北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

母なる川、琴似発寒川の河川清掃

2013-05-11 23:45:20 | Weblog

 朝から家の近くの琴似発寒川の一斉河川清掃が行われました。

 妻と、娘夫婦と一緒に川原のゴミ拾いに参加しましたが、考えてみれば、ここに引っ越してきてから参加するのは初めて。

 まあ家を建ててから11年になりますが、それからは単身赴任が続き、事実上2年ほどしか住んでいないので、地域のイベントには縁遠かったのです。

 今日は地域の連合町内会の皆さんを始め、山の手高校ラグビー部、稚内信金など、地域の企業なども会社ぐるみで参加し、総勢300人ほどが集まりました。

 

 開会式には西区の区長さんが挨拶に来ていました。

 西区って人口30万人ほどいるのですが、区長さんの姿ってあまり見かけないし身近にも感じられないのは都会だからでしょうか。

 いくつかの自治体を経験すると、その共同体の人口って、数が少ないほど首長さんや職員とも身近になるのが実感できます。

 政治や地域活動に関心を寄せてもらおうと思うと、数が大きくなればなるほど難しくなるのです。


     ◆   ◆   ◆


 軍手とポリ袋を配布されて、開会式の後に三班に分かれてそれぞれ持ち場を清掃。
 
 ゴミとしては、主には分解されないビニールやポリ袋が多く、ほんの一時間ほどの作業で袋は一杯になりました。

 まだ雪解け水による増水が続いていますが、水位が下がったらフライフィッシングのキャストの練習にはちょうど良さそうな川です。

 まだ河川敷に残る最後の残雪も力がありません。

 札幌もやっとエゾヤマザクラ桜の葉が開いてきました。あと数日でようやく札幌にも桜が咲きそうです。

 

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私欲でなく公欲で

2013-05-10 23:45:32 | Weblog

 不思議に今日は釧路からの訪問が多かった一日でした。

 一人目は商工会議所の方、二人目は大学、そして三人目は市役所の方。皆さん、私が市役所にいた間、いろいろな形で助けてくださった方たちばかりです。

 私からは、今の機械課での仕事を紹介ましたが、そのうえでの現下の悩みは、除雪機械の老朽化問題。

 これを話している中で、面白かったのは「問題の中心にいる人がいくら話しても、私利私欲と思われてしまって、本当に大切なことが伝わりにくい」ということでした。

 つまり、最前線で除雪事業を担う事業者さんたちが、いくら機械の老朽化問題を訴えても、「それは事業者さんたちが楽をしたり儲けたいから言っているのではないか」と思われるのではないか、ということ。

 課題に最も最前線で接しているからこそわかることですが、業者さんという立場ゆえに、悲しいことながら、仕事や儲けということと一緒に見られてしまうという宿命を背負っています。


    ◆  


 釧路市では公有資産マネジメントという形で、様々な施設の建物そのものの老朽化度合いや利用のされ方などを客観的な指標で表して、これからのあり方を議論するうえでの参考にしようとしていますが、これからは課題を市民議論にしてゆく必要があります。

 様々な検討のうえで今後、「こうしましょう」という提案を市側からすることになるのかもしれませんが、その場合に、「市の都合なのではないか」と思われてしまわないでしょうか。

 これもまた客観性をいかに表すかがカギになるでしょう。

 

   ◆   ◆   ◆ 


 私の愛読する「言志四録」には、こういう一節があります。

  私欲はあるべからず。公欲はなかるべからず。
   公欲なければ、すなわち人を恕する能わず。
    私欲あれば、すなわち物を仁する能わず。
            (言志録221)

 この意味は、「私欲はあってはいけないし、公欲はなければならない。こうよくがなければ、他人に対して思いやりを施すことができない。また、私欲があれば、他人に対して慈悲の心を起こして物品などの恵みを与えることができない」というもの。

