京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

幸福感

2019年03月31日 | こんな本も読んでみた

   『活版印刷三日月堂』シリーズ完結。

 一昨年9月に最初の2冊を手に取った。

娘に回したところ、その後さらに2冊を購入したようで読まないかと勧められ借り受けていた。最後は風邪薬による眠気に抗いながらになったが読了した。
小さな活版印刷所「三日月堂」を舞台に、周囲の理解や協力を得て店主・弓子はこれからも「人が複雑に織り上げた言葉を活字で届けたい」と仕事を続ける思いを固めていく。共に印刷所を経営していく良きパートナーを得たようだ。そして、二人はいっしょに生きていきたいと確かめ合う。「三日月堂の夢」、最後に見えた希望に、弓子の、人の、生きる意味が見えてくる。

関係を紡ぎ合う人たちの間にはやさしい調和が生まれる。親しい感じというのが幸福感を誘ってくれた。文章も温かなぬくもりに満ちている。弓子のひたむきさに、時に切なさにも似た思いがこみ上げて来たり…。読後感のいい作品はいい。
「よい小説には必ず幸福感がある」と辻原登氏の言葉にあった。川越はいい町だなあ…。

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不意の来訪者

2019年03月29日 | 日々の暮らしの中で
招かざる客がやってきた。
長居は無用、早いとこお引き取り願いたいと、昨日から薬を飲んでいる。
どうやら風邪をひいてしまったみたい。


昨年7月の台風21号の通過ででた倒木による被害は、今でも身近に、各所でその爪痕を目の当たりにする。車で少し北へ走って、運動公園の無料駐車場に止めた。ここも冬の間は進入禁止だった。川の増水による氾濫でグランドが泥沼化を繰り返している。ブロックが倍の高さに積み上げられてあり、トラックが往復し工事は続いていた。若木が育成されているのを目にした。


「地球 〇 やさしい」。地球「に」やさしいは傲慢だと、8年ほど前の金子みすゞ館々長さんの言葉にあったのを記憶している。
地球「が」、地球「は」やさしい、なのだ。
人々を生かしてくれる存在は時に人々を苦しめることもある。それを知っていたからこそ、先人たちは畏敬と感謝の念で自然と向き合っていたのではないか。その思いこそが宗教だったはず。 ―― 法然院の梶田貫主のお話と重ねてみた。
どんな森が育まれるのだろう。

「明日来れそう?」と娘から訊ねられ、実は…、と弁明。フットボールの催し物会場が遠方であるらしく、2歳児を置いて行きたいのだ。その守り役の依頼を受けていた。できることなら見てやりたいと予定していたが、こんな調子ではと苦戦中。
薬に頼らないで治るのが一番身体には優しいのだろうが、早く治したいと焦る。

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時間をかけて

2019年03月27日 | 日々の暮らしの中で

固い土を割って紅い芽の先端をのぞかせるや、それからは少しずつ、時間をかけて育っていく。
人もそういうものかしら。
この心根の強さ、美しさに、わけもなく毎年感動させられる。

「小さな蕾のひとつひとつの、ほころぶということが、天地の祝福を受けている時刻のように思える」。  
石牟礼道子さんの言葉が思い出された(『花をたてまつる』)。











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言祝ぎの春

2019年03月26日 | 日々の暮らしの中で
 
 にこりにこりと居眠りしてる

いいお天気です。屋内もあたたかく、うとうとしそうな午後。午前中の来客も帰られて、ひと休み。気が緩んだままうとうとして時間を過ごすのももったいないと思い直し、歩いてこようと外へ出た。


「土筆の僧正 焦茶の袴で何処おじゃる… 土筆の僧正 焦茶の袴で草の中」
「土筆の僧正」と題した童謡歌詞(宇野暮江)より。
以前、いつだったか昔々、土筆の佃煮を一度だけ口にしたことがあった。今日、土筆を見るなんて思ってもいなかったから写真を何枚も撮ってしまった。


やぶ椿が藪に咲く。我が家の庭にもあるのだが、なんてことない花だなあと思って過ごしてきた。けれど、これだけ種々の椿を見せてもらって、なんてことない花が何か一番落ち着くから不思議だ。こてこてを好まない性格もあるのかもしれない…。
「つらつら椿つらつらに」。言祝ぎの春。
ひとつ、挑戦してみたいことがある春…、なんだけど…問題は体力?気力?かなあ。きっと今年が最後のチャンスかもしれないと自覚…。
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「国の花」と讃えられ

2019年03月25日 | こんなところ訪ねて

白川通から東へ、哲学の道を横切って…東山の麓に近い霊鑑寺に椿の花を訪ねてみた。1654年、後水尾天皇が山号と寺号を勅許し、皇女を得度入寺させたことにより始まる尼門跡寺院。


昨日の日曜日、府立植物園会館で「椿と日本文化」と題した光田和伸先生の講演会があるのを知り、思い立って出向いた。

艶やかな緑の葉を持ち、赤い花をつける椿に霊力を見たのか、椿は古代においては天皇の象徴として歌に歌われていた。
磐之姫皇后が大嘗祭の御綱柏を取りに紀伊の国へ行っている留守に、仁徳天皇は八田の若郎女を寵愛した。そのことを倉人女が告げたので、皇后は怒って御綱柏を海の中に投げ捨て、皇居を避けて通り過ぎ、葛城の実家に帰って行く。 ―― この話、読んだかしたことがある…でしょうか(「日本書紀」)。ここで皇后は椿を讃え、仁徳天皇をことほぐ歌を詠む。

  つやつやとした葉が栄える、霊力のある神聖な木・椿
  その椿の花が照り輝いているように、顔色が赤く照り栄え、
  椿の葉が茂り広がっているように、寛らかにくつろぎいますは、大君であるよ

藤原氏が天皇家の外戚として台頭していくまで、椿は初期の大和王権を象徴する花であり、日本の「国の花」(天皇)として讃えられてきた。やがて、椿を讃えることは晴れの場から姿を消した。椿はどうして大和朝廷と賀茂族の花になったか…。猿田彦族や賀茂族のお話など、興味深く聴かせていただいた。


庭内さまざまな色や形をした椿が盛りを迎えて咲き広がっていた。花に存在感があるせいか、椿酔いしそう…。そして、春の特別公開とあって、思っていたより多くの人出だった。椿の花見はお終いにしよう。

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汚れを知らぬ

2019年03月21日 | 日々の暮らしの中で

この数日グンと気温が上がった。光沢のある、モヘヤのようなやわらかな服を払い、純白の蕾がふっくらと姿を現した。
ちょっと心がざわつくような時も、じっと眺めているうちには気持ちが和いでくる。

明日は孫たちの通う学校がそれぞれに終業式を迎え、春休みに。午後からは彼らが大勢でやって来る。楽しみ楽しみ。
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耳に目にとどめて

2019年03月19日 | 日々の暮らしの中で

起きるには早すぎる午前3時。まだ眠ってから3時間と経っていないのだから困ったものです。
読みかけの『活版印刷三日月堂 庭のアルバム』の最後を読み通した。八木重吉の第二詩集『貧しき信徒』から十編余の詩(タイトルだけも)が登場してきた。
     「冬」
   木に眼が生って人を見ている

一行だけの詩だが、読んで、なんかわかるなあと思っていたのが、時間が時間だけに今思うとおかしい。

午後から「歎異抄」のお話を聞かせていただくつもりでいたので、その前にちょっと目を通しておきたいと開いた本に吉野秀雄の話が出てくる。歌人であり良寛の研究者として知られるが、「歎異抄」に深く傾倒してメッセージを発し続けた人でもあった。
吉野氏は43歳の年に妻を病気で亡くしている。
   病む妻の足頚にぎり昼寝する末の子みれば死なしめがたし

重吉の死後、彼の妻だった登美子さんは吉野氏の妻となる。夜中の八木重吉とここでつながるのだった。

講師は奈良の吉野にある寺のご住職。「歎異抄」は誰が編んだか(唯円の名はここで出てくるわけだが)、〈異を歎く〉というところからお話は始まった。唯円坊のお墓は同じく吉野の龍興寺さんにあるのだとか。親鸞と唯円、私の最初の出会いは中学か高校時代の課題図書で読まされた『出家とその弟子』(倉田百三)だった。

小さな偶然が重なったように見出された不思議。偶然と感じる発見もまた楽しいことだが、そう言えばさっき、「不思議」とは言葉では思えないこと、とかお話だったような。だから何?と言われてもだけれど…。
                               (樹齢400年といわれる銀杏の「眼」は… 2/24)
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「のりしろ」に

2019年03月17日 | 日々の暮らしの中で

縁先に集まった、それも不意の来訪者たち。70歳も半ばを過ぎた女性陣が、腰痛や筋肉の話を始めた。
私の周囲ではジム通いなどに無縁の人ばかりだが、顔を合わせれば病歴の披露と克服への努力話はいつも花盛り。
しかもそれぞれに、ご自慢の先生がおいでだ。何度も聞かされた話もあるが、「そうでしたね、そうでしたね」とまた聞かせてもらう。

「太ももの筋肉を落とさないために、自転車がいいんやて」
整形外科の先生がそう言ったのだという。確かに、坂道を上るとかなりの負荷がかかる。鍛えられそうだ。でもねー、自転車も年齢をそこそこ考えないと。急には止まれない、ではダメでしょう。娘が使っていた自転車を廃車に?してからこの何年、家に自転車がない私は、歩くしかない。やっぱり自転車買おうかあ??

ご近所の文子さんが通りかかり、自転車を止めて入ってきた。前かごに荷物が積まれ、お使い帰りらしい。
「お彼岸やなあ。ごくろうさんやなあ」竹箒が置いてあるのを見て言う。「ちょっときれいにしとこう思ってね」
お喋りが好きで、その流れを止めるのにはいつも失敗続きの私だが、何気なくかけてくれる一言に気持ちが通うものを感じる人だ。

砂利の上を掃く音は、なぜかいつも人を呼びよせる。


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「言葉を通してその人に出遭う」

2019年03月14日 | 日々の暮らしの中で

この1年ばかり交流をいただいてる方から『米寿の万華鏡』をいただくことになった。ご本人は、誕生日を迎えられ今年90歳におなりだ。

歴史が好きでさまざまな会の仲間と各地を歩き、山登りも長く楽しんでこられた。ただ、昨年に奈良の高取城跡に登ったところ、もう少しで山道を下りきる手前でしゃがみ込むことになったとか。初めての経験をされたことを伺ったばかりだが、自らが立ち上げた会を退会されたという。背筋が伸び、素敵な紳士である。

煮野菜が良い、青魚が、海藻が、キノコが、ブロッコリーが、更には納豆が、アボガドがよい、とテレビで情報を仕入れた奥様によって、せっせとこれらの食品が食卓に上がるのだそう。人はどのように心に力をもって老いと向き合って生きていくか、とお話だった。

   

喜寿を迎えた12年前にも上梓されている。書きためたエッセイがずっしり詰まっている。俳句と俳画を巻末に。装丁も素敵。「一代」が詰まった、重く、立派な一冊をいただいてしまった。
こうした個人史的な出版物は、先方さんへの関心度が全てかなあ。小説を読む時のようなわくわく感もないし、いつの間にか誘い込まれているという快感もないんだけどね…。一人の大事な人との会話を楽しむ。こういうべきか。ご縁をいただいたお方の来し方、足跡を、ぼちぼち拝読させてはいただいているのです。
「もったいないことをおいいでないよ!」、なんでしょうね…。

ところで、どんなお礼をしたらいいのでしょう。
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花びらが1枚ずつ

2019年03月12日 | こんなところ訪ねて
「今年も鉢植えの椿が花を付けた」「木偏に春と書く椿の花があると、まさにそこだけは春のようだ。夜、静かに本を読んでいるときに、隣の居間で椿の花が落ちて大きな音を立てると、びくっとさせられる。そんなときに早瀬は、里見弴の『椿』という短編を切実に思い出した」

『空にみずうみ』(佐伯一麦)に、こんな一節があった。この作品を読んだ当時は里見弴の『椿』を読んでいなくて、読むきっかけを作ってくれたのでした。

椿寺・地蔵院(北区)の五色八重の椿が見事です。



まだまだ多くの蕾が待機中。「あとひと月はいけそうです。手を入れるといいんやろけどね、どこをどうしたらいいのか、わからんのです。咲いてみなわからんで」とご住職かしら、笑って言われました。

すでにしっかり盛りを迎えている感じで、総身花だらけ。薄桃色や白や斑入りに咲き分けるそうですが、今日はピンク?の花ばっかりでした。


この椿は花ごと散るのではなく、はらり、はらり、花びらが一枚ずつ散るのが特徴の「散椿」。秀吉から寄進されたと言われる初代は枯死。樹齢120年余りになる2世の木だそうな。椿寺。参道も裏手へも、塀越しに背伸びしてみる中庭にも、墓地にも、多種の椿、椿でいっぱい。大きなつぼみが次々開くとき、音を立てるのでしょうか。


忠臣蔵でお馴染みの天野屋利兵衛の墓。
あいにく「忠臣蔵」も「男でござる」も、ようわからん私ですが。
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『月を見あげて』 3.11

2019年03月11日 | 日々の暮らしの中で

雨後の路に、咲き出した沈丁花の香りが漂う。

何冊かの小説を拝読し、山形のライター講座で講師役を務める氏をネット上で追い、また、河北新報の夕刊に連載されるエッセイが本となった『月を見上げて』の存在を知っては第3集まで購入したりと、私は佐伯一麦氏のファンなのです。

東日本大震災のあった8年前の3月11日の夕刊に掲載されたという「柊鰯」が収められ、震災からひと月後、三か月後、1年後、その合間の日々の身辺を綴る中に震災、原発の話題が顔を出す。
「震災からの数日間、街中の灯りが消えた空には、半月から満月に至る月と、満天の星が眺められた」と氏も言われてる。「地上は地獄みたいなのに、見上げると天には星がまたたいていて、星だけは変わらないのかと思った」という閖上に住む氏の知人の言葉もある。震災後を生きる小動物の生態系にも思いを寄せ、原発事故による影響も案じている。そんな第1集にあたるものを読み返していた。

仙台と福島県のいわき市には従妹の家族、叔父夫婦がそれぞれ暮らしている。今日は電話をかけて声を聞いた。叔父は耳が遠くなったが二人揃って暮らせているのはおかげさまだ。連絡を取るために、できることはしてみようとあがいた、あの3月11日から数日のことを思い出す。

    叔父家族を一人訪ねた昭和46年8月の記念。遠くなりにけり…。
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のぞき見た「お水取り」

2019年03月09日 | こんなところ訪ねて

懸崖造りの二月堂の欄干上で、点火された大松明が火の粉を散らすシーンはニュース映像でもお馴染みかと。奈良の早春の伝統行事「修二会(お水取り)」は、その時代じだいの国家の安寧や万民の幸福を願うことを主旨に、1260年をこえて引き継がれ、一度も休んだことはないという。
どこでスイッチが入ったのか、椿が誘ってくれたのか…。昨日八日、初めて「お水取り」に合わせて二月堂を訪れてみた。


内陣(今、見えてはいないが普通は中央に須弥壇)があり、その内陣と礼堂(私たちでは外陣と呼ぶ)は結界する薄い白い布が下りていた。礼堂の周囲3方に局(つぼね)と呼ぶ場所があり、そのうちの正面の所に上がらせてもらう。すでに声明が唱えられ、「日中」の行は始まっていた。座った目の前は、礼堂とを仕切る格子戸で仕切られ、腕一本が通る格子枠に顔を近づけのぞき込むのだが、白い布(戸帳)の向こうでは火が焚かれ、声明が唱えられ、僧が動いていることが透けて見えるのです。

床を打ちつけるものすごく大きな音が響きます。差懸(さしがけ)と呼ばれる沓が立てる音でした。爪先が厚紙で被われ、胡粉で白く塗ってあるという木履。これを履いた僧が内陣から出てきては何があるのか右手の闇の中に消え、また戻る。往復の小走りな足元が打ち立てる音は強く高らかで、せわしげだ。


読経が続く中、内陣から礼堂に出た僧(一人)が上体を大きく動かしたかと思うと、これまた大きく体を落と仕込む…。とまた、あの床を打ちつけるような大きな音が上がりました。等間隔で、激しい所作が格子の向こうで繰り返された。知りませんでした。これが五体投地の行であることを。中は暗いし鮮明ではありません。ただ、局に座った場所から近かっただけに、すごさ、荒さに感じ入っていました。

この修二会に参籠する僧は練行衆と呼ばれ、東大寺と末寺から現在は11名が選ばれるのだそうです。「四職(ししき)」の上位4人と平衆7名から成り、それぞれに役割を担う。3月からの本行に入る前には、身に着ける紙衣(かみこ)の紙を絞ったり、椿の造花づくり、差懸を整えるなどし、やがて11人が起居寝食を共にし、湯茶が制限され私語も許されないという精進潔斎を重ねる。厳しい寒さの折に、火の気は廊下に置かれた火鉢の炭火だけとは。観音菩薩と人々の間の媒介者の役を果たすということで、よほどの覚悟がいるようです。


練行衆は、仙花紙を貼り合わせて木綿の裏地をつけた袷仕立ての「紙衣」と呼ぶ小袖の上に、黒い麻布製の衣を重ね、袴を身に着ける。五体投地で、紙衣の右膝の部分は「一撃で裂ける」と。




ちょうど訪れた8日の未明に本尊が大観音から小観音に変わって厨子が安置された。「本尊が変わったから餅も新旧交代だ」と堂衆さんたちは、「日中」の行のあと運び出し始めました。


袋の中を見たら、と言ってくれます。見慣れた「おけそくさん」など比ではない、10㎝に3㎝?は優にありそうな大きさ、分厚さ。「餅一つを3合の米で、それが1000個」だと言うので、びっくり仰天。

奈良国立博物館で開催中の特別陳列「お水取り」に立ち寄り、再現された須弥壇を拝見。椿の造花の供花が大小の花瓶で2対。そして餅も。のぞき見たお水取り、詳しいことは購入した冊子で教えられています。(内陣と礼堂、衣の写真は冊子より)

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輝いて生きる -中村久子の世界

2019年03月07日 | こんな本も読んでみた

親鸞聖人七百五十回忌となる年だった2011年。11月の東本願寺の報恩講に参拝し、開催されていた「中村久子展」を拝見したことがありました。その展示内容に沿って記念出版された『生きる力を求めて』(東本願寺出版部)です。

中村久子さんは1897(明治30)年、岐阜県の今の高山市に生まれ、1968(昭和43)年、72歳で命終。2歳のとき、左足の甲が凍傷になり、それがもとで特発性脱疽に。3歳のとき両手足を切断、闘病生活が始まります。

【“人を通して言葉(教え)に出遭う”そして“教え(言葉)を通してその人に出遭う”という形で編纂されている。この本は読み物ではない、念仏の教えが無手足の身を通してあらわれている一句をいただくものである。ちょうど、親鸞聖人を通して、久子がお念仏に出遭ったように。久子の苦悩と精進に、人として共感していく時、久子がお念仏の教えによって救(たす)かっていった世界をも共感していける。一句の共感は弥陀の本願に徳分を賜っているからである】(「あとがき」から)


「人知れず泣いたことも幾度あったかしれない」「仕事を中途にして止めることは母に絶対に許されなかった」「どんなに工夫しても、考えてもできず、心の中で母を恨みに思ったことも、幾度とありました」「死の道を考えたことも幾度かあった」




父の心は仏心だったと、限りない感謝の言葉。やさしい祖母の報恩感謝の教え。「あたたかき夕餉の支度いそぐなり早かえりませつとむる夫よ」と夫との暮らし。娘に背負われて。


42歳のとき福永鵞邦氏と出会い、『歎異抄』との出遭いが結ばれる。「煩悩具足の凡夫 火宅無常の世界は よろづのことみなもって そらごとたわごと まことあることなきに ただ念仏のみぞまことにておわします」。赤線が引いてあったという個所が、この他にも紹介されていますが、久子さんが一番よく書いた言葉は「ただ念仏のみぞまことにておわします」だったそうです。

「無手足」の身を自身の事実としてすべて引き受けることができた。そして「人生に絶望なし いかなる人生にも 決して絶望はない」と言い切る。魂の強さ。「どんないばらの坂道であろうとも 人生のどん底生活にも 堪えてくれるのは『魂』なのであります」。
久子さんが身を輝かせて生きた、生き方、力、逆境の転じ方には驚かされます。あらためて数々の言葉に触れました。その生涯は、ページを繰るごとに心を打つものがある世界でした。厄介なことからはいつも逃げては生きてきたこの身。あっ、「賜った座に座せ」の言葉が頭上から…。

先月、西本願寺の聞法会館からの帰りに東本願寺に立ち寄って購入した一冊でした。マイケル・コンウェイ(大谷大学助教)氏の英訳付きを選んだのは読むことを託したい人がいるからです。
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葉にも花にも霊力

2019年03月05日 | 日々の暮らしの中で
2月末が原稿の締め切り。これには20日間の猶予がこっそりつくものでした。
それがわかって、出し惜しみ、でしたが今日、自分なりに決着をつけて全て手元からはなしました。

ああ、楽になったなあ~と実感。明日は啓蟄だと教えられたところです。
また新たに一歩進もうっと。


「椿が赤い」。葉の陰になって、下を向いて、重そうな椿。もう少し顔を上向けてあげたいくらいです。 

奈良の東大寺二月堂では修二会が始まっていますが、1200年来、紅白二色咲きの椿の造花が供花として用いられているのだとか。
和紙の白い紙衣の僧が、この椿を造花して内陣の大きな椿の木にたくさん飾り付けるそうです。
「春を呼ぶ呪力の象徴」、椿。

夜は無理として、お水取の期間中に一度二月堂を参拝してみたいなあ…と思っているのですが。
明日も明後日も、また雨模様。
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志の高さ

2019年03月02日 | 日々の暮らしの中で

温かな一日に、ようやくのこと蕾がほころび始めました。
なんせ老体。幹は空洞に近い老木です。そんな状態で、懸命に生きようとしている真剣な姿です。梅は匂いだけではなく「志の高い木」のようです。


                     ようく見ますと、花は咲いています。

学生時代に同じ研究会で一緒に学んできた一学年後輩のH氏がこの4月から母校の大学の学長に就任します。お祝いの話が持ち上がりました。
入学時に4年生で会の代表を務めていたI氏からの電話でした。もう45年を過ぎる長~いご無沙汰、懐かしく思い出が甦るというには長すぎる空白期間です。

H氏とは彼が京都に公開古典講座で講演に来られた時にお会いした。「教授」になっていた。ずっと一研究者として後進の指導にもあたるだけでなく、「学長」に…。ご苦労さんなことだなあと思います。でもやはり「おめでとうございます」ですよね。そりゃそうですね。「学長」さんになることはエライことなんでしょうね。あまりそういうことには関心がなくっていけません。
お祝いをと言われても別な世界の人のようでもあり、心からお祝いを言えるだけの実感がわかないのです。薄情なのかしら…。




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