京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

「京都山国展」

2019年10月07日 | 展覧会

京都市右京区京北の山国地域は古くから都の木材を供給するなど天皇家とのつながりも深く、戊辰戦争(1865)の際に農民たちが「山国隊」を組織し、新政府(官軍)に参じていた。
細かに綴った当時の日記が残されていた。岩倉具視の指示で鳥取藩所属となり「山国隊」が誕生したという。鳥取藩の当主には家康の血が流れていたと説明があった

この地域には民家に多くの貴重な資料が眠っており、いまも続く調査の様子がかつて新聞に掲載されていた。今回は、その成果の紹介のために催される企画展とのことで、「維新勤王山国隊と山国神社の至宝」に触れる機会でもあった。存在だけは知っていた「山国隊」だが、何かを知りたいという特別な関心事はなく、軽い興味だったが行ってみることにした。

今年の4月、京北の地にある常照皇寺を訪れた帰り道、山國護国神社に立ち寄っていた。山國神社はまたにしようと思って、いまに思えば失敗だった。

 
      (左)鳥居脇には「官祭山國隊招魂塲」と刻まれ、(右)戦病死した7人の名がある。


山國神社に残されていた「大明地理之図」(複製)は平面に広げられ、縦約3メートル、横約4メートルの大きさで見事だった。中国を中心に描かれており、大河の支流にまで及んで鮮明に描かれてあり、地図の左端には黄河の源の地まで記されてあった。元禄3年(1690)に京の私塾「養志堂」にあったものを模写したとの記入があるそうで、日本も小さく細長く、大陸の東部沿岸に描き込まれてあった。南には琉球が。模写はいくつか現存しているという。
元禄と言えば綱吉、元禄文化華やかで、町人も台頭し儒学や諸学も広がりを見せた、そんな時代だったろう。「鎖国」の時代に、模写しながら思いは外に向かったのだろうか。どんな経緯で山奥のこの神社に伝わってきたのだろう。
 
会場は圧倒的に男性が多かった。研究・調査に携わっているらしい話題が耳に入るし、古い資料を読みながら、さん付けで話題にする年配の女性もいて、郷土の方、縁者だろうかなどと思わせるし、著者と読者の関係の会話が私の後ろでなされているし、近江との関係まで談義している人がいたり…。関係者いっぱいの会場の雰囲気に、ちょっと場違いなところに来ちゃったかしら…と思いながらも、しっかり拝見して後にした。
何の役に?なんてことはよくって、ささいでも自分の心が動いたということが大事、大事。そうは言っても、豊かな歴史のほんの一端を垣間見る貴重な機会を得たと思っている。
コメント (8)
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