 私欲という単語はよく聞きますが、公欲という単語もあるのです。

 公欲とは、国家や社会を利する欲ということですが、公務員ならずとも持っていたい気持ちだと思います。

 深く味わいたい言葉です。
   

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そったくどうじ

2013-05-09 22:53:58 | Weblog

 五月になって、森の中では鳥たちの子育てから雛の誕生する季節になりました。

 禅に「啐啄同時(そったくどうじ)」という言葉があり、これは「啐(そつ)」と「啄(たく)」は同時でなくてはならない、という意味です。

 ここでの「啐」とは、鳥の雛が卵の中で成長して、今まさに殻を破って外に出ようとするために卵の殻を内側からコツコツとつつくことを言います。

 そして「啄」とは、親鳥が外側から卵の殻をコツコツとつついて雛鳥が殻を破ることを助ける動作のことを言います。

 「啐啄同時」とは、まさにこの雛が外に出ようとする瞬間と、親がそれを助ける瞬間が絶妙に同時でなくてはならないという意味で、転じて、師匠と弟子の間での修行の場において、弟子の内面が充実して弾けんとする当にその時に、師匠は弟子が悟りを開けるような教えを与える、という意味に使われます。

 つまり、弟子を育てるということは、ただ漫然と教え続けるのではなく、その適切な時期に適切な助言を与えることが必要である、という教えなのです。

 師匠としてはそれだけしっかりと弟子の様子を見極めていなければならず、それがまた単に教えを与える以上に、師匠としての役割でもあるのです。

 まだ成熟してもいないのにより高度な教えを与えてもそれは身にはつかないということ。

 なかなか深い言葉であります。


   ◆   ◆   ◆


 そして成長しようと思えば、師匠だけではなく弟子の側としても十分に心を尽くさなくてはなりません。

 司馬温公の「勧学の歌」には、「子を養うて教えざるは父の罪(とが)なり。師道にして厳ならざるは師の怠りなり。父教え師厳にして学問ならざるは子の罪(つみ)なり」とあります。

 原文の読み下しでは、「とが」と「つみ」を分けて読んでいますが、「とが」は道義的に避難されるべきことで、「つみ」はそれよりももう少し強い意味を持たせている印象です。

 育てようする側と育てられる側との絶妙なタイミングというものも、なかなか奥が深いものですね。

 

 

 

 

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人材と人物の違い

2013-05-08 23:30:31 | Weblog

 最近あちらこちらで、人材育成の必要性について聞く機会が多くなりました。

 しかしながら話を聞いていると、そこで求められている「人材」の質とは、資格取得だったり業務上の知識だったり、コミュニケーション能力と言ったような、まあなんとか目に見えるような即物的な力ばかりという印象。

「人材育成ってそういうことなんでしょうかね」と考えていたら、ある人が、「ある企業の幹部が『人材育成ばかり考えて、能力のある人を求め続けて失敗だったと気が付いた。求めるべきは、大局的な価値観や人間力のある【人物】であるべきだった』ということを言っていましたよ」と教えてくれました。

 なるほど、人材ではなく人物ですか。

 しかしそうなると、【人物】とはどういう人のことであるか、というイメージが頭の中になくてはなりません。

 自分自身が【人物】ということに対するイメージがなければ、どうありたいか、どうなってほしいかという理想が示されないからです。

 私なりには、そのためには、一に人に会うこと、二に書物を読むことしかないのだと思います。

 実際に多くの人に会って、その中から市井に紛れていても立派な人物と、世間的には地位のある方であっても首をかしげるような方とを自分の目で見極める、すなわち人を見る眼力を養わなくてはならないのです。

 ところがただ人を見ると言っても、壁の隙間から覗くような見方ではいけません。その方と話をして互いの胆力の切っ先を触れ合わせるような真剣さが必要です。

 当然自分に確たる何かがなければ、相手の力量を判断することなどおぼつかない訳で、そのためにもまずは自らも日常の中で自分自身を鍛えるという心構えでありたいものです。


    ◆    ◆    ◆


 そしてそれほど多くの人に会えないというのであれば、古今の英雄や立派な人たちについて書かれた書物を読むべきで、これこそ、時代を超えて会えない人に会うための努力と言えるでしょう。

 素晴らしい人の生きざまに触れた時に人には「尊敬」の念が沸き起こります。

 私にも人生を変えた師と呼べる人の出会いがあって、先方は決して私のことを弟子だとは思っていないでしょうけれど、自分で勝手に師匠と決めているのですが、このことを「私淑する」と言います。

 私淑する、尊敬すべき対象となる人物がいることは幸せな人生と言えますし、「かくありたい、少しでもあの人に近づきたい」という思いは自分自身を育てるのに大いに役立つことでしょう。

 

 人を育てる、育成するなどというのはおこがましいのですが、いつかそういう立場に立った時のために、まずは自分自身を律していたいものです。


 上杉鷹山公は、こう詠みました。

   人多き 人の中にも 人はなし 
        人になれ人 人になせ人


 さて、自分は「人」になれるでしょうか。 
     

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空港での人間模様~お天道様が見ている

2013-05-07 23:45:38 | Weblog

 札幌の知人と久しぶりに飲みました。

 彼は海外での勤務経験も豊富で、いろいろな場面に出くわして人生経験が豊かな方です。

 特に空港で出迎えや見送りの際に、その人の持つ人間性が顕著に出ることがあって興味深かったと言います。

「たとえばどんな方がいましたか?」
「そうですね、アメリカにいた時に日本でも超一流と言われる某家電メーカーの社長さんを出迎えるということがありました。迎えに行ってみると、何やら入管のところでその方がもめているのが見えました」

「ははあ」
「そこで、『どうしました?』と訊ねてみると、入国管理官が『出入国カードが読めない』と言っていました。見ると、出入国カードの名前を書く欄に漢字でご本人の名前を書き込んでいるんです。アメリカの入国管理官ですから、そこはローマ字で書かないと読めるわけがありませんよね」

「それは無理でしょう」
「で、『そこはローマ字で書かれた方が良いでしょう』と言うと、その方は、『カードには漢字で氏名と書いてあるじゃないか。だから漢字で書いたんだ』と言うんです。心の中では(え?何を言っているの?)という状態でしたが、なんとかなだめてその場は事なきを得ましたが、そこを離れて車へ向かう途中でもまだなにやらご不満のようでした。こういう方がトップの企業ってどうなるんだろう?と思いました。案の定、その後から今に至っても業績は芳しくないようですがね」


   ◆   ◆   ◆


「また、それと対照的な場面にも遭遇しましたよ」
「はあ、それはどんな方ですか?」

「2001年から4年間、アメリカの駐日大使として日本で活躍されたハワード・ベーカーさんです。彼は駐日大使を終えてアメリカへ戻ってからも各方面で活躍されましたが、その彼をアメリカの空港から日本へ行くときに見送りに行ったのです」
「はい」

「すると、税関でなにやら言葉を交わしていたのですが、どうやら『税関で持ち出すものを申告するように』と言われたらしいのです。後から聞いたら、たかだか数百ドルくらいのものが引っかかったようなのです。そしてそのせいで40分くらいも列に並んでおられました」
「なるほど」

「こちらからすれば政治的な大物だという印象があるので、『なんだかひどいですね』と言ったのですが、彼がそのときに言ったのは、"He did a good job(かれは良い仕事をした)"という一言でした。政治的な大物だったら、『何とかしろ』というかと思いきや、こちらが恥じ入る思いでしたよ」


 マスコミなどいない、誰も見ていないと思うようなところでの発言や態度こそが、その人の人格や人間力を顕著に表します。

 人が見ていなくても、お天道様が見ているのです。

 「志は高く腰低く」これこそが、目指すべき人間像。人間、こうありたいものですね。

 今日は良い話が聴けました。

 

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生活保護からの自立を目指して~自治体の取り組み

2013-05-06 23:45:59 | Weblog

 さえない天気が続いた道内のGW。

 最後の日まで時折雨が降っていて、残念な一週間となりました。

 さて、そんなGWですが、最終日の今日は誕生日が5月上旬で近い老親の誕生祝パーティを自宅で行いました。

 ここ数年、この時期に私の自宅で行うことが慣例になってきた誕生パーティですが、私の弟妹家族や娘家族に今年は孫という新しいメンバーを迎えて、参加人数も12人となりました。

 
    ◆   ◆   ◆


 録画してあったNNNドキュメント「生活保護 自立をめざして」を見ました。

 大阪府豊中市と釧路市での生活保護受給者の自立に向けた実践的な取り組みがモデル的な事例として紹介されていました。

 釧路市役所では福祉事務所の及川さんや剱谷さんなどが登場して、保護受給者に自立してもらうための第一歩としてボランティアに参加してもらう取り組みが紹介されていました。

