生み出した国内社会の亀裂を修復しなくてはならない。米国の限界をいかに認識し、自国の「自由と民主主義」をいかに再定義・再構築していくかという課題が問われている。
 就任後、オバマ大統領は、当面する政治問題を、1)その背景やその解決に伴う困難も含めて正確に、正直にわかりやすく国民に伝え、2)決定システムを透明にし、3)大統領令や党派的投票など政策手段の迅速かつ的確な選択により政策展開のスピード感をもたせる現実主義的リーダーシップを生かして来た。まさしく、日本の政治でもリーダーに求められる資質であるが、近くの政治を見る限り、1)情報は、伝えられず、2)決定のプロセスも明かされず、3)政策展開のスピード感も感じられない。
 対外的には、4月5日プラハにおける演説では、人類史上唯一の核兵器使用国としてのアメリカに言及しつつ核廃絶を訴え、さらに6月4日には訪問先のカイロにおいて、イスラム世界全体に対話と強調を呼びかける画期的な演説を行うなどし、可能な限り多極的な対話のネットワークを構築しようとしてきた。
 今後、オバマ氏の目指す変革を頑強に阻むアメリカ現代史に深く根ざす三つの難題が存在する。
 難題の第一は、対外関係に関わるもので、冷戦時代の遺産、信じがたい規模まで膨れ上がった軍産複合体の存在である。軍産複合体は、アメリカ国家を内側から後押しする勢力であり、治外法権的権力となっており、どこまで民主的統制下におくことができるであろうか。
 難題の第二は、金融・経済危機に対する政策に対して、執拗な抵抗をする議会のレーガン主義者や市場の新自由主義者たちの存在と、さらには、アメリカ文明に深く根ざす消費重視型の経済構造である。この生活様式の克服は、国民生活に一種の文化大革命を迫るに等しい。
 第三の難題は、共和党右派と民主党リベラル派との党派間抗争に起源をもつ政党対立で、この激しい党派対立は、建設的な政治的討議をともなっていない。だからこそ、就任演説で、「政府が大きい、小さい」が問題なのではなく、「政府が機能するかどうか」が問題であるという趣旨を述べたのであろう。
 オバマ政権は、これら難題と対峙して前途はまことに多事多難というほかはない。
 一方、日本も今、政権交代という自国史においてごくまれな政治的チャンスと同時期にあたっている。議員ひとりひとりが、今、政治の現場で起きていることを、ITも利用しながら、国民に伝えていくことの積み重ねで、日本の政治にも「変革」がもたらされると信じる。教会やタウンミーティングなどの自発的組織を通して地域の福祉や貧困問題に取り組む点に、アメリカの民主主義の強さがあるというが、私も地域で勉強会の開催をするなどし、自発的に地域の問題を考えるきっかけ作りをすることを心がけ、それが民主主義の宿る土壌作りの一躍を担えればと考える。
 遂には、日本の民主政治が是非、西太平洋から東アジア全体にわたる広域的秩序構築計画を含む創造的な外交プランをもってオバマ政権に働きかける日が近く来ることを望む。


参考文献:
『ブッシュからオバマヘ アメリカ変革のゆくえ』古矢旬 著、岩波書店、2009年7月30日第1刷発行
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12/13 中央区保健所での新型インフルエンザ 集団接種

2009-12-11 12:25:04 | 小児医療
中央区保健所で、新型インフルエンザ予防接種の集団接種が行われます。

<12/13 中央区保健所 集団接種 接種対象者>
区民で1歳から小学生3年生に相当する年齢の方

電話でご予約の上の接種になるそうです。


当院でも、新型インフルエンザ予防接種特別枠を設け、
鋭意、集団接種を実施中です。
なお、当院で接種を希望されていた方は、本日累計1353家族に達しましたが、
本日中に、予防接種のご案内の電話を、すべての家族にし終わる予定です。

新型インフルエンザ予防接種について当院のお問い合わせ:
こども元気クリニック・病児保育室:03-5547-1191


中央区の子どもたち全員が(すでに新型インフルエンザにかかっている子は不要ですが)、できるだけ早くに接種を受けることができる環境を作っていきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信じることができる中央区であるためには~環状二号線地上化と勝どき五丁目再開発問題~

2009-12-11 08:52:34 | 街づくり
 昨日の勝どき五丁目地区再開発計画案説明会は、たいへん紛糾しました。

 結局、午後9時過ぎに、発言希望者がまだおられる中、会議を途中で打ち切る形で、終了となりました。
 八階大会議室がほぼいっぱいになる数の参加者がいらっしゃいました。

