日蓮宗の妙覺寺が織田信長の上洛の際の宿所だったことを大河ドラマ「麒麟が来る」の前の前の前あたりの回で知って、近い所だしのぞいてみたいと思っていた。
市営地下鉄「鞍馬口」駅を地上に出ると、そこは烏丸通で、新年の皇后杯女子駅伝で最終区を走るアンカーにタスキをつなぐ地点に近い。
その烏丸通から鞍馬口通を西に入って、最初に左折した(南へ折れる)角に「小松帯刀(たてわき)寓居跡」の碑が目に入った。
この石をぐるりとと回り込むと「薩長同盟所縁(ゆかり)之地」とあり「近衛家別邸 御花畑御屋敷跡」と記されてあった。
このあたりは御花畑御屋敷と呼ばれる摂家の近衛家別邸があったところで、幕末には薩摩の島津家が使用。薩長同盟に先立ち長州から上洛した木戸孝允ら一行がここに宿泊した。その後、竜馬も合流し、小松や西郷らが木戸たちと会見。徳川家による長州征討への対応の合意がなった場所、として最有力地だそうだ。
少し南下して右折。しばらく行くと木造二階建ての素敵な建物が! 京都大学の学生さんの宿舎で、室町寮だった。
窓のカーテンが明けられた部屋が一つあったので、ちらっと見やると窓辺に本棚が置かれているのが見えた。
突き当りを左折で南下、そして西へ入って、進んでいくと妙覺寺さんだった。
目的地に着くまで、初めて歩く筋、筋には様々な出会いがあって、足が何度も止まった。
この広大な境内。正面が祖師堂で、本堂は左手の奥にあって見えない。
先週の大河ドラマを見損ない、明日の再放送を待っている。
比叡山焼き討ちは、日本史上初の「集団大虐殺」に当たると司馬遼太郎さんが「叡山への道」(街道をゆく16)で書かれている。このとき信長は膳所(滋賀県大津市)の山岡対馬守の屋敷を宿所としていた。「信長は世界史的に見てもっとも早い時期に出た積極的無神論者である」、と。
「山上の堂塔は一宇も残さず焼かれ、経巻や文書、什器のたぐいも残らず灰になった」
叡山を見上げた。司馬氏の「大虐殺」と題した個所を読んで、待つわ。