 また彼らの親分筋で、生活保護の取り組みを「釧路モデル」と言わせるまでに充実させた櫛部さんの奮闘ぶりも大きく取り上げられていましたが、現場の悩みや苦しみが少しでも多くの人たちに伝わってほしいと思いました。

 生活保護には昨今、様々な批判が渦巻いていますが、不正受給者をシンボリックに扱って、そのことで生活保護全体が問題のある制度であるかのような言い方は誤解を招くと思っています。

 一つ一つの問題を整理しながら、制度として不備があるならばそれを正せばよいし、制度の改変を待つ間にも今目の前に生活に困窮している人たちは救わなくてはならないという、現場に課せられた使命があることを忘れてはなりません。

 生活に困窮する理由は人それぞれの事情がありますが、課題は本人に帰する「意欲と能力」の問題、そして働く場を提供しきれない社会の問題に大別されます。

 今日のこの番組では、ボランティアに参加することで社会参加の意欲を向上させる自立支援や、一定の金銭的支援を行いながら調理師としての資格取得を促進し、その資格で就職ができた事例が紹介されていました。

 さらに、櫛部さんの活動によって、漁業における網の修理に人手が足りないところを保護受給者による仕事が成立する姿を描いています。

 実際に稼げるお金はそれほど多くはなく、自分で稼いだ分は保護費の補てんになり、月にもらえる金額は変わらないのですが、それでも自分がお金を稼げる存在という自己肯定感の醸成は大きな意味を持つことでしょう。

    ◆   

 生活保護を語るうえで是非調べて欲しい単語に「スティグマ」という単語があります。

 これは「烙印」、あるいは今日でいえば「(悪い)レッテル」というような意味で、理由に関わらず保護受給者などに対して人は知らないうちにスティグマを負わせています。

 1960年代に、ゴフマンという社会学者が、スティグマを負った人々への劣等視が社会的に正当化されていることを論じました。
 その結果、スティグマを負った人々は差別という形で様々な社会的不利を被ることになっています。

 
 番組の中では、生活保護制度の新しいあり方として、就労をもっと明確に意識づけするような方向が打ち出されようとしているという分析がありましたが、生活困窮者の現実をマクロで眺める学者や官僚と、一人一人の生活というミクロな視点で見ている櫛部さんの様な人たちとのギャップを感じずにはいられませんでした。

 このことは、もっと多くの人たちに関心を持ってほしい問題ですし、もし再放送があればぜひ見てほしい番組です。

 登場された皆さん、お疲れ様でした。
 

 

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孫の初節句と日本の植物文化

2013-05-05 23:45:02 | Weblog

 孫の初節句で、娘夫婦の家での食事会に行ってきました。

 ちょうど昨日が10か月目でしたが、週に一度くらい会う分には成長が早く感じます。

 声も出るようになりましたが、次第に発音が複雑になっていて、言葉らしいものが聞こえるようにもなりました。

 両方の親からのプレゼントとして、兜飾りを贈りました。

 端午の節句は、男の子の健やかな成長を願い、また兜や鎧を飾って、立身出世を願い、お祝いをするという日本の風習です。

 いろいろ見た中で、徳川家康の兜が気に入ったとのことで、それにしたらしいのですが、徳川家康の兜の前立ての意味が分かりませんでした。

 ネットでそのあたりを調べてみると、yahoo知恵袋で「徳川家康の兜の金の部分の意味は何ですか」という問いに、こんな回答がありました。


------【yahoo知恵袋の回答】------

「徳川家康所用の「歯朶(しだ)の兜」のことでしょうか。
 
正式には「黒漆塗大黒頭巾形兜」といい、別名が「歯朶の兜」といいます。「歯朶」はシダ類植物の総称であり、「歯」は齢(よわい、年齢)であり、「朶」は枝であって、長生きして子孫を繁栄するという説があるとのことです。
 
この「歯朶」は前立(まえだて、兜の眉庇に付ける装飾品)といいます。これは牛革製ですが、久能山東照宮蔵の兜の鉢にはこの前立はついていません(鉢にその前立を付ける装置は見当たらない。外された前立そのものは現存)
 
この兜は家康がある夜、戦勝の神である大黒天を夢で見て、すぐさま具足師に作成させたもので、徳川家では「御夢想形(ごむそうなり)」と呼んでいます。

 → http://bit.ly/13amDUh

------【 以 上 】------

 シダが長寿長命と夫婦円満、子孫繁栄の象徴と走りませんでした。

 植物を専門にする造園を学んでいましたが、植物の文化的な背景は奥が深いですね。


 ちなみに「柏餅」の柏の葉は、新しい芽がでるまで落ちないことから、家の跡継ぎが絶えないと、縁起を担いだもの。

 また、旧制第一高校(東大の前身)の校章は「柏と橄欖(かんらん)」だったそう。

 柏の葉は、ギリシア・ローマ神話に登場する武神マルスの象徴で、もう一方の橄欖は、学問、平和、道徳の女神であるミネルヴァ(アテネ)をシンボライズした「知恵の実」。
 
 「柏と橄欖」となるといわば「文武両道」の象徴と言えるでしょうか。うーん、東大らしい。


    ◆   ◆


 なお、カンランの方は、本来植物学的にはカンランという植物があるのですが、明治時代にオリーブの和訳と誤訳され、以来オリーブの和名として使われることが多いそうです。

 また、岩石のカンラン石の由来も、緑色した岩石がオリーブを思い出させるから、とのこと。

 誤訳も定着してしまうとなかなか抜け出せませんね。
 
 
 今日の食事会のデザートも柏餅。美味しくいただきました。

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早く暖かくなあれ

2013-05-04 23:45:11 | Weblog

 本当に暖かくならない今年のゴールデンウィーク。

 今日も札幌は気温が低いうえに、細かい雨が降ったりやんだりですっきりしないお天気です。

 これではアウトドアの観光地はシーズンの出鼻をくじかれてしまいました。

 やはり暖かくならないと外に出ようという気にならないものです。

 そんな一日は、フライの雑誌を読みながら、釣り糸を整えたり、釣り道具を手入れし、釣りの準備にエンジンがかかってきました。

 
   ◆   ◆   ◆


 昨夜から孫がやってきて一晩と半日過ごしていましたが、10か月になり、そろそろつかまり立ちをし始めました。
 
 ほんのちょっと見ない間にもずいぶんと成長の度合いが顕著で、見ていて飽きません。

 明日はこどもの日で初節句で、なんといっても元気に育って欲しいものです。

 こういうイベントを大切にするところに庶民の切ない願いが込められていますね。

 明日は娘夫婦のところで初節句のお祝いです。

 
 

 

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そうだ、キャンプへ行こう!

2013-05-03 23:45:36 | Weblog

 6月下旬に釣りとキャンプに誘われています。

 静岡から友人が来て札幌の友人たちが迎える形で行うキャンプですが、「娘夫婦も参加してよいでしょうか?」と訊いたところ、「どうぞどうぞ」という返事。

 娘夫婦はまだキャンプ道具を持っていないので、そろそろ買いに行かなくてはなりません。

 キャンプなんて何年ぶりのことでしょうか。随分離れてしまいました。


    ◆    ◆

 

 実は私も若いときはゴルフをしていた時期があったのですが、ある時に、どうも公務員がゴルフ上手というのは自慢にならない、ということに気がつきました。

 ちょうどそんな時期にオートキャンプが流行りだして、妻から「お父さんだけが楽しむゴルフ代で、キャンプだったら家族みんなが楽しめるよ」と言われて、ゴルフをやめる決心をしました。

 そもそもそれほど小遣いが使える身分でもなかったので、この決断は今思えば正解でした。

 車も4WDのデリカにして、海へ山へと家族と共に出かけまくり。

 次女などは、お腹にいるときからキャンプをしているので、「二十歳でもキャンプ暦は21年と言うといいよ」と冗談めかして言っていますが、子供たちもずいぶんと付き合ってくれました。

 子供たちが大きくなるに従って、単身赴任の時期と重なったことも会って次第にキャンプをしなくなってきましたが、子供たちが独立したことで、夫婦を中心としたキャンプを復活させてもよいのかもしれません。

 昔のキャンプ道具が使えるかどうかをチェックしなくてはなりませんが、最近のキャンプでは道具の仕立ても随分変わってきているので、若いときのようにアウトドアショップを見て歩くのも楽しみです。

 
  ◆   ◆   ◆


 キャンプを長年やってきて少しだけ残念なのが、記録をちゃんと取っておかなかったこと。

 いつ・誰と・どこへ行って、どんな天気でどんなハプニングがあったのか、を記録しておいて、記念写真を一枚だけ貼り付ける。

 そんなキャンプ日記をずっとつけておいたら面白かったろうな、と今になって思います。

 取り返せない過去を懐かしみつつ、娘に加えて婿さんと孫を連れて新しいステージのキャンプに行ってみることにします。

  

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一棒一条痕~一たび打ち込めば一条の痕

2013-05-02 23:45:32 | Weblog

 職場で、自分の所属する課の職員に対して、ほぼ毎週のつもりで、課長たる私からのメールによって、考えるところを伝える試みを始めました。

 釧路市役所で副市長だったときでもやらなかったことですが、それは、市役所では部下と言っても範囲が広すぎたのと、必ずしも所属長というわけではなかったので、分ではないと考えたからです。

 しかし再び元の職場で課長となると、明確に課員がいて、この部隊の活動に対して責任を負うことになります。

 課の職務としては、機械部隊と電気通信部隊がいて、それぞれに専門的知識とスキルを駆使して職務を遂行しているわけで、専門的な分野での指導はできませんが、組織としての振舞いに対しては目を配り気を配る必要があります。

 特に最近はかつての非違行為に端を発した、コンプライアンス(法令順守)に対して組織としての自覚を高めなくてはならないのですが、逆にそれが行き過ぎて「法令さえ守っていれば言われないことはしなくても良い」というような職場風土・気風が蔓延しても困ります。

 職場では決めたルールがあっても、守られない状態を放っておくと、守る人が馬鹿を見たり、「守らなくても大したことはないんだ」という気のゆるみが見られるようになるものです。

 樽や桶にはタガがあってこれで形をとどめていますが、使っているうちにこれが緩むのは当たり前で、それ自体は悪いことではありません。

 問題は緩んだタガを締め直さないことで、それを放っておくと樽や桶はバラバラになってしまうので、ここからこうした不具合を整え直すことを「タガを締める」と言います。

 そして今この瞬間、タガが緩んでいるかどうかを、見極めて対応することが必要なのですが、ただそれだけでは、組織を「守って」いるにすぎません。

 管理職につきつけられているのは、さらに組織を活性化させより高い成果を得るということです。

 一人一人の決まりやルールを守るという意識を高めながら、組織として前向きな意欲は正しく評価してその機運を高め、パフォーマンスを上げなくてはいけません。

 「法令を守りなさい」とだけ言っていれば良いのであれば管理職なんて楽な立場です。そこからいかに前向きな気持ちを引き出して成果に繋げるかが難しいのです。

 そんなわけで、そうした組織活性化のための様々な取り組みの一環として、今般、職場での課員宛てメールを配信する試みをしてみようというのです。


    ◆  


 内容は、会議や講演などで見聞したことの伝達を始め、気が付いた諸注意が中心ですが、意欲が湧いてくるような古典の物語りなども良いかなと思っています。

 どんな話があったかなあ、と昔読んだ古典の類を引っ張り出して読み直してみていますが、一度読んだくらいでは忘れている話ばかりでなんだかがっかりしています。

 そんななか、陽明学を唱えた王陽明の言行録である「伝習録」を読み直してみました。

 すると「一棒一条痕 一掴一掌血」という言葉に再開しました。

 これは、王陽明が「諸君には聖人になるのだという志をしっかりと立ててもらいたい」と述べた後の言葉で、「時々刻々、これ一棒一条の痕、一掴一掌血をまちてはじめて能く我が説話を聴き、句句力を得ん」と言った部分です。

 この意味は、「いついかなるときも、一棒痛打しては一条の痕がつき、ぐっと掴んだら掌のあざがつくほどに徹底的に努力してこそ、はじめて私の話をとくと聴いて一句一句が身に浸みてものにできるのだ」ということ。

 人間なにか志を立てた時は、それくらいの気概をこめてやらなくてはだめなのです。

 さて、自分にてらしてどこまでできるでしょうか。

 「一棒一条痕 一掴一掌血」とは、厳しい言葉ですが目標にしたいと思います。

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