 この計画には、計画変更を求める署名が、2158筆集められて、12/3に中央区長に提出されているといいます。12/4の東京新聞記事でも大きく取り上げられていました。
 1月の都市計画審議会にかける日程であると、会では説明がありました。
 2158筆の署名をはじめ多くの区民・都民の声を無視して、1月に都市計画審議会の開催の日程があるから、自動的にこの勝どき五丁目再開発の問題を議題とするということを、単に手続きの流れにそう“作業”として進めていくべきでないと考えます。
 少なくとも、その1月の都市計画審議会の場で結論を出さずに、都市計画審議会で十分な調査をし、結論すべきものです。


 説明会の内容は、議事録がつくられるということですので、今後、ご確認いただければと思います。
 以下に、出された主な意見を、箇条書きにしてみます。
 開発計画案に賛同する声はなく、ほぼすべてが、反対の立場からのご意見・ご質問だったと私は、理解します。

*区民の声が届かない、

*納得のいく説明をうけることができない、

*子ども達の将来のことが考えられていない、

*学校・病院など教育サービス・医療サービスについて総合的な観点から考えられていない、

*きちんとしたデータに基づいた試算がなされていない、

*災害時の住民避難所の考え方が不十分

*保留床の割合が未定、1300戸の転売計画が未定

*なぜ、早急にすすめるのか、

*中央区のまちづくりのあり方(思いやりのある安心できるまちづくり、うるいのある安全で快適なまちづくり、にぎわいとふれいあいのある躍動するまちづくり)に反している

*駐車場を建物内タワー型で配置した超高層ビルの危険性

*重要事項説明義務違反

*保育所300m2で約50人の子どもの保育で果たして十分なのか

*交通量推計は妥当か

*医療施設、保育施設、学校の絶対的な不足

*環状二号線の地上化計画がなされない場合のこと

*ひとつのプランではなく、分棟にするなど複数のプランの検討をすべきでは、

*いびつな敷地での地区計画

*地権者は、5名。それに国と都を加えた7名の計画。

*なぜ、54階も?

*いったい誰のための計画?

*近隣住民への説明不明

*準備組合組織について

など多くの意見が出されました。(書ききれていない部分が多々あると思います。もし、重要な事柄で落ちている部分があれば、ご指摘ください。)

 中央区の街づくりのあり方の根本的な部分に問題があると、今回の再開発でも強く感じたところです。

 そして、区民の皆様の真摯な声をお伺いする中で、私も区議として区行政のあり方にかかわっておきながら、これら区民の不安の声を受けとめ、それに応えきれずにいることに、たいへん悔しい思いを持ちました。


 この勝どき5丁目再開発計画で、私が考える大いなる疑問や意見は、以前も意見書で提出したことですが、

*都と国の公有地が86%をしめる約1.9ヘクタールの土地であるのであれば、54階建て1300戸の超高層住宅という計画ではなく、もっと低層で地域貢献性の高い計画は作れたはずではないか。

*都に、中央区の地元ニーズを積極的に反映をさせて、計画をつくるべきではないか。

*築地市場移転、それを前提とした環状二号線地上化が不透明の中、なぜ、拙速に進める必要があるのか。十分に議論し、周辺地域にも受け入れられる計画とすべきである。公有地が86%閉めているのであり、地権者である都や国はその視点をもって、計画を進めるべきである。
 住民の合意形成の上で、計画をつくるべきではないか。

*「住民の交流・憩いの場の整備」と計画した部分は、きちんとその実現を担保できるのか。

*計画自体やその計画進行の不透明な部分を明らかに説明できるのか。

*風環境や交通量推計が、予測以上に悪化した場合の対応まで責任を負った計画であるのか。

*まちづくり協議会で出された資料では書かれていたが、本日配布資料では削除されていた部分があるが、本来は、削除せず資料に本日資料に掲載すべきではないか。
 削除されていた部分:「施設建築物の環境負荷の低減」*事業全体として熱負荷の低減等に取り組む方針の中で、特にB-1街区の建築物においては、下記の取り組みを計画している。(住宅用途の熱負荷の低減、店舗等の熱負荷の低減、店舗等の設備システム省エネルギー化)*屋上緑化、壁面緑化といった建築物上の緑化を推進する。
⇒説明会終了後、都市計画部長に確認しましたが、「施設建築物の環境負荷の低減」の計画は、そのまま存在しているとのことでした。

 以上が、私の計画に対する意見です。


 不透明な部分をなくし、地域貢献性の高い再開発が、住民の合意形成のもとなされることを強く要望いたします